フィギュアスケート女子の五輪代表争いは、熾烈な競争と報道されていました。 同郷の鈴木明子選手は、軽快に滑っていたのですが転倒。 「あ〜」という溜息が私の口からも。 しかし、変わらず笑顔で立ち上がります。 そして、ウエストサイド物語の軽快なリズムにのって、楽しげにスケーティング。 フィナーレを決めると、日本では稀なスタンディングオベーション。 点数が出る前から、私の目頭も熱くなりました。よくぞ、やってくれました。 滑れるだけで幸せと語っていた彼女は、大好きなスケートを楽しんでいたのです。 しかも、天からのご褒美。大逆転で五輪の切符を手にします。 何もかもが競争となって、本当に大切なものを教えてもらったようです。 彼女の演技には、スケートができる幸せが満ち満ちていました。 もはや、点数だとか、代表だとか、あくせくする世界がちっぽけに見えてきます。 生きるって素晴らしい。「生きているだけで丸儲け」ある芸能人が語っていました。 バッハの「主よ、人の望みの喜びよ」の旋律が聞こえてくるようです。 2009年12月29日
高校の修学旅行で訪れたのが、倉敷の大原美術館。 そこに、エル・グレコの大作「受胎告知」がありました。 結婚前の女性が身ごもるとは、当時の社会では、死に値します。 周りにいた人たちは、マリヤに冷たい視線を浴びせたことでしょう。 この時代にも、同じような人がいます。 日の丸を背負い、日本代表のクローザーとして登場したダルビッシュ投手。 最後の打者を三振で打ち取った瞬間、テレビ画面前の私も、思わずガッツポーズ。 日本中から温かな目が注がれた彼にも、暗い過去があったようです。 ドラフト一位で指名された高校在学中に、パチンコ店で喫煙。 世間からの猛烈なバッシングが吹き荒れます。 みんながみんな冷たい視線を浴びせたようです。 その中で、温かな眼差しを向けた人がいました。 「それは、終わったことだし、仕方ない。おれは待っているから。」 その人物が、ヒルマン監督。今日も、じっと見守っている方がおられます。 監督の背後におられ、マリヤが見上げていたお方です。 クリスマス、おめでとうございます。 2009年12月24日
数年前の日曜日のことでした。 教会の礼拝に、アフリカ人の女の子と学校の先生が 突然やって来られました。 言葉も分からないこともあり、こちらも気持を察することができず、 女の子の表情は終始硬かった記憶があります。 今年に入って、同じ学校の留学生が行方不明になったことが報道されました。 どうして、逃げ出してしまったのか。 かたや、その学校の駅伝部は全国2連覇を果たしました。 紆余曲折があったものの、留学生と一丸となった生徒たちを、まず褒めてあげたい。 おめでとう。それでも、留学生頼りの大会に、何か心残りがあるのです。 留学生も一人の高校生であり、優勝の請負人ではありません。 優勝とは、優しく勝つのです。私がほっとするのは、男子の豊川工業高校です。 ここ数年、準優勝3位入賞を果たしてきました。 しかも、希少な日本人のみのチームです。 たとえ、優勝には届かずとも、優勝以上に価値のある偉業に思えます。 順位を落としても、豊川工業の姿勢にこそ、 三河人の心意気を感じてしまいます。 2009年12月21日
豊橋市で発行している小学生向きの小冊子に フィギュアスケートの鈴木明子さんが紹介されていました。 花田小学校という母校を訪れての先輩インタビュー。 「夢は、はっきり口にしよう」とありました。 口で語ることによって、責任が生じる。どうしたら達成できるか、真剣に考える。 そして、ライバルは、真央(まお)ちゃんでも、美姫(みき)ちゃんでもない。 あくまで、自分自身。たとえ、他の選手が失敗して勝っても嬉しくない。 スケートの世界では、よくあるのだそうです。 人と競るのではなく、めざすは、自分のベストの演技。 そして、バンクーバーが最終地点ではない。 摂食障害を乗り越えた今は、滑れることだけで嬉しいのだそうです。 このような構えで、オリンピックに挑まれている姿に、これぞ豊橋人と思いました。 「青年よ、ほらをふけ!」と大学時代の先生がよく言われていました。 いつのまにか、ほらさえも聞こえなくなりました。 夢を語る分には、慎みは無用でしょう。いや、小学生だけでなく、大人も然り。 正々堂々と大きな夢を口で語りましょう。 2009年12月17日
今回、脚本を書いて素人の舞台劇に挑戦いたしました。 何かを挑戦する時には、周りの人の励ましが、いかに大切なものかを実感しました。 改めて、励ましてくれる人たちがいて、この作品があり、今の自分があるのだと感謝しました。 そして、私の脚本を一番よく読み込んで、私のメッセージを直に受け取ってくれたのは、 演技した主人公の中学生だったと思います。 観客の誰にもまさって感動していたかもしれません。 ふと、この舞台劇は、観客よりも彼のためにあったのかもと思えて来ました。 しかも、舞台劇の内容にもまさって、演じる人たちを応援しようという気持ちや真心が、 会場には漂っていたのです。 それが、例え今ではなくても、やがて人のために貢献できる大きな働きとなって実を結ぶ。 このたび年末のお忙しい中、30分以上も前から来て下さったのは、 彼が通う中学校の校長先生でした。 ぽつり座っている校長先生の後姿に、人を育てる真髄を教えていただいたようでした。 私も先生にならい、挑戦する人たちを応援したくなりました。 2009年12月14日
年も四十を越えて、子供たちにも伝えたいことが形をとるようになりました。 小説家の三浦綾子さんが、ちょうど今の自分と同じころ、 小売業をしていた傍らで、ご主人などに励まされて、小説を書きました。 それが、「氷点」(ひょうてん)という作品です。 大作家に自分をなぞらえて恐縮ですが、信仰をはじめ共通項が多いもので、思い切って筆をとってみました。 処女作「クリスマスの虹」を書き上げました。 今の時代を描きたい。そして、今の人に訴えたい。 すると、結婚というテーマが浮かび上がりました。 「健やかなる時も、病める時も、愛することを約束しますか。」 結婚は、生涯の約束事であることを前提に、言葉の重さについて考えてもらいます。 太宰治の「走れメロス」とディケンズの「クリスマスキャロル」に着想をいただき、 何よりも、十字架を背負われるイエス様の姿に想像力を膨らませました。 すると、教会の仲間たちが加勢して、それを舞台劇にしてくれました。 心温まる手作りの上演を目指して稽古に励む日々を送っています。 2009年12月7日
大学サークルの五十周年の感謝会がありました。 大きな問題に直面したり、学生が集まらなかったり、 曲がりくねった道を歩んで来ました。 何度も解散の危機に見舞われながらも、 ここぞという時には、必要な人材が与えられる。 そして、今日を迎えることができました。 それは、メンバーの一人一人が自分の立場をわきまえて、 自分の義務を果たしたゆえだと思いました。 権利ばかりが主張される世相ですが、義務こそ明日の道標ではないでしょうか。 司馬遼太郎さんの小説「坂の上の雲」がようやくNHKでドラマ化されました。 戦争を美化してはなりませんが、海軍軍人の生き様には教えられます。 海軍兵学校の校長でもあった井上成美(しげよし)提督は言われていました。 「デューティの観念があって、レスポンシビリティを身につけた人間ならば、 そのまま戦争に出しても使えるという信念を、私はもっていた。」 デューティとは、義務。レスポンシビリティとは、責任と訳せるでしょう。 海軍の真っ白な軍装は、責任と義務の象徴に見えました。 2009年11月30日
料理道具の街でもある、新潟県燕市から営業の方が定期的に来店してくれます。 このところは、経済状況が一段と厳しく、商談も深刻になりがちです。 しかし、燕市には、ネットワークがあり、お互い業者間で助け合っている伝統があるのです。 燕市産業カレンダーなるものがあり、業界でひとつのカレンダーを作っています。 ひとつが繁栄するのではなく、みんなで繁栄しよう。 そこに、明日への手がかりがありそうです。 そんな折に、新聞の全面広告で「三河つくだ煮」がドカンと紹介されていました。 ココ豊橋周辺は、つくだ煮の産地でもあり、そのブランドをアピールする試みです。 それは、ひとつの会社ではなく、八つの会社が協同して、 さらに商工会議所も加わっての取り組み。 歴史をたどると、日本人は欧米人のように競争しなくても、 経済を維持発展させてきたと思えます。その資質をもっている。 明日への道標は、競争ではなく、共生とも言えそうです。 それを和の精神と呼ぶならば、今こそ原点に返るべしです。ひとりではなく、みんなで。 2009年11月21日
サッカー日本代表で、私が気にかかる選手に中村憲剛(けんご)選手がいます。 彼の転機となった言葉があったそうです。 高校時代の先生から「自分で考えなさい。」 彼は、背の低い選手ですが、それを補うために自分で考えたそうです。 どの世界にも通じるのだと思いました。 その時、これは子育ての要諦だとも悟りました。 その模範を、天皇陛下から最近教えていただきました。 将来の皇室のあり方について、 「皇太子とそれを支える秋篠宮の考えが尊重されることが重要と思います。 二人は長年私と共に過ごしており、私を支えてくれました。 天皇の在り方についても十分考えを深めてきていることと期待しています。」 子供たちが、自分自身で考えれるように導いてあげる。 自分の考えを押し付けず、自分の後姿のみを見せて、しかも期待をしている。 あるいは、じっと見守っているとも言えるでしょうか。 そして、尊重できるとは、それに相応しい子供に育て上げたきた自信を そこに感じることができます。 これぞ子育て、これぞ親の務めでしょう。 2009年11月20日
ミシュランガイドの大阪・京都版が発売されたようです。 日本の伝統料理を、ヨーロッパ生まれのミシュランがどこまで評価できるのか。 きっと欧米と日本での尺度は違うでしょう。 その時、その評価はあくまで絶対的なものではありません。 何が美味しいかは、基本的に人によって違います。 目安にはなりますが、それを自分で判断しないことに問題が潜みます。 人の評価だけをあてにして、すべてを決めてしまうのです。 買物でも、ブランド品だから良いだろうも、同じ系列です。 フライパン倶楽部が言うなら良いだろうも、一面では気をつけてもらいたい。 それは、あくまで、他人の評価に過ぎません。受け売りです。 最終的には、それを自分で判断することが重要です。 特に、料理に関しては、もっと自己主張すべしです。 そこに、私の味があり、我が家の味が生まれます。 かたや、そこには責任も伴うので、舌も研ぎ澄まされるでしょう。 このようなガイド本が手放しに流行るとしたら、 それは、日本人の味覚が鈍感になっている裏付けかもしれません。 2009年11月19日
天皇即位二十年の式典を祝う新聞の写真。 サイパン島のバンザイクリフの断崖絶壁の岬で、天皇皇后おふたりが 海に向かって黙礼している。 そこは、敵軍に追い詰められて、「天皇陛下万歳!」と両手を挙げて 日本兵が身を投げたところ。 戦後六十周年の夏、両陛下は慰霊のため彼の地を訪れました。 私は、静かに頭(こうべ)を垂れる後姿に、目頭が熱くなりました。 今回の記者会見での陛下の言葉。 「私がむしろ心配なのは、次第に過去の歴史が忘れられていくのではないかということです。」 その時、今は亡き日本語研究家の大野晋(すすむ)先生の 心配と重なります。「美しい言葉より、まず正しい言葉を」 そして、天皇皇后の言葉を思いました。 お二人とも軽率には語れないお立場でもありますが、 じっくりと言葉を選らんでおられる。 誰よりも、言葉というものの重さをご存じなのだと思います。 陛下は非常に控えめな方ですが、それが一層大きな人物に見えてしまいます。 象徴のお立場とは言え、名君の中の名君だとさえ思えます。 2009年11月12日
本日クックパルのお鍋をご愛用の方からお電話をいただきました。 その方は、ふとしたことから、メーカーの営業担当の吉川さんと親しくなりました。 ミスターとして、私がクックパル・ストーリーでご紹介している方です。 ところが、数年前ミスターが突然亡くなります。 それを、この日記にも記載したところ、驚いて当社に電話を入れて下さいました。 最後にお会いできなかった事を悔やんでおられました。 その時は、連絡先などをお知らせするだけでしたが、 最近パソコンを本格的に始められたご様子。 改めてクックパル・ストーリーを読まれて、感慨深くなったそうです。 そして、本日お電話でご注文の折りに、しばらくミスターの話に花を咲かせました。 私がびっくりしたのは、その方は一人のユーザーなのです。 ここまで深い繋がりを一人のユーザーと築かれたミスターに敬服いたしました。 ユーザーから、亡くなっても惜しまれる。そんな仕事ができているだろうかと反省いたしました。 ミスターは死すとも語っています。一人のお客様を大切に。 2009年11月10日
今朝起きると、新聞の写真に目が釘付けでした。 久しぶりに、良い顔だな〜と感嘆。しばらく眺めてしまいました。 それは、トロフィーを持ち上げた松井選手。 今年のワールドベースボールは、イチローに始まり、松井に終わる。 二人の侍に、日本人は希望をもらったことでしょう。 二人はどちらも、黙々と静かに努力を重ねるタイプのように見受けられます。 若い選手とは違い、三十も半ばで結果を出せるのは、 生まれながらのセンスもあるのでしょうが、やはり努力の賜物。 怪我や病気に苦しんでも、周りが誹謗中傷しようとも、ひたすら素振りをしている。 天は自ら助くる者を助く。それが示された一年とも言えます。 野球の神様とも表現されますが、天はしっかりと報いてくれる。 二人には、まさしく最高の舞台が用意されました。 それは、どの世界にも通じると思います。 天はしっかりと、私たちの生き様を見ておられます。 そして、一人一人に確かな報いを与えてくれます。 そこで、日本人びいきかのように、天は語られる。 黙って素振りをすべし。 2009年11月6日
インターネットの情報は、原則無料です。 大手新聞社のサイトなども、閲覧することは無料です。 すると、紙媒体の新聞をやめて、ホームページで情報を得るようになる。 ネット広告もあるのでしょうが、ホームページを充実させればさせるほど、 購読者が減ってしまう。努力する者が報われない、おかしな状況となっています。 これでは、記者たちの意欲はくじかれ、良い記事を期待できません。 良い情報をいただいたのなら、その対価をしっかりと支払うべきです。 どうも購読者は、そこまで考え及びません。 「もうかった。得をした。」と新聞社のことを思いやることなく 自分の損得勘定だけをはじいてしまう。 自由競争社会の中で、いつしかサービスを受ける人たちは自己中心になり果てています。 サービスを提供する側のことを推し量るべしです。 個人的に新聞社には、頑張ってもらいたい。 購読料とは、株式投資のような要素もあるでしょう。応援料です。 今までは会社でのみ購読していましたが、 今月から自宅でも新聞を購読することにしました。 2009年11月5日
秋の夜長に、我が家で映画を観ました。 1939年製作「チップス先生さようなら」 英国パブリックスクールに赴任した男性教師を描きます。 旅行中に最愛の人との出会いがあり結ばれます。 学校にも新風が吹くのですが、その夫人は出産時に亡くなります。 やがて、チップス先生は校長となりますが、第一次世界大戦の渦中で、多くの生徒たちを失います。 そして、最後を迎えます。「生徒たちが、私の子供だった。」 この映画の中では、良き理解者であった夫人との別れが、切なくやりきれません。 終わった後に、じわじわと涙が溢れてきました。 すると、数年前の運動会を思い出しました。 小学校の教頭先生と子供たちをじっと見つめています。 「先生の息子さんは?」「実は、息子、亡くなりました。」 その瞬間、時間が止まったのです。 当時の私の息子と同じ年頃に亡くなったと伺いました。 先生にとっても、生徒たちが息子。 「さようなら」には、深い意味が秘められているようです。 先生の深い悲しみは、生徒への深い愛情に昇華されるのでしょう。 2009年10月29日
小学四年生の息子とぶらりと訪れたのが、お隣の湖西市にある豊田佐吉記念館。 トヨタ自動車社長の曾祖父が豊田佐吉翁。 もとは大工であり、独学で織機を発明して、世界のトヨタに羽ばたきます。 実物の織機の展示をはじめ映像等を通じて、その経緯がよく分かります。無料です。 それは、「西国立志編」という一冊の本から始まります。 英国の大工が、苦労に苦労を重ねて紡績機を発明したことに目を光らせます。 自分にもできる。そして、努力に努力を重ねて、英国の会社からも認められる自動織機の発明に至ります。 その無駄を排した物作りは、トヨタ自動車に受け継がれます。 佐吉の織機は、まさに汗と涙の賜物。日本の物作りの原点を見るようでした。 この時代、不況といえど当時の貧しさの比ではありません。 いつしか、この泥臭さを忘れていないだろうか。 「がんばらなくてよい」という言葉も流行りますが、かたや、 一生懸命がんばる価値を見下げてはなりません。 佐吉の言葉。百を忍んで千を鍛えれば事遂(つい)に全うす。 2009年10月24日
当社ビルは、キャンファーローレルと名付けられました。 豊橋の木であるクスノキの英名。 そして、豊橋公園のそばにある「クスノキ通り」はご当地自慢です。 それは、質実剛健な豊橋人を象徴しています。 その幹は太く逞しく、その葉は年中生い繁るエバーグリーン常緑樹です。 塩害を受けて、ケヤキ並木が軒並み枯れる中、このクスノキが気にかかります。 そこで、いざ「クスノキ通り」へ。思わず、唸ります。お見事なり! 台風何処吹く風よ。風雨を一切ものともせず、いつもと変らず、青々と繁っていました。 隆々とした幹は、泰然自若とドッシリ構えています。 どんな嵐がやって来ても倒れない。枯れない。 ひたすら、日差しから風雪から、黙ってみんなを守っている。 なぜ、斯くも頼もしや。それは、地下深く根を張っているゆえでしょう。 雨降らずとも、いつも地下水より豊かな水を吸い上げている。 やはり、見えないところが肝心要です。 目立たずとも、此処一番に頼れるクスノキ。 雨にも負けず、風にも負けず、そんな豊橋人に私もなりたい。 2009年10月19日
街をぶらぶら歩くと、紅葉するはずの街路樹の葉が、枝についたまま枯れています。 ケヤキ並木は、それは、それは、哀れな色合いなのです。 今年は何か違うぞと感じ始めていたものの、ようやくその原因が分かりました。 先週上陸した台風の猛烈な風によって、海の飛沫(しぶき)が混ったのです。 とにかく猛烈な風で、海から10km離れた内陸地でも、潮水を浴びた形になりました。 もちろん、街路樹ばかりか、農作物への被害も膨大のようです。まさしく、塩害でした。 一夜の風雨によって、見事にわが街の景色が変貌してしまったのです。 大自然の力は恐るべしと改めて思いました。 それでも、来年になれば、街路樹は再び紅葉してくれるでしょう。 しかし、農家の方にとっては、大きなダメージです。 学生時代に観た映画「風と共に去りぬ」の場面が思い浮かびました。 前半部のラストシーンだったと記憶します。 荒涼とした大地を見て、腹這い、立ち上がって叫ぶスカーレット。 そして、この物語を貫く名台詞。「明日には、明日の風が吹く。」 2009年10月16日
郷愁というのは、秋の心と書きますが、私の家内もこの季節、 そんな思いに駆られるようです。 ちょうど、義母が入院したのを機会に、里帰りを先日果たしました。 そんな折に、さだまさしさんの「望郷」という歌を教えてくれました。 さださんは長崎で、家内は函館です。 どちらも異国情緒漂う港町でよく似ています。 家内の好きな歌詞は、「選ばぬ言葉で話せる町」だそうです。 ずっと故郷にいる者にはピンと来ないかもしれません。 ありのままを受け入れてもらえる。 背伸びしない。自分が自分でいられる。 そこに重荷を下ろせる。ほっと一息できる。 さださんの一つの一つの歌詞に故郷の魅力が凝縮されていました。 結びの歌詞にも魅かれました。 「夢見て破れ 恋して溺れ 裏切りまた裏切られ 知らず知らずに 汚れるこの身 恥じながらも唄うこの唄」 そんな私達をなおも受け入れ、優しく覆ってくれるのが故郷。 そこには、父や母たちの大きな愛が待っているのだと思います。 この秋、故郷から離れている人達の望郷の念に寄り添いたいものです。 2009年10月9日
伊勢湾台風から50年。 当時と同じようなコースで愛知県に台風が上陸しました。 猛烈な強風が吹き荒れて、明け方には久方ぶりの停電。 多くの人が眠れぬ夜を過ごしたのでは。 しかし、八時も過ぎると、日が差してきたので、車で会社に向います。 なんと信号が消滅。恐る恐る運転しながら、木が折れ、看板が崩れ、ガラスが割れ、 台風の爪跡があちらこちらに。 子供たちは、今日はお休みと嬉々としていました。 ところが、無残にも暴風警報が解除。 正午からの登校にブーブーです。 その気持ちもよく分かります。ちょうど、昨夜読んでいたのが「自由と規律」という 英国パブリックスクールを紹介した岩波新書。 そこでは生徒たちに、自由も与える一方で、かなりの不自由を生活の中で強いる。 それが、我慢のできる大人、ジェントルマンを育て上げる。 日本では、規律なき自由、大人が子供の言いなりになっていないだろうか。 バランスも必要ですが、いやなことでも、じっと我慢をさせて送り出す。 実は、親の方こそ、じっと我慢が必要なのでした。 2009年10月8日
戦争を語らなかった祖父母たちのことを前回の日記で書きました。 すると、その日記を読んでいただいた方からメールをいただきました。 その方のおじい様がソ連の捕虜だった。 今度は私の方が、戦争の歴史を語り継いでくれた方を思い出しました。 それは、中学校時代の校長先生。 同じくソ連の捕虜だったのです。 全校朝礼で、シベリアに抑留された過酷な体験をお話下さいました。 そこで、日本語に訳されたドストエフスキーの「罪と罰」に遭遇する。 それは、それは、貪るように読んだそうなのです。 食べ物の飢えがあるように、言葉にも飢えがあると。ならば、言葉とは。 「日本語練習帳」の大野晋(すすむ)先生は、言葉とは何かを生涯追究されていました。 先生の著作より、私なりに、言葉は愛するためにあると直感。 では、私たちは、愛するために言葉を使っているでしょうか。 言葉に飢えるとは、すなわち愛に飢えている。もしや、食べ物も同じでは。 言葉や食べ物はあっても、そこに愛がないなら、 この時代も飢える人は溢れるでしょう。 2009年10月2日
地域の運動会で、お年寄りの方と話す機会がありました。 そのお父様は、ガダルカナル島からの帰還兵。 しかし、戦争のことを語ることは一切なかったそうです。 そこで、ご自分で調べたのでしょう。ガダルカナルの悲劇を伺いました。 戦後、多くの人が口を閉ざしてしまったようです。私の祖父母も。 学校の授業でも、近現代史は足早に通り過ぎて行った記憶もあります。 かといって、蓋を閉ざしたままでも良いのでしょうか。 子供が走るのを脇目に、「粗食だったから、長生きできた。子供たちは可愛そうだ。 ジュースに、スナックに、日本人の寿命は縮むよ。」 政権交代の話に至り、いろんな事を危惧されていました。 「僕らの世代は、何をなすべきでしょうか。」 その方は、嬉しそうに、ひと言「歴史を学びなさい。」 先が見えない時こそ、お年寄りに教えていただく必要があるでしょう。 悲惨な戦争を乗り越えた人たちは、まさに知恵の宝庫。 ちょうどその方と同じ年頃の半藤一利さんの「昭和史」に目が留まりました。 天の声とばかりに読み始めました。 2009年9月25日
新聞や雑誌の言葉は、読み捨てとなりがちです。 しかし、文学作品のように、後世に残るものもあります。 この時代は、ネットやメールも拍車をかけて、言葉が次々に生まれては、次々に消えて行く。 かたや、聖書のように、二千年の歳月を経てもなお、 今日も読み継がれている言葉があります。 その違いは如何。例えば、時の人と言うことで、出版社の思惑とも重なり、 怒涛のごとく著作が出る現象。同じようなタイトルばかり。 しかし、読者としては、1冊にまとめてもらった方が有り難い。 やはり、言葉は簡潔明瞭を旨とします。 個人的には、じっくり時間をかけて書くような作家が好みです。 言葉を慎重に選び、何度も推敲する過程をへて、言葉は磨かれて簡潔明瞭になります。 そこにこそ、時を越えて人の心に触れ続ける、いつまでも残しておきたい 本物の言葉が生まれるのだと思います。 生涯一作品という作家があっても良い。ひとつを究める。 果たして、フライパン倶楽部の言葉は、後世に残るのだろうか。 じっくりと言葉を選んで参りたいです。 2009年9月19日
JALと言えば、憧れの会社でした。 TVドラマ「スチュワーデス物語」を思い出します。 当時スチュワーデスも輝いて、あの鶴のシンボルも光っていました。 それが、いつの間にか、深刻な経営難に陥っています。 1987年の民営化が分水嶺でしょう。 日本のみならず、世界的に航空業界は、自由競争の大波を受けて、 厳しい状況にさらされています。 誕生日割引に、超割、早割、マイレージ。 航空料金は安くなりましたが、果たして、それで良かったのか。 安くても、安全面では大丈夫なのか。 安くても、パイロットやスチュワーデスは誇りをもって働けるのか。 安くても、その会社は存続できるのか。 マイレージがたまっても手放しには喜べない状況です。 ならば、JALとANAの合併はいかが。文字通りの全日空、ALL JAPANです。 この業界には、国策も必要だと思います。 シンガポールは如何。航空会社は、その国の顔でもあります。 本来の日本は、シンガポールにも劣らぬサービスが可能なはず。 ともあれ、市場原理を過信すべからずです。 2009年9月15日
「いらっしゃいませ〜」と響く声は、四角いボックスから。 売り買いが終わると、「ありがとうございました。」 日本全国に溢れている自動販売機がしゃべり始めています。 声はあっても人はいない。人の介在しない売り買いが日常となりました。 通信販売も、ネットで注文して、宅配ボックスに入っている。 果たして、これで良いのか。 売り買いとは、物が流れるだけではなく、本来そこに人と人との交流がありました。 昨今の人間関係の希薄さは、売り買いの変化に由来するものかもしれません。 単に損得だけで、売り買いを見なしてしまう。 商店街が花盛りだった昭和ノスタルジアのような光景、 人と人との温かなつながりを懐かしむ人は少なくありません。 そして、富山の薬売り商人のように、お客様のもとに自分の足で出かけて行く。 お客様と世間話をしては、お客様と一喜一憂しながら、お客様に必要な品を提供して行く。 そこには、物を売り買いする原点があります。 便利な四角い画面の前でも、目指すべきは、温もりのあるフライパン倶楽部です。 2009年9月11日
人と人との関係で、微笑みは必須だなあと痛感しています。 家庭の中でも、仕事の中でも。 微笑みのあるところ、安心感があります。 自然と心が開かれて、いつしか信頼が芽生えています。 微笑みが与えてくれるものは測りしれません。しかも、無償です。 マザーテレサも、過酷な仕事をしている シスターたちに口を酸っぱくして語っていました。 「スマイル、スマイル、スマイル」 マザーこそ微笑みの力を誰よりも知っていたのでしょう。 そして、赤ちゃんの微笑みは特別素晴らしい。こちらにも伝染します。 赤ちゃんは、天からの授かり者。微笑みを忘れないでねと教えてくれているようです。 微笑みは、心の井戸から自然に湧きあがるのがベストかもしれません。 信仰者は、救い主に愛されていることが根底にあります。 それが微笑みの源泉です。 そして、この浮世では「喜ぼう」と意志を働かせることも必要でしょう。 聖書では「いつも喜んでいなさい。」喜びを選びとる意志です。 私たちの世界は、微笑みだけで、まだまだ明るくなれる余地があります。 2009年9月8日
拉致被害者の蓮池薫さんの著作がノンフィクション部門の賞を受けたと知りました。 「半島へ、ふたたび」のタイトルで、蓮池さんがご自分の「自由意志」で 朝鮮半島に旅立った手記です。はじめの旅は、「自由意志」ではなく、強制でした。 私たちの日常では、ぴんとこないのが「自由意志」です。 そこには、人間が人間である根源があるように思います。 しかし、それを当たり前のものとして、享受していることにも気づかない。 北に拘束された特異な体験が、図らずも、この「自由意志」への気づきと感謝を生んだのでしょう。 蓮池さんは文筆家の道を歩み始めました。 北で覚えたハングルを捨てるのではなく、それを生かして、翻訳を手がけました。 今回の著作も、救出を待っている仲間たちへの応援歌でもあります。 その特異な体験は、真実を気づかせ、生きるべき道をさえ開いてくれる。 私たちも、つらいことを体験したならば、不満や愚痴で終わってはなりません。 あきらめずに希望を持ち続ければ、きっとそこに真実なものが見えてくるでしょう。 2009年9月3日
どうして、あんなに負けてしまったのか。 自民党への不満が爆発したようです。 この4年間を振り返れば、当然の結果だったかもしれません。 無責任極まる、内閣の丸投げ。 郵政民営化を争点にして勝利した議席を、他のことにまで最大限に使い切る。 その郵政民営化で除名されたはずの議員が、いつの間にか大臣になっている。 あげくは、国際会議で泥酔会見をする財務大臣。 いつしか、圧倒的な議席に溺れて、国民の側に立つことを忘れてしまったようです。 やはり、忘れられた国民は、冷徹に判断を下しました。 そのことは、原点に返るチャンスをもらったと喜ぶべきかもしれません。 しっかりと頭を冷やして、国会に帰って来てもらいたいものです。 かたや、民主党は消去法での勝利の感があります。 なぜ勝てたのかをよく分析して、自民党の轍を踏まず、国民の側に立つべきでしょう。 いずれにしても、国民あっての政治。 根本的には、与野党の争いではありません。 国会はひとつ。与野党が結集して、明日の日本を創造していくことです。 2009年8月31日
いよいよ選挙です。ココ豊橋は激戦区のようで、総理も民主党の代表もやってきました。 また、公明党代表の太田さんも駅前で演説をしていました。 党派や考え方は別として、太田さんは豊橋育ちの三河人です。 三河の気風をどことなく感じることができます。 太田さんは、三河人を質実剛健とも表現していました。 悪く言えば、生真面目とも、馬鹿正直とも言えます。 私も自分の中に、そんな一面があると感じます。 あるいは、その典型かも。最近も、あまりにも真っ直ぐ過ぎて、かえって人を傷つけてしまいました。 ほどほどにして、何もしない方が良い場合もあります。 そのあたりの見きわめが、どうも分らないようです。 徳川家康に、何があっても従って行った三河侍を評価する人は少ないでしょう。 しかし、福沢諭吉先生は、痩せ我慢の説で、二君に仕え賢く振舞った 勝海舟や榎本武揚を痛烈に批判していますが、三河侍を激賞しています。 見ている人は、見ているのだと思いました。 そんな三河人の生き方に、私は誇りを感じてしまうのです。 2009年8月28日
大学のサークルが50周年を迎えて記念誌を出版することになりました。 久し振りに連絡を取り合う機会が与えられました。 学部の卒業は私と同じでしたが、卒業時に 成績優秀で金時計をもらったと記憶する先輩がいます。 今は、アフリカ研究をする大学教授としてご活躍。 ネット上のホームページでお顔を拝見して、 そこに記された自己紹介の言葉に目が留まりました。 「誠実、心の真のありのまま、これ常にいかに尊きかな。 実際に自己の心の中に存することを語る者は、 その方法いかに拙劣なるも、必ずや彼に聞かんと欲する人あるべし」 常日頃思っていた事が、見事に表現されていました。 思わず、「アーメン、その通り!」 内村鑑三先生のこの言葉が、先輩の好きな言葉でした。 当時、旅先の船上から葉書を送ってくれました。 「基督者は、イスラム世界を知るべし」 それを実現する旅の途上でした。 そして、時を越えて本日、先輩から西アフリカのリベリアからメールが届きました。 「昨日もスラムのなかの小さな教会で礼拝を守りました。」 2009年8月24日
今年はプロテスタント宣教150周年の年です。 カトリックは、ザビエル宣教師が戦国時代にやってきた時に始ります。 かたや、プロテスタントは、その後の禁教令もあり、幕末まで時を待ちます。 開港された1859年に、ローマ字を作ったヘボン宣教師らがやってきました。 その記念行事のひとつに、東京日本橋から京都三条大橋までを1ヶ月かけて歩く催しがありました。 今週参加者の方が、ココ豊橋に立ち寄られました。 その中に宣教師がおられて、白人なのですが、日本語はとても流暢なのです。 すると、「ゆで卵」と教えてくれました。見た目は白いけど、中味は黄色い。 言葉だけではなく、文化も習慣も、そして考え方まで日本人になっている。 まさしく宣教師魂。お父様も宣教師で、「僕はmade in JAPANです。」とユーモア一杯。 日本にある教会は、宣教師たちの労苦の賜物ですが、未だ宣教師に依存していないだろうか。 個々の教会は、そして教会員は、しっかりと自立できているだろうか。 明日は、海外で「バナナ」が増える事を祈ります。 2009年8月22日
映画にもなった書籍「一リットルの涙」をご存知でしょうか。 実話で主人公の木藤亜也さんは、ココ豊橋の出身です。 彼女は、脊髄小脳変性症と呼ばれる難病と闘いました。 その同じ病気を現在進行形で患う横浜の工藤良一牧師が豊橋に来られました。 発病して平均5年10年の余命と言われる中、 今日まで涙に暮れず21年生かされています。 なんとか立って話す事はできますが、歩く事には介助が必要です。 明日の命も分らず、不自由な生活の中でも、牧師は希望で溢れていました。 「平凡」の中に潜む幸せに気づかれ感謝していました。 また、人前で話をすることが、リハビリと言われます。 私は、話の内容以上に、発声すら不自由なお体の中で、 ひたむきに語っている姿にしびれてしまいます。 牧師は、小さな子供のように、一挙一動をイエス様により頼んでおられます。 もし、その難病が癒される事を奇跡と呼ぶならば、 その難病の中ですら希望をもっている事こそ奇跡と呼びたい。 ふと、木藤さんも。あ〜イエス様を知っていたらなあ〜。 2009年8月20日
地震があった翌日に、弘前まで葬儀に出掛けました。 新幹線の旅で、東京から八戸までは、立席しかとれず、デッキで座り込み。 ふと手にしたのが、新潮文庫の「山椒大夫」。 騙された親子が引き離され、人身売買される。 安寿の犠牲によって、弟の厨子王が、山椒大夫のもとから逃れる。 そして、生き別れた母の玉木を探します。 ついに盲目となった母は、けなげにも安寿と厨子王の名前を呼んで歌っていた。 その歌声で厨子王は、母であることを知ります。 息子を前にして、涙がポロリと落ちた時に、母の目が開かれます。 私の目からも、ポロリポロリと涙が流れてきました。 こんなことがあって良いのか。 しかし、北の国に囚われて、未だ引き離されている安寿と厨子王が、 この時代にもいます。その帰りを今日も待ちわびている玉木もいます。 けど、それを他人事のように、痛みを感じれない自分の心の中にも、山椒大夫が潜んでいるようです。 到着した弘前では、ともに寄り添い、ともに涙を流せることに、 一条の光が差したようでした。 2009年8月17日
中学校の同窓会が無事終わりました。 今回は、司会進行役を引き受けました。 25年ぶりの再会に、ゲームにクイズに、知恵を絞ったものの、 いざ、はじまって見ると、なつかしさの余り、雑談がとまりません。 舞台上は別世界で、一人相撲で司会進行をしている感じでした。 ただ、終盤の校歌斉唱で、ようやくひとつになれました。 経験のない応援団員に挑戦してみたのが幸いしました。 インターネットのサイトで動きを確認して、 海でひとり、大声をあげて練習しました。 すると、スムーズに事が進みます。 母校は、伝統の太鼓を貸してくれました。 また、学生服屋さんも、新品のジャストサイズを、貸してくれました。 そして、当日。腹の底から「オース」の掛け声。 三三七拍子では、力の限り太鼓を叩きました。 恩師と仲間へのエール交換では、ありったけの声を出し尽くしました。 そして、最後の校歌斉唱。手を前に横に振り振り、思わず最後のフレーズ 「たのし 豊橋中部中」を3回も繰り返してしまいました。 これで一転、ようやくひとつになれました。 2009年8月10日
地域の納涼祭のお手伝いをしました。 私の担当は、舞台の音響です。 演奏者から、CDやカセットを預かり、それを指示通りに流します。 2日間の舞台で、ひときわ感激したのが津軽三味線でした。 豊橋市の雅(みやび)会というグループで、師匠らしき方は、 職人肌の風貌で迫力がありました。 脇にいる、私の方に厳しい視線を向けて、手を上にあげます。 そして、望んだ音量になると、頷いてくれました。 次に、おとなしそうな小学生が、掛け声とともに独奏を始めました。 その容姿とその音が非常に対照的でした。 西洋の弦楽器にはない、独特の迫力ある音です。 バチと呼んでいましたが、それを片手に弦をかき鳴らします。 そのバチさばきは、凄まじい。 背後には、かなりの猛練習があったのだと伺えます。 彼は、全国大会優勝の実績を持っていました。 まさしく、三味線一筋なのです。 それは、ピアノやバイオリン等のメジャーな楽器にも劣らない魅力でした。 楽器というよりも演奏者。 どんな楽器でも、一筋に打ち込むと、輝きが放たれます。 2009年8月6日
ラオスに農業指導に行かれている方とお会いしました。 年は同じで、17歳の時に、信仰をもったのも同じです。 飢餓で苦むアフリカの人たちを映像で見て、海外で働くことを当時決意したそうです。 その後、青年海外協力隊と国際飢餓対策機構を通じて、 只今は組織を離れてご夫婦で活動されています。 ずっと志を曲げずに歩み続けています。 今回、聖書の「一粒の麦」について教えてくれました。 それは、「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。 しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」 麦が死ぬとは、どのようなことだろうか。それは、次の命のための種となること。 しかし、それを死と表現しているのはなぜだろうか。 志の強い人こそ、とかく柔軟性を欠いてしまいがちです。 彼は、その言葉に出会い、自分の考えや計画に死んだそうです。 すると、新しい展望が開けてきた。 米作りをしている彼にとっては、「一粒の米」だそうですが、 自然の中には真理が秘められています。 「高津さん、米作り面白いですよ。」 2009年7月25日
同窓会に出席いただく先生方に、ご挨拶のお電話を入れていました。 当時と全く変らず溌剌としたお声をいただいた先生のお一人が、保健体育の女性の先生でした。 先生は、教育の現場で問題意識をお持ちになり、今は市議会議員としても活躍しています。 初当選の時から、先生には、お似合いのお仕事だと思いました。 本日解散。世襲が話題となっていますが、何をしたいのかが見えにくい。 実社会を知らないままでは、果ては自分の栄誉栄達を求めがちです。 しかし、現場上がりの先生の動機は、より純粋で分りやすい。 その強い問題意識こそ、政治力です。 このような人たちこそ、政治屋ではなく、政治家だと思います。 教育は、政治の根幹。特に、地方行政レベルでは、最重要課題かもしれません。 先日も、先生は午後の公園前の大通りで、ひとりマイクを握り、 道行く人に語りかけていました。 今できることを精一杯されている姿は、当時と変りません。 その姿に、今日も生徒として、生きることを教えていただいているようでした。 2009年7月21日
中学校の恩師を卒業以来はじめて訪ねました。 車を1時間ほど走らせた自然豊かなところにお住みでした。 25年ぶりのことでしたが、先生は元気でした。 現役から退き、土をいじっている日々とのこと。 そのお姿を拝見した時、ほっとしました。 ご夫妻で「よく来てくれたね〜」と満面の笑みで迎えてくれました。 なんだか、放蕩息子が、ようやく家に帰って来た時のような歓迎ぶりでした。 「これ、わたしが作ったのよ。食べて、食べて。」 初めてお会いする奥様は、イチジクを干したお菓子を振舞ってくれました。 話が当時のことになると 「43年の教師生活で、あんなにショックだったことはなかったなあ〜」 先生の表情が、はじめて曇りました。 それは、同級生が不慮の事故で当時亡くなったのです。 ちょうど同じ時期、夏休み前のプールで起こった悲劇でした。 そして、他の同級生の消息を聞いてきます。 帰り際に大きなスイカを持たせてくれて、 お二人揃って、私が見えなくなるまで見送ってくれました。 庭先の山百合が、それは見事に花を咲かせていました。 2009年7月16日
25年ぶりに中学校の同窓会を開くことになりました。 商店主の息子ということだけで、この街にとどまることを見込まれて、 卒業時に世話役に選任されていました。 初めての会合の席では、当時は話したこともなかった面々が。 当時とはまた違った印象で、彼らを見直してしまいました。 それは、年の功か、彼らも私も成長したということかもしれません。 その席でも話題になるのが、あの人どうしていると同級生の消息です。 そんな時、風評には気をつけなければなりません。 悪い方の噂は、一人歩きして膨らんで、虚像を作り上げます。 疑心暗鬼という言葉の通り、鬼実在せずとも、 われらの軟弱な心の中に生まれるものです。 同級生だけでなく、そのような勝手な思い込みは、日常も多いものです。 実際に会ってみれば、骨折り損で、何も心配は要らなかった。 やはり、百聞は一見に如かず。見ることが、一番確かです。 いろんな怪物や妖怪が徘徊しているなら、実際に会ってみることです。 同窓会とは、鬼退治のためにあるのかもしれません。 2009年7月9日
わが故郷の書家であった大澤華空(かくう)さんの創設した会の 展示会が豊橋美術館でありました。 そこで、「ごんぎつね」で有名な新美南吉さんの 無題「大人が」という詩にめぐりあいました。 〜大人が子供にいつた、「この美しい本をあげよう」と 子供は喜んで訊ねた「いつくれるの」大人「来年になつたら」 子供は早く来年になればいいなと思つた しかし次の日大人がいつた 「もうこの本をあげないよ」子供はそつと唇をかんだ そしてとほくの雲を見ていた 大人はちよつとすまなく思つた しかし大人は考へた 「何も文句はない筈だ 何一つ損したわけぢやないのだから」 なるほど子供に文句はなかつた だが子供は何も損しなかつたらうか 人の言葉を信じるといふ 尊い心を少うしばかり 子供は失ひはしなかつたらうか〜 メモもとらず、その場を去ったので、その詩が日増しに気になります。 ネットでも検索できません。新美さんの市販の詩集にも掲載がありません。 求めなさい。そうすれば、与えられます。ようやく、図書館で再会を果たしました。 2009年7月3日
グローバル包丁の六本木にあるショールームを訪ねました。 新幹線で東京駅に降り立ち、約束までに十分な時間があります。 そこで、歩いて行くことを決断します。 皇居の二重橋で、若いお巡りさんに「六本木は、どちらの方角ですか。」 「それは、無謀ですよ。」しかし、指差してくれました。 すると、国会議事堂が見えてきました。 再び桜田門の交番では、「この前の桜田通りを、まっすぐ行くと分りやすいですよ。」 そこは、霞ヶ関の官庁街。虎ノ門、神谷町を通り、東京タワーの芝公園で一休み。 赤羽橋で曲がって、麻布十番を抜けると、テレビ朝日、六本木ヒルズです。 もう、到着したも同然と安心していると、はたと迷宮入りです。 そこで、みたび麻布署で尋ねます。 すると、地図を開き、電話帳まで開いて住所を確認して教えてくれました。 無事の到着です。 さすが首都の真ん中ですから、いたるところにお巡りさんがいました。 それでも、どのお巡りさんも親切なのには驚きました。 安心安全な東京の街には、お巡りさんがよく似合っていました。 2009年6月30日
スーツを買いに私が選んだ店は、イトーヨーカ堂です。 もとは、北千住の洋品店だった会社です。 いくつかのお店を飛び越えて、ここで敢えて買うのも、このお店の歴史と創業精神に敬意を感じるからです。 ところが、その系列会社のセブンイレブンが公正取引委員会から命令を受けました。 売れ残り弁当を値引するように。 それは、値引の問題ではなく、本部と加盟店の内部問題だと思います。 安易に値引をすれば、仕入にも緊張感がなくなります。 「売れ残っても、原価で売れれば、損はない」 そうなれば、どんどん安易な方向に流れるものