国家のために犠牲になった人たちを追悼する行為は、 他国に干渉されるものではなく、当事国の自由意志で行えるものです。 独立国家であれば、その自由意志が確保されています。 その点では、何ら合衆国におもねる必要もありません。 もちろん、わが国も、他国の追悼の自由を尊重すべきです。 そこで、追悼とは何か。 いわゆる戦犯人も合祀されているところで追悼することは、 その人のしたことを肯定することになると誤解されています。 たとえ犯罪人であったとしても、その人を追悼することは、 その人のしたことを肯定することではありません。 かえって、犯した過ちがあれば、それを反省することが追悼することでもあるはずです。 その意味では、本来の追悼とは、政治や宗教を越えたものだと思います。 この時期にあの場所での追悼は、誤解を広げて追悼の目的でもある不戦の誓いからも外れてしまいます。 そんな時に、合衆国が「失望した」と言ってくれたのは大人だと思いました。 友の言葉には一考の余地ありです。 2013年12月28日
音楽科に所属する知り合いの高校生が、修学旅行でオーストリアのザルツブルクに行って来ました。 「全部よかった!」といつもはチェロと一人取り組んでいる物静かな彼が嬉しそうに帰って来ました。 パソコン画面で写真を開きながら、1時間近く土産話をしてくれました。 モーツァルトの生誕の地、映画「サウンドオブミュージック」の舞台。 そして、「きよしこの夜」が生まれたのも、ザルツブルク近郊の小さな村でした。 1818年のクリスマスイブの朝に、オルガンが故障していることに、オルガン奏者のフランツ・グルバーが気付きます。 しかし、夜のミサまでには、修理する時間がない。 そこに、司祭のヨーゼフ・モールが自作の詩を持って来る。 その詩にギターで曲をつけて歌うことを提案します。 その年は、ナポレオン戦争で疲弊していたばかりか、凶作が重なった年でもありました。 グルバーには、村人の悲しみや苦しみが身に沁みていたのでしょう。 あの旋律が誕生します。かの地で彼が感じたものは、音楽の力だったようです。 2013年12月23日
年の瀬を迎えて、愛知県内では交通事故が急増しています。 ごくごく身近なところで、尊い生命が失われている。 こんな状況を放置している大人として深く反省いたします。 そこで、私たちに欠けているもの。それは自制心だと思いました。 それを慎みと表現できるかもしれません。 いかに速度を自制していくか。制限速度を守ることです。 自制できるためには、意志と技能が必要です。 これは、自動車の運転だけではなく、人間関係にも及びます。 さまざまな人生の場面で、感情や欲を自制できることは必要です。 それができてこそ、人としての成熟があり、大人なのでしょう。 かたや、感情や欲のおもむくままに行動することが自由だと履き違えてしまう。 実は、自制できることこそ、自由なのです。そこには、愛も潜みます。 自制できることは、人を愛することとも言えるでしょう。 そして、毎日のお料理は、同じことを日々教えてくれています。 自制ある火加減によって美味しくなる。 お料理を通じて、成熟した大人を目指して参りたいです。 2013年12月14日
同級生に会うと「スタッフ日記を読んでるよ。」声を掛けてくれることがあります。 しかも、ほめてくれることがあるのです。 そんな時は素直に喜べば良いのですが、いい気になってはならないと気を引き締めてしまうのです。 どうも私には生真面目な性格があります。 今回、こちらがお願いして自分の仕事ぶりを批評してくれた専門家の方がいました。 それは大変参考になり、改善点なども見えて参りました。 しかし、批判的な声とは、自分を謙虚にしてくれますが、明日への力には至りません。 かえって、意欲をそぎ落とす負の力を持っているとも感じました。 自分の度量が小さいだけなのかもしれませんが、やはり自分も人間だと実感いたしました。 それでも、建設的な批判は、大変ありがたいことでした。 そんな経験から、改めて、ほめてくれる人たちに支えられているのだと気づいたのです。 何かをやり続けることができるのは、自分の力と言うよりも、周りの声援があってこそでした。 同級生の仲間たちに、今日も支えられているのです。 2013年12月7日
どこかでいつも自分を見守ってくれていると感じる人でした。 店に買う用事はあまりないものの、ぶらりと店に顔を出してくれる。 大学から実家に入ったころは、いろいろと気にかけてくれました。 若い私の話を、ただ黙って聞いてくれます。 一途なゆえにぶつかることを承知していても、何も言わずにじっと見守っている。 「君の信じることを行いなさい。やってみなさいよ。」 言葉には表しませんが、そんなメッセージが伝わって来ます。 「僕なんか、駄目だから。君がうらやましいよ。」 そんな敬意を言葉にしてくれたこともありました。 昨冬その方が、入院したけれど退院されて元気だと、身内の方から伺っていました。 一度お会いして助言をいただきたいと思いつつも、訃報が入って来てしまいました。 葬儀場では、牧師が座右の銘であった「信仰、希望、愛」を紹介していました。 「僕の助言なんか、いらんよ。君の信じる道を進め!」 変わらず天でもじっと見守りつつ、そんな声が聞こえてくるようです。 石川顕次さん、ありがとうございました。 2013年12月3日
ジョン・F・ケネディー大統領の死は、世界に衝撃が走りました。 その時、大統領も子をもつ親であったことを忘れてはなりません。 その葬儀には、5歳の小さな女の子が参列していました。 大統領の一人娘のキャロラインちゃん。 5歳という年齢は、非常に感受性の強い時であり、その悲しみの深さは測り知ることはできません。 しかし、5歳だからこそ、死んだ事実を直視できたのかもしれません。 そんな時、合衆国という国は懐が深く、彼女を忘れることをしませんでした。 「主よ。彼女を祝福して下さい。」 合衆国中の祈りが、彼女に集中したのだと思います。 そして、五十年の歳月を経て、その祈りは結実いたしました。 合衆国の代表である駐日大使として、わが国に赴任して参りました。 「国家があなたのために何ができるかを問うのではなく、 あなたが国家のために何ができるかを問うてほしい。」 父親の就任演説を実践した人こそ、まさに葬儀で泣いていた女の子だったのです。 悲しむ人は幸いです。その人は慰められるからです。 2013年11月23日
お店を開いて、お客さんが来ないというのは、非常に寂しいことです。 先日、二川宿本陣まつりがあり、中学生たちが野菜やだんごを売る店を開きました。 ところが、当日は朝から雨模様。 午前中の開店時は、雨脚が強くなって参りました。 テントの下では、中学生が待機しているのですが、いつになく人通りはまばら。 仕入れた商品は返すことができません。 そんな時は、暗い雰囲気が漂うものです。 サポートする父兄の私も、武士は食わねど高楊枝のような面持ちで、 自分の心を鼓舞していました。 そんな中で、一部の生徒たちは、雨の中を行商に出掛けます。 初めてのことでも、彼らなりに精一杯の声を張り上げます。 そんな時、地域の人は黙っていませんでした。 そして、天も黙っていませんでした。 午後には晴れ上がり、なんと「完売御礼」に至ります。 じっと耐えるその向こうには、輝く明日があります。 雨の中で行商していた私の息子も、人の情けが身に沁みたことでしょう。 その日は、いつになく早くから眠ってしまいました。 2013年11月16日
あるお客様とのメールでのやりとりで、文章のことが話題となりました。 「良い言葉とは、良い心、良い生活、良い生き方から生まれる」というフレーズを引き出していただきました。 振り返ると、この言葉は、天皇陛下が、水俣病を患ってきた方に対して、 異例の返礼をされたことが導火線だったように思います。 そこで、本棚から天皇・皇后の言葉をまとめた「道」を改めて取り出しました。 皇后の母校である聖心女子学院の記念式典での皇后のお言葉。 日光でオリエンテイリングをしていた母校の生徒たちに出会った思い出を紹介。 「ゴールまで行くと、校長様が待っていて下さいます。」 その時、母校の創始者であるマグダレナ・ソフィア・バラの言葉 「私たちは、生徒たちに対する愛の重さで測られている」を回想。 「待っていて下さいます」という生徒の言葉の弾みから、 先生方の生徒たちにかける愛情の深さを想像して嬉しい思いに浸ったと。 この文章に、はらはらと涙がこぼれて来ました。 もっともっと自分を磨いて行きたいと思いました。 2013年11月4日
私の母の教育哲学なるものを最近知りました。 それは、学費だけは聖域で、人から借りたお金ではなく、 自分で稼いだお金をあてること。 私は3人兄弟ですが、3人とも東京の大学に行かせていただきました。 その学費には、両親の熱い思いが詰まっていたようです。 果たして、それが価値あるお金となったのか。 松下幸之助さんが言われています。 「お金というものは面白いものだと思います。 たとえ同じ金額のお金でも、それをどう自分が手に入れたかによって、 使い方が大きく変わり、したがってそのお金が発揮する値打ちが違ってくるからです。」 本日、中学校のPTAでバザーがありました。 台風の影響で延期となり、関係者の皆さんにはご心配とご迷惑をおかけする形で無事終了となりました。 数字の売上を越えて、そこには関係する父兄の皆さんの、いつにない思いが詰まり、 金額以上に重いお金になったように思いました。 お金の価値とは、数字では推し量れないものなのでしょう。 そこを見極められる人でありたいです。 2013年11月2日
田原で三田会設立準備会の公開講座がありました。 田原と言えば渡辺崋山、三田会と言えば福沢諭吉。 そして、講師は、先祖が田原藩の家老であり塾文学部の教授であった川澄哲夫先生。 4回にわたる初回のタイトルは、「夜明け前『アメリカに憧れる崋山』」 会場には、崋山研究者が居並ぶ中で、30年ぶりに先生のお話を伺いました。 先生は英語の学習塾を開いていて、中学生の時にお世話になっていました。 じっと私の目をみつめてお話をされるのが、当時と変わりません。 阿蘭陀語の原書と訳文を比較して、崋山がどのように理解していたのか。 訳文だけではなく、原書にあたることを求めていました。 当時の人たちが「自由」という概念を正しく理解できていたのか。 そこには、もっと勉強するようにとの先生らしい示唆が伺えます。 先生は、結論をあげてまとめようとはせず、聴衆に考えさせる。 そして、向学心を奮い立たせてくれるのです。 しかも、昭和一桁生まれの先生は、只今「崋山と諭吉」を執筆準備中とのことでした。 2013年10月26日
二川の本陣資料館に宿泊した旅行者に、街の人たちが 自分の街を紹介しながら散策していました。 その名も二川案内人(あないびと)駒屋ふれあい組。 自分の街を語れることは、今の時代が必要としているものでしょう。 大先輩である新渡戸稲造は、「武士道」を通じて英語で日本の精神や文化を紹介しました。 同じく内村鑑三は、「代表的日本人」等を英語で著しています。 当時彼らは、キリスト教を受容しつつも欧米文化とは峻別して、それを批判的に見ていました。 しかも、日本の精神や文化を評価していたのです。 聖書にslave(奴隷)という言葉が出て来ますが、辞書では、 they cannot make their own decisionと説明がありました。 かたや、自由とは、自分で決めることができることなのでしょう。 新渡戸や内村は、その点で欧米の宣教師に従属していたのではなく、 日本人としての自分を持ち、自分で決定できた自由人であったと思うのです。 それは、自分のことを語れたことが裏付けています。 果たして、この時代の人はいかに。 2013年10月19日
中学校でPTAに関わっていますと、さまざまな家庭の現実を見聞きいたします。 そんな中で、子供たちに、こんな重荷を負わせるのは酷だなと思うこともあります。 自分でさえも潰れてしまうかもしれない。 しかし、子供たちを見守っていくしか術はありません。 そんな時、この地域の深刻な水不足で、農業に携わる方の苦労が耳に入ります。 今回はかつてない程の事態だと。 いつも作物に話しかけて育てている方は 「かえって、よい作物ができましたよ。」と意外な答え。 それは、いつも以上に、よく目をかけるに至ったからだと。 「がんばれー」と心を配ると、その思いは作物に通じて立派に育って行く。 そんな話に、子供たちも同じなのだと希望を抱くことができました。 厳しい現実に直面している子供たちにこそ、家族はもちろん、 学校の先生方や地域の方の見守る目は愛情深いものとなります。 やがて、立派な人間に育って行くことでしょう。 けなげに生きる彼らに「がんばれー」と心の中で叫びながら、 じっと見守る隣人でありたいです。 2013年10月12日
中学生の息子の社会科資料集を眺めていました。 戦争の歴史に心が痛むとともに、マザーテレサのインタビュー記事に目が留まりました。 「世界平和のために私達は何をしたらいいですか?」 「家に帰って家族を大切にしてあげて下さい。」 本質をついた名言だと思いました。 そこで、私なりに考えました。 「世界経済のために私達は何をしたらいいですか?」 「会社に行ってお客さんを大切にしてあげて下さい。」 小売業を手掛ける両親が、一人のお客さんに対して、 真摯に接客している姿を小さな頃から見て来ました。 ところが、私の代に及んで、インターネット通販などの事業を手掛けると、 いつしか効率だけを求めてしまいがちです。 そんな時、散歩をしていて、デイケアセンターの前を通りました。 一人の患者さんに、ひたむきに取組んでいる介護士さんの仕事ぶりを見て、 はたと気づかされたのです。 そう言えば、主なる羊飼いも迷える一匹の子羊を探し当ててくれました。 生きるとは、目の前の一人を大切にすることなのでしょう。 2013年10月5日
地元の二川地区市民館で故郷再発見の講座を開催しています。 故郷に縁のある宝塚歌劇団の演出家であった白井鐡造を紹介していました。 戦時中に、わが故郷に疎開して畑仕事をしていた時期がありました。 作物を育てることと俳優を育てることが同じだと気付きます。 自分が丹精込めて育てたサツマイモを他人に売る気持ちにはなれなかったと。 宝塚のモットーは「清く、正しく、美しく」であり、 そこには、女性を崇高な存在と見つめる温かな眼差しを感じます。 宝塚音楽学校では、舞台人としてだけではなく、 人間として花咲かせることを目指しています。 先日宝塚音楽学校の100周年をお祝いしていましたが、 そこまで長く愛されて来た理由も分かる気がいたしました。 白井は、生徒たちに厳しい先生との評判だったそうです。 八十を迎えた昭和55年、「未だ卒業せず」としてNHKの番組で語っていました。 「死ぬまで、もっと勉強して人生を充実して生きたいなと思って考えているのが現在です。」 こんな先生をもった生徒は幸せです。 2013年9月28日
「ユーザーの声」のコーナーで、長岡市からのお便りがありました。 その時、わが故郷と長岡のつながりをお伝えいたしました。 今回、そんなやりとりもあったのか、商用帰りに、引きつけられるように、 長岡の山本五十六記念館に立ち寄りました。 そこで、山本を語る言葉として、「常在戦場」を紹介していました。 平素の生活も戦場の緊張感をもって生き抜くこと。 これは長岡藩主の牧野氏の生活信条であり、長岡の気風を表す言葉でもありました。 この牧野氏は、もともと三河国の出身。 そうであれば、山本の精神の源流は、わが故郷の三河武士にあったと言えそうです。 隅から隅まで観覧した後で、その中央に展示されていたボロボロの鉄の塊に気が付きました。 これは、山本がブーゲンビル島上空で撃墜された時に搭乗していた一式陸上攻撃機の左翼。 ずっと野ざらしにされていて、平成の時代に持ち帰ったのだと。 中央の日の丸も傷ついています。 薄暗い館の中で、一人じっとその翼を見ていると、涙がポロポロと流れて来ました。 2013年9月20日
大河ドラマの新島八重の生き様に、母親の大きな存在を思いました。 女性でありながら、銃を手にしたり、戦いに出たり、キリスト教の信仰をもったりと、 いつも傍にいた母親は何を思い何を考えていたのでしょうか。 八重が襄(じょう)との結婚を決める場面でも、自分で決めたと勇ましく宣言しています。 その時、背後には、その選択を大きな心で見守る母親の存在があったと分かります。 私も、高校時代に信仰を持った時、祖父や祖母の態度には、大泣きしたことがありました。 今日それは理解できますが、当時は、どうして分かってくれないのか。 しかし、母親は違いました。 母親が私の選択を信じてくれていたので、今日の信仰をもつ私があると思います。 ドラマでは、母親が仕立てた婚礼ドレスを八重に渡す場面があり、私は泣けてしまいました。 これぞ母親だと。私は自分で信仰を持ったと勇ましくは言えず、 母親をはじめ周囲の理解があってこそ、信仰に立てたのだと思います。 同じ信仰者として、八重も同じだったと思うのです。 2013年9月14日
当地の水源である宇連(うれ)ダムの水量が深刻な事態となっています。 豪雨が降っている地域があるのに、なぜだろう。 私なりに考えたことは、「水道はどのようにして出来たのか?」 市役所の情報広場で「豊橋市水道五十年史」を開くと、それを編纂したのは 中学校時代の校長である亡き兵東(ひょうどう)政夫先生でした。 改めて先生の偉大さを思いました。 今日の水道の背後には、先人たちの並々ならぬ労苦のあったことが精緻に綴られていました。 その日、このダムから流れる豊川用水を構想されて尽力された 近藤寿市郎(じゅいちろう)さんの銅像がある赤岩(あかいわ)山を訪れました。 すると、銅像の前は伐採された木が放置されたままで、荒れ果てていました。 その時、この地に雨が降らない理由が何だか分かったようでした。 かたや、校長先生のため息と叱責が聞こえてくるようです。 「おまえたちは、いつになったら大人になるんだ!」 そして、水の背後にあったものに思いを致したその日。 雨は降りはじめたのです。 2013年9月9日
今している仕事は、自分に相応しい仕事なのか。 ずっとこのままで良いのだろうか。 もしかしたら、何か新たに踏み出すべきことがあるのでは。 この年になっても、いや責任を伴う年齢を迎えているからこそ、 いろいろと迷うのかもしれません。 高校一年の娘から、夏休みの宿題で自分の仕事のことを尋ねられ、 改めて自分の仕事を見直す機会がありました。 娘も将来どんな仕事をしたら良いのか迷いがあるようです。 私の場合は、両親のしていた仕事を引き継ぎ、 それに取り組んでいたら、あっと言う間に22年が経過して今日を迎えています。 信仰を持つ者として天職を考えます。 「小さいことに忠実たれ」と聖書は教えてくれます。 今目の前にあることに精一杯に取り組んでいるところに、 求めずとも天職が近づいてくるようにも思います。 何をするかではなく、どうあるかを天はまず問うているようです。 ですから、人と比べる愚を犯すことなく、天を見上げて参りたいです。 「私の今日はこれでよいのでしょか?どうぞ私をお役立て下さい。」 2013年9月2日
高山の街を散策して、ふらりと寄ったところが平田記念館でした。 そこには、「女子のたしなみ」というコーナーがあり、 「お客来とお料理、おはきものとお帰りのご挨拶、裁縫、茶の湯、婚礼と膳の運び様、生花と和歌」が イラストで紹介されて、こんな言葉に出会いました。 「女子は陰にして内を治め、男は陽にして外を勤むる事、天地自然の道理也。 陽は昼にして、陰は夜也。然れば女は夜なれば男より物事暗きゆえに 知恵のともしびを照らし、万事滞る事なきよう勤治るべき也」 ひと昔前は、女性に対してこのような教育が施されていました。 今日、女性の社会進出は叫ばれます。 いつしか男女平等の名のもとに、男女の天地自然の道理を見失い、 各々の本分を誤解しているようです。 女性が女性として輝く所は、社会と言うよりも、まず母親となる家庭であるのが自然の道理。 たしなみという言葉すら、もはや風前の灯。 今日の日本の停滞は、女性の社会進出阻害のゆえでなく、 この女子のたしなみが失われたゆえだと考えます。 2013年8月26日
道あるところ、人の労苦があったことを覚えます。 雄大な乗鞍岳の山頂に立ちました。 途中まではバスで行けるのですが、その険しい山道に、 先人たちの労苦を想像いたしました。 経緯を調べてみると、もともと軍用として開発が進む。 それ以前には、篠原無然という教育家が山岳公園にすることを説いて登山道を整備する。 宿泊した国立青少年交流の家には、その篠原無然の詩が刻まれた 巨大版画が展示されていました。 タイトルは「飛騨青年の叫び」。 職員の方に、その作品に感銘を受けたことをお伝えすると、 その詩に節をつけた民謡を朝の集いで披露してくれました。 「ああ偉なるかな飛騨の山、ああ美なるかな飛騨の渓(たに)、ああ清きかな飛騨の水」 ちょうど、その日は終戦記念日でした。 平和を享受する人は多いものの、そのために労苦した人を知るものはわずかでしょう。 同じく乗鞍登山を楽しむ人は多いものの、篠原無然を知る人はわずかでしょう。 「名は無くても然り」なのか最後は安房峠で凍死したそうです。 2013年8月17日
朝のスタッフ会議をしていた時に、震度4の地震が発生しました。 当地は、私が小学生のころから東海地震を想定していて防災減災に取り組んでいます。 プレートテクトニクス理論によると、地表の岩石層であるプレートが重なり合ったところで歪みが生じて、 その歪みが解放する時に地震が起こる。 記録によると、この地域では、100年に1度の周期で大地震が発生しており、 前の大地震から推測すると、いつ歪みが解放されてもおかしくない状況。 そんな時、何ができるのか。 ちょうど、ある会合で豊橋技術科学大学に赴任されたばかりの教授にお会いする機会がありました。 先生は、建物の耐震性に関する専門家で、東海地震は必ず起こると断言されていました。 先生の研究室を訪ねると、先生も防災のために当地で何かできないかと模索されていました。 先日の地震は、「大地震に備えなさい。」そして、「互いに協力しなさい。」と 天から声がかかったようでした。 そして、相応しい協力者も、天は事前に備えてくれています。 2013年8月12日
いつの間にかメール社会となってしまいました。 しかし、メールも諸刃の剣であり、扱いには注意が必要です。 ミスをしてしまった時には、メールだけで済ませず、 すぐに電話をしたり、葉書を書いたりすることも必要です。 直接お会いしてお詫びする事態もあるでしょう。 そんな折、年下の知り合いから、土壇場で欠席のメールが入りました。 本人としては、連絡したので、それで良しとしているのでしょう。 しかし、受け手の私は、メールだけで済ませる態度に感じるところがありました。 このような時は、最低でも電話をする。あるいは次回会った時にはお詫びする。 便利なメールによって、礼儀なるものが、人としての心が失われてしまったように感じます。 そんな時、「弟として扱おう」と寛容になるように努めているのですが、 やはり、それだけでは、その寛容は的外れです。 弟であればこそ、助言をしてあげるべきでしょう。 その時は、自分の感情を入れず、きちんと話せると良いのですが、 まだまだ人間できていないと反省する今日です。 2013年8月5日
しばらく眠っていた母校豊橋南高校の応援団団旗がついに復活いたしました。 2年前の開校40周年記念の同窓会総会には、この団旗を掲げようとしたのですが、成らず。 旗が大きくて、会場のホテルには収容できなかったのです。 そこで、応援団OBを取り仕切る先輩は、じっと考えます。 なんとか、方法はないものか。 その時、別のポールがあったことを思い出します。 高校の倉庫にそれがありました。そのポールは高さが調整できます。 それでも、会場内では垂直にあげることはできず、やや斜めになってしまいます。 しかし、まずは掲げることだと決断して、今年の総会に、ついにお目見えとなりました。 演技がはじまると、勇壮と団旗が入場。旗手が高く掲げると、やはりぞくぞくとしました。 その時、旗の力を感じました。 旗のもとで、みなが一つとなり、みなの士気を高めてくれる。 日本海海戦のZ旗もそうだったのでしょう。 「各員一層奮励努力セヨ」青春時代の団旗が、時空を越えて、 今日責任を負った我らを鼓舞してくれたのです。 2013年7月30日
教会で結婚式がありました。 準備の段階からお手伝いに加わっていましたが、 今回は父親がエスコートせずに、花嫁が一人でバージンロードを歩くことになります。 お父さんはご健在なのですが、結婚式に参列されるかどうかも分からない状況がありました。 込み入った事情があるものの花嫁は包み隠すことなく、私たちにありのままを語ってくれました。 その態度に花嫁としての輝きを感じました。 当日の式でも、花嫁の友人が祝辞で、花嫁は花婿に対して、 自分の過去を語ることを覚悟されてきた裏話を披露してくれました。 そういえば、私たち夫婦も同じことをして来たなと振り返りました。 その告白は、決して敗北ではなく勝利であり、大人への門であるように思います。 信仰の世界でも、その始まりは罪の告白からでした。 そのような告白ができることこそ結婚の条件であり、結婚の最終試験のようにも思われます。 そして、それを受け止めてくれる存在に出会ってこそ、 人は花を咲かせることができ、花嫁は花嫁となれるのでしょう。 2013年7月22日
同じ県内の中学生の転落死がマスコミで大きく取り上げられて報道されています。 自殺であること、いじめが原因であることが確定していないのに、 それらがすでに既成の事実になってしまっているようです。 一連の報道には、周りの子供たちのことが考慮されていません。 しかも、子供たちに取材をする。 それはマスコミが本来行うことではなく分を越えています。 結局そのような報道は、責任不在となり、憶測を膨らませて噂を呼び込むだけで、 真相とはかけ離れたものとなりがちです。 そうなれば、もはやゴシップ記事と同じで、興味本位のものに成り下がっているのです。 その姿は、マスコミこそが、子供たちをいじめているようにも見えてしまいます。 取材する権利があると言うならば、子供たちにも落ち着いた環境で教育を受ける権利があるはずです。 学校側も、取材を延期する、時には拒否する等の強い意思を示す必要があるでしょう。 子供たちを守るため、真実を追究しつつも、心ないマスコミには毅然と真摯に立ち向うべし。 2013年7月15日
子供たちが自分で意思決定できることを望みますが、 それは子供たちに責任を丸投げすることではありません。 私も中学3年生の娘には保護者会で 「自分のことだから、自分で決めなさい。」と言ったことがありました。 しかし、それは親として少々無責任だったかなと反省しました。 やるべきことをしていない、何か足りないものを感じたのです。 私の家内は、それに対して、ある程度の選択肢を与えてあげることだと言っていました。 それぞれの進路の先にある将来の見通しなどを親の経験から助言してあげる。 また、親がその子に相応しいと思われる進路とその理由も提示してあげる。 そのことが親の務めであり、そのような前提があってこそ、最終的に自分で決めれるのだと。 すると、義母は教えてくれました。 「中学生と高校生では違って来ますよ。 高校生では、親の介入を少なくして、さらに自立を促してあげること。」 その子供の成長にあわせて加減して行く。 親は苗木が倒れないように、一時的に支える添木のような存在なのでしょう。 2013年7月8日
中学校のPTAで、明日の子供たちを考える講演会を開催しました。 講師は物語コーポレーション会長の小林佳雄(よしお)さん。 タイトルは「潜在能力開花は意思決定から」。 小林さんは、自分で意思決定できることを強調されます。 お話を伺う中で、自分で意思決定できるためには、 その決定を受け入れてくれる大きな存在が必要だと感じました。 それが、まず親であるのだと。 企業経営で開花した小林さんにも、ビッグママなる存在がおられました。 九十を越えて今日もご健在と伺いました。 すると、親と言う漢字のつくりを思い出しました。 「木のそばに立って見る」 親は、少し離れたところで、じっと子供を見守っている。 その温かい眼差しを通じて、子供たちは自分で意志決定できるようになるのでしょう。 そして、私と小林さんには共通点があることにも気が付きます。 それは、商売人の母をもつことでした。 会の終了後に、小林さんに「お母さんと意思決定の関係を調べると面白そうですね。」 すると、「それ、あなたがやってみてよ。」 2013年7月1日
大河ドラマ「八重の桜」では、鶴ヶ城の悲劇が刻一刻と迫っています。 西郷頼母が再三にわたり、藩主松平容保に直言している姿には心打たれます。 家老とは藩主に盲従するのではなく、藩と国家全体を見据えて、 時に藩主とは意見を異にしても命を懸けてまで語るべきことを語る。 そして、意見を異にしても、戦う時には全力で戦う。 次回、頼母の家族、母・妻・妹・娘たちは、自決を遂げることになります。 そして、長男と二人生き残った頼母の運命は過酷です。 しかも、追い打ちをかけて長男が病死。頼母は一人残されます。 そんな頼母と結びついたのが、海軍の井上成美提督です。 井上も米国との戦争には終始反対していました。 ところが、海軍兵学校の校長として生徒たちを戦火に送り出す。 そして、一人残されます。戦後は、ひっそりと田舎で貧しい生活に甘んじるのです。 それは、どれほど重苦しい日々なのでしょうか。 それでも最後まで生き抜いた二人には、生かされている者の責任と生きることの重さを教えられます。 2013年6月24日
安倍内閣の成長戦略に疑問を感じました。 「一般医薬品のネット通販の全面解禁」が目玉として報じられますが、 これは経済の成長ではなく縮小させる危険性もあります。 それは、購入の場が変わるだけで、新しい富を生み出すものではないからです。 既存の富の奪い合いとも言えます。 かえって、現状のネット通販では価格競争に拍車をかけてしまい、 メーカーや小売店の利益は圧迫されかねません。 本来の成長戦略は、いかにメーカーや小売店が利益を確保できるかに焦点を当てて、 行き過ぎた価格競争を止めることにあります。 そのために、同業者同士の組合や連携を奨励して、業界全体の繁栄を目指すことだと考えます。 それは、消費者利益に偏重する状況を正していくことです。 そして、成長戦略の一丁目一番地は、規制改革と言うよりも、 民間業者の自助努力を促すことと表現すべきでしょう。 民間業者が政府に依存せず、独自の成長戦略をもって立つ。 独立心に富む人材を養成する戦略こそ今日必要です。 2013年6月15日
長年お世話になった先生の葬儀に参列しました。 先生は昭和一桁生まれでしたから、その生涯は波瀾万丈であったと想像します。 しかし、その先生を支えていたのは奥様だと思いました。 私の結婚式には、ご夫婦で駆けつけて下さいました。 先生の事務所で奥様がお茶を入れて下さった所作が未だ記憶に残ります。 私の中では仲睦ましいご夫婦でした。 ところが、奥様が認知症となり施設に入所します。 先生も一人暮らしとなり、やがて体を患い入院するに至ります。 そのご夫婦が、離ればなれになって、分かれて生活していることに、心が痛みました。 私が夫婦ソングとして聞いているナオト・インティライミの「夏音」に 「もしも君が、つらかったり悲しみに暮れそうな時は、 すぐに飛んで行って君のこと抱きしめてあげるから」 この歌にお二人が重なったのですが、歌詞通りにはならない重い現実に、 人の世の冷酷さと人間の孤独を思いました。 ありし日の先生を偲ぶと、私にとっては、ますます信仰の価値が浮かび上がりました。 2013年6月11日
ぶらぶらと散歩をしていますと、御年配の方が作業をしていました。その方は、御近所の方が気持ちよく散歩できるように、道をひとり整備していたのです。挨拶すると「どこかで顔を合わせたことがあったかね。」そこから、会話がはじまりました。その方は、以前自治会長をされていた方でした。住民同士で利害の相反する問題があった時に、御自身が中に入って執り成します。時には、脅迫を受けるなど、身に危害が及びそうな事態もあったようです。 しかし、その方は、住民たちが互いに気持ちよく挨拶できる関係を求めていました。 その方の手法は、相手の立場を尊重しつつ、相手にも一方の立場を推し量ってもらうことでした。 最後は、損害を受けた方が、賠償請求をすることなく退きます。 その背後には、その方の街を愛する熱い説得があったゆえでしょう。 その結果、街の平和が保たれました。理不尽なことがあっても堪えてくれた人がいた。 みんなの幸せを常に考えている人がいた。わが街を誇りに感じた深く尊いお話でした。 2013年5月31日
新聞を読んでいて、嬉しい記事がありました。 飯島勲参与を北朝鮮に派遣したことに対する安倍首相の国会での答弁です。 「拉致問題については、日本が主導的に解決をしなければ、 残念ながら他の国がやってくれるということはありません。 日本の判断として行うこともございます。」 これまでの日本の外交は、周辺国との協調を重視したためなのか、 国家としての意志を感じることが少なかったと思います。 あるいは、協調とは名ばかりで、他人任せで自分をなくしてしまったのかもしれません。 それは、現在の日本社会を象徴しているようです。 他人任せ。そこには、自分の選択、自分の意志がありません。 もちろん、自分で責任を取りません。それでは、解決に至らないでしょう。 自らの問題を自らの問題として腹をくくる。 そこには、強い意志があるのです。 あの答弁には、国家としての意志を強く感じました。 日本は誇り高き独立国家。 偉大な先輩たちが命懸けで示してくれたように、今こそ日本は自らの足で立ち上がる時です。 2013年5月25日
公職につく者は、自分の発言には細心の注意を払う必要があります。 マスコミを経由すると、その発言の一部分だけを切りとられて、 前後の脈絡がないままに意図しない発言にされてしまうこともあります。 昨今のツイッター等での短文またはワンフレーズが流行となれば、ますます誤解はつきまといます。 複雑で繊細な政治外交問題などに関しては、特にこの点での慎重さが求められます。 マスコミとの信頼関係も必要ですが、ぶら下がりでの発言も一考の余地ありでしょう。 大阪市長の発言にしても、慰安婦を容認している訳ではなく、 時の政府を擁護する国益にかなう発言でもあるのでしょう。 それが、いつしか女性や米国を蔑視する発言と受け取られてしまう。 そして、市民の側も、ワンフレーズだけで判断するのではなく、 発言者の真意を知る努力が必要です。 新聞報道では見出しだけではなく、全文を読みこなして真意を理解しようとする態度も必要です。 真実を知る行為とは、鵜呑みにすることではなく、主体的なものです。 2013年5月20日
新緑の季節は、山が私を呼んでいるようです。 良く晴れた日に、住居の裏にある松明(たいまつ)山に登りました。 標高258メートルの山頂は、素晴らしい眺望が広がっていました。 その眺めに気をよくしたのか、何かに誘われるように、 さらに東に向かって、山頂伝いの道を歩いて行きました。 すると、絵馬と同じサイズの木の板が、人の目線と同じところに、 針金のようものでくくり付けられていました。 何かなと目を運ぶと、「天気が良いと、ここから富士山が見えます」 と手書きで書かれてありました。 加えて、そこから見える富士山がクレヨンで描かれていました。 前方をよく見ると、その絵と同じ光景があり、そこに富士山が浮かんでいたのです。 知らなければ通り過ごしてしまうところでした。 そんな案内板に、作り手の暖かな気持ちが伝わってきたのです。 情報という言葉は、「情」が付いているのが何だか分かったようでした。 フライパン倶楽部も、文字通りの情報をお伝えして、 この案内板と同じような存在になれればと思いました。 2013年5月13日
家内と映画「リンカーン」を観に行きました。 リンカーンの妻メアリーは、悪妻だったとも言われますが、映画では心打たれました。 世間で悪妻と耳にしたら、一考する余地があると思います。 大河ドラマで放映されている新島八重もその典型かもしれません。 青山学院等のメソジスト教会の創設者でもあったジョン・ウェスレーの妻も 悪名高いのですが、その真偽は定かではありません。 いや、すべての悪評は自分が身に受けて、夫を高めることに徹していたのかもしれません。 メアリーは幼くして息子を失い、もう一人の息子が戦場に向かうのです。 「もう十字架は背負いたくない」夫婦喧嘩のシーンは迫真の演技でした。 「誰もが自分の重荷に一人で向き合わなければならないのだ。」 戦争の犠牲者とは、戦地で亡くなった人たちだけではなく、 銃後で祈っていた女性たちであったことも分かります。 リンカーンが暗殺されて映画は終わりますが、その後のメアリーが気になりました。 負いきれない十字架こそ、主はともに担って下さいます。 2013年5月6日
わが故郷の宝でもあった高校教師が、体罰問題で退職に至りました。 この事態は先生方だけではなく、父兄たちも反省しなければなりません。 そんな中で、中学校の先生方と懇親会がありました。 会食の後には、二次会でカラオケへ。 私は、昨年の同じ会で生まれてはじめて、カラオケを体験しました。 若手の女の先生方が、「会いたかった、会いたかった、会いたかった、イエス!」 と手をあげます。 男の先生方は全力疾走という感じで 「TRAIN-TRAIN 走って行け TRAIN-TRAINどこまでも」 そして、音楽の先生はこぶしを利かせて「津軽海峡冬景色」 校長先生は、アリスの「チャンピオン」で渋い歌声を響かせます。 そのうち先生方が整然と並んで「栄光の架け橋」を合唱。 私はタンバリン片手にサポートしていましたが、 校長先生の誘いで、いつしか肩を組んで「愛は勝つ」を熱唱。 最後の締めは、還暦を迎えた重量級の先生が、橋幸夫の「夢をいつまでも」 時計を見ると12時前。竜宮城にいたような、先生方と心通うひとときでした。 2013年4月29日
桜満開の日に、山崎章郎(ふみお)先生が豊橋にやって来ました。 「在宅ホスピスケア」の講演会でしたが、遅刻したため、 ほぼ満席の会場で一番前の席だけが空いていました。 少々罪悪感を感じながらも、そこに座ると、先生が私に尋ねました。 「安楽死を求める人がいるのは、どうしてですか。」 返答できず、ズバリ「ケアが足りないからです。」 それは、先生の運命を変えた『死ぬ瞬間』の著者である キューブラー・ロスさんにお会いした時に教えていただいたこと。 遅れて特等席に座った者の義務として、最後に先生のお話への感想をお伝えしました。 「スピリチャルケアとは、自分の意志で自分のことを決められるようにして あげることだと思いました。また、ホスピスでお世話になる前に、 普段の生活の中で、人を思いやることが大切だと気が付きました。」 別れ際に先生が声を掛けてくれたので 「あの日も桜満開でしたね。桜を待ちわびた患者さんのNHK特集を思い出しました。」 命は短くとも、美しい花を咲かせることができます。 2013年4月20日
私が住んでいる二川という街を知るために、九十を迎えるおばあさんを訪ねました。 御自宅は、古い街並みを残す通り沿いにあります。 明治に建てたというその御屋敷は、おばあさんの歴史よりも古いのです。 当時、製糸工場を経営されていて、応接室として使われていた部屋に通していただきました。 その時、上に目を移すと、立派な額がありました。 「練習ハ不可能ヲ可能ニス 信三」 塾の大先輩の書に驚きとともに嬉しくなりました。 この言葉は、昭和に生まれたものですが、この街の人たちの心には強く響いたのでしょう。 何も産業のない街から製糸工場が生まれ、製糸が立ち行かなくなると 今度は醸造会社に鞍替えする。努力に努力を重ねて来た軌跡からも分かります。 おばあさんは、気品ある姿でかくしゃくとして当時のお話をして下さいました。 その姿に、この御屋敷を今日まで残されて来た理由が見えて来たようです。 それは、建物というよりも、そこに宿る精神を継承してもらいたい。 先人たちの熱き思いが伝わって来ました。 2013年4月13日
春の小川に目をやると、魚たちが楽しそうに群れをなして泳いでいます。 さながら、シンクロナイズドスイミングの演技を観ているかのように、 魚と魚の間には絶妙な距離が保たれています。 最近、人との距離を反省することがあります。 相手に対して、関わり過ぎてしまったり、 逆に冷淡過ぎてしまったりと、その加減を誤ってしまうのです。 会話をする場合にも、距離は重要です。 近づき過ぎても、離れ過ぎても、会話は成立しません。 その相手との関係でも違ってくるでしょう。 その距離感は失敗しながら経験的に学んで行くべきものですが、 要諦は自分の立場をわきまえて相手の立場を理解することだと思います。 人との関係につまずいたら、自分を見失っていないか、 相手への思いやりに欠けていないか反省してみたいです。 末永く気持ち良いお付き合いをするためには、相応しい距離を保つことでしょう。 魚たちが、どこまで行ってもぶつかることなく美しく泳いでいる。 人間は相手との距離を、魚たちから学ぶ必要がありそうです。 2013年4月6日
今年は、桜満開の中で、イースター(復活祭)を迎えます。 日本で迎えるイースターには相応しい年となりました。 クリマスの讃美歌も素晴らしいですが、イースターの讃美歌も素晴らしい。 英語のタイトルは「Because He Lives」ですが、 日本語では「主は今生きておられる。我がうちにおられる。 すべては主の御手にあり、明日も生きよう主がおられる。」 先日、英語圏の知人から、英語の歌詞を教えてもらい、また違った味わいがあり、 大変新鮮に感じました。同じ歌でも翻訳によって味わいが違うのです。 「Because He lives, I can face tomorrow.Because He lives, All fear is gone. Because I know He holds the future,And life is worth the living just because He lives.」 日本語に比べて英語では、主が生きているゆえの結果が強調されていました。 明日に立ち向える。恐れは去って行く。生きる価値が表出する。 より主体的であり、信仰のあり方が直截に表現できていると感じました。 英語を通じて、さらにこの歌が好きになりました。 2013年3月29日
私の子供たちがお世話になる中学校は、荒れた時期もあったようです。 中学校近くのコンビニ店では、生徒たちの入店を禁じたこともありました。 ところが、ここ数年は、激変しています。 それは、それまでの先生方や父兄たちのご苦労がようやく実を結んだとも言えますが、 現役の先生方が一致結束して学校作りに取組まれた賜物だとも言えます。 人作りは、まず環境作りから。予算が限られる中で、建物の老朽化は進みます。 先生方が真剣になると、地域の方が黙っていません。 次から次へとサポーターが現れます。時には、パワーショベルとともに。 ある人は言われたそうです。「あんたらが頑張っとるから、俺らも頑張る。」 このように環境が整備されていく中で、新年度のPTAの方針を話し合って出て来た言葉が 「誇れる中学校」。 無私の精神で生徒たちのために支援いただける中学校に相応しいでしょう。 また、歴史ある街であり、本来は誇れるものが溢れています。 それでも、まずは、誇りある父兄として襟を正したいです。 2013年3月23日
中学生の娘の卒業式で、校長がまず語っていたのは、正直たれ。 それは、父兄の胸にも響きました。 時同じくして、先月七十周年のニ・ニ六事件で狙撃された 鈴木貫太郎元首相の遺訓がテレビで紹介されていました。 「正直に、腹を立てずに、たゆまず励め」 そこで、「正直の詩」が生まれました。 正直でなければ、人からの信用を得ることはできない。 正直でなければ、物事の本質を見ることはできない。 正直でなければ、自分を生きることはできない。 正直でなければ、天国に至ることはできない。 すなわち、正直でなければ、自分と人と天を欺いている。 やがて、行き詰まる。 お金や物のないことが問題ではない。 だから、正直になれば、人は助けてくれる。 正直になれば、真実が見えてくる。 正直になれば、自分を生きることができる。 正直になれば、天国の扉は開かれる。 正直になれば、聞こえて来る。ごめんなさい。ごめんなさい。 正直になれば、響いて来る。ありがとう。ありがとう。 すなわち、正直になれば、道は開かれる。 2013年3月16日
田原文化会館でPTAの研修会がありました。 ホールの舞台幕には、渡辺崋山(かざん)の立志の光景が描かれていました。 それは、崋山十二の時。 東京日本橋で大名行列とぶつかり、その一行からひどく打ちのめされる。 その行列の主は、自分と同じ年頃の若殿。 身分の違いだけで、辱めを甘受しなければならないことに発奮。 これより崋山は、学問の道を志します。 改めてこの光景を思い巡らした時に、称賛すべきは崋山だけではなく、 周りにいた人たちだと気が付きました。 不条理な出来事があった時に、人間は腹を立てて自暴自棄になりがちです。 しかし、それに堪えて、崋山は前を向くことができた。 それは、教育環境に恵まれていたゆえでしょう。 やがて、崋山は、二十六の若さで学問振興を内容とする 藩政改革を上申。しかし、却下される。 「見よや春 大地も亨(とお)す 地虫さへ」 この時も、今日は地虫のように卑小な存在でも、明日を待ち望むことができました。 その周りには、崋山の鑑たる名もなき人たちがいたのでしょう。 2013年3月9日
最近、わが家で「レ・ミゼラブル」がブームとなっています。 まず、長女が友達と映画「レ・ミゼラブル」に行ったことがきっかけでした。 家内に誘われて、久し振りに私も映画館へ。 続いて、次女と長男も興味をもちはじめ、それを良いことに、 今度は私が彼らを引き連れて再度映画館へ。 実は、子供たちがまだ小さい時、仲間と一緒に「レ・ミゼラブル」の舞台劇に 挑んだことがありました。 台本は私がまとめて、私はジャベール役、家内はBGMを担当しました。 子供たちにも当時の記憶が残っていたのでしょう。 年頃になって、ますますこの物語に引き込まれた様子でした。 映画の中で、私がしびれた台詞がありました。 それは、ジャン・バルジャンが、コゼットを守ることを「MY DUTY」と語ったその言葉です。 そのジャン・バルジャンと重なったのが、ネルソン提督です。 トラファルガーの海戦でナポレオン軍を撃退した時に、自身は銃弾に倒れて絶句します。 「THANK GOD,I HAVE DONE MY DUTY.」 私もそんな最後を迎えたいものです。 2013年3月4日
北朝鮮の核実験などの報道に、世の終わりを想起します。 ただ、人間は誰しも終わりのある存在ですので、 より真摯に向き合うべきは、自分の終わりの方にも思えます。 世の終わりに直面することはないかもしれませんが、 自分の終わりの方は確実に訪れます。 その意味でも、世の終わりに心騒がすよりも、自分の終わりを直視すべきなのでしょう。 信仰者たちも黙示録を開いて、終末について議論をします。 ただ、歴史的に見ても、その議論だけでは不毛のように感じます。 私の聖書解釈では、「明日のための心配は無用です。 労苦はその日その日に十分あります。」という主の言葉より、 明日よりも、まず今日を精一杯生きることに目を留めたいのです。 終末への態度を教えるテサロニケ人への手紙には「静かに仕事をしなさい。」 信仰者マルティン・ルターの言葉が心に響きます。 「たとえ明日世界が終わろうとも、私は今日リンゴの木を植える。」 明日は分かりませんが、今日できる自分の務めを淡々と果たすのみです。 2013年2月22日
それは、大晦日の朝のことでした。 東京から弟家族が実家に戻っていました。 義妹が朝食をとろうと赤ちゃんの甥を弟に渡した時でした。 それはそれを大泣きをする。 すると突然、ぴたりと泣きやむ。 そして、全く反応がなくなってしまった。 「あれ、息していないよ。」 弟夫妻もその場にいた両親も顔面蒼白で、まさにパニック状態。 それでも、一番冷静であった母が救急車を呼ぶことができた。 幸いに、赤ちゃんは意識を取り戻すに至ります。 事なきを得て、すぐに病院から帰って来ることができました。 その日の午後、そんな経緯を知らずに私が実家に出向くと、 母が開口一番「もう大変だったよ!」 義妹は、何とも言えず独り幸福感に浸っている様子で、甥をじっと見つめていました。 そばにいた甥はあどけなく、嬉々としていました。 そして、その顛末のあった家の中は、ひだまりのような温かく優しい空気が流れていたのです。 甥は何か大きなものに包まれているようでした。 今日は、そんな甥の1歳の誕生日。尊き命に幸多かれや。 2013年2月15日
体罰という言葉は、人によって意味合いが違っている言葉ですので、ここで整理してみます。 学校教育法11条で禁じられている体罰の法務省の見解は、 「身体に対する侵害を内容とする懲戒」および「被罰者に肉体的苦痛を与えるような懲戒」 ならば、身体に対する侵害とは。 裁判所の判例によれば「状況に応じ一定の限度内で懲戒のための有形力の行使が許容される」 有形力行使を全面否定はしていません。 ここで、より本質的なことは、このような条文解釈の論争ではなく、 教育の目的の見地から改めて考察することでしょう。 すなわち、学校教育の目的は、学校教育法21条で規定された 「自主、自律及び協同の精神、規範意識、公正な判断力並びに公共の精神に基づき 主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと」 このような人間に育てる責任と義務が学校にはあるのです。 そのためには、優しさと厳しさの両面が必要なのでしょう。 どちらにも偏ってはならない。どちらかに偏ることが我が国の弱点です。 2013年2月8日
蒲郡のリゾート地ラグーナにあるマンションから三河湾を眺めていました。 よく晴れた昼下がりの静かな海。 そこは、都市デザインを手掛けている退官教授のお住まい。 その方のテーマは、「風土と伝統を活かして未来を創る」 もともとは千葉県のご出身ですが、お仕事を通じてこの地にやって来られました。 「東三河は、素晴らしいところだ。頑張りなさい。」 わが故郷の風土を称賛しながら、中国茶を振る舞って下さいました。 もともと、その方との出会いは、街づくりの会合で、 「街づくりは、みんなのため」と言う私の発言がきっかけでした。 父親と同世代で、今後は若手を育てたいとの親心ゆえか、 見ず知らずの私をお住まいに招待して下さいました。 「海浜では、青系の色を建物には使用しない。 主役である空の色、海の青の美しさを阻害しないため。」 その色使いには本質が潜みます。 後日お礼状の返礼がメールで届き、添付写真は当日の三河湾に沈む夕日でした。 そして、「じっくり取組んで下さい。」じっくりが心に響いています。 2013年2月2日
新聞を読んでいて、目に飛び込ん来た名前がありました。 「文司郎」どこかで聞いたことがあるなあ。 しかも、豊橋市出身で自分と同じ年齢。 アルジェリアで武装集団に襲撃されて亡くなったとありました。 私の中で、この名前が駆け巡ります。 「そうだ、幼稚園時代の友達。」 白髪のお母さんの写真入りのコメントもありました。 「子供のころはかくれんぼが好きでよく遊んでいた。 だから、どこかに隠れていて出てくるような気がする。」 もしかしたら、文司郎君とかくれんぼをしていたのは私かもしれません。 仔羊幼稚園の文集「はるのめ」を取り出すと、文司郎君の写真入りの文章がありました。 お父さんが東京で待っているので、会えるのが楽しみだという内容でした。 アルジェリアからの飛行機は、同じく東京に到着したそうですが、 今度の再会はあまりにも酷く悲しいものとなりました。 かの地で彼は彼なりに自分の務めを果たし終えたのでしょう。 「もういいかい。」 「高津、おまえは、まだやることがあるぞ。」 そんな声が聞こえて来るようです。 2013年1月26日
義弟の結婚式があり、家族で札幌の教会を訪れました。 そこは、私たちが婚約式を挙げた教会でもありました。 津軽訛りのある牧師は、小児麻痺で両足に障害がありました。 しかし、奥様がおぶっては移動する。 そのお二人は、まさに一心同体で、いつも明るく溌剌とされているのです。 身をもって夫婦とは何かを教えていただいたようでした。 そんな牧師でしたが、数年前に召されてしまい、 今回はその牧師のいない教会を訪れて、やはり一抹の寂しさを覚えました。 それでも、息子さんが引き継ぎ、教会員が互いに助け合っている姿をかいまみました。 当時、私には結婚に対する大きな不安がありましたが、 この婚約式を通じて勇気をいただいたことを今さらのように思い出しました。 最後の締めには、「フレーフレーよしひさ」とみんなで激励してくれました。 今回、その時の応援団長に会い、「あの時のエールに支えられています。」 いつしか、自分の結婚の原点に帰る時ともなり、 義弟を祝福したつもりが、自分が祝福されて帰って来ました。 2013年1月21日
大河ドラマ「八重の桜」と映画「連合艦隊司令長官 山本五十六(いそろく)」が同じ日にテレビで放映。 会津藩主・松平容保(かたもり)は、ペリー来航時に、米国とは戦わず開国和親を進言します。 同じく、山本五十六は、ドイツとの三国同盟を忌避して、米国とは戦えないことを進言します。 容保の意見は容れられ、米国との衝突は回避。日本は独立を保持します。 ところが、どこまでも幕府に忠実な容保は、会津藩の悲劇を招きます。 かたや、五十六は自分の意見が容れられずとも、米国との戦いでは最前線で指揮を執るに至ります。 そして、自らは空に散り、大きな悲劇を招きます。 二人とも周囲の空気には流されず現実を見据えていました。 しかも、結果が不本意なものであったことも重なります。 すると、吉田松陰の歌が思い出されました。 「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」 二人にも、その悲劇は予見できたのかもしれません。 然らば何故。それは、明日の世代への継承を見据えていたのでしょう。 2013年1月14日
雑誌「文芸春秋」の特集で「激動の90年、歴史を動かした90人」を紹介していました。
その中で、心に留まったのが、松下幸之助さんでした。
そこで、新年を迎えて、幸之助さんの著書が無性に読みたくなりました。
そこに、新しい年のヒントがあるように思えたのです。
早速書店で随想集「道をひらく」を購入してページを繰りました。
小タイトルは「道」。
「自分には自分に与えられた道がある。天与の尊い道がある。
どんな道かは知らないが、ほかの人には歩めない。自分だけしか歩めない、
二度と歩めぬかけがえのないこの道。(中略)
他人の道に心をうばわれ、思案にくれて立ちすくんでいても、
道は少しもひらけない。道をひらくためには、まず歩まねばならぬ。
心を定めて、懸命に歩まねばならぬ。それがたとえ遠い道のように思えても、
休まず歩む姿からは必ず新たな道がひらけてくる。深い喜びも生まれてくる。」
この言葉が心に響いたのは、幸之助さんに少しは近づいているのかもしれません。
新しい年、私の道を歩んで参ります。
2013年1月4日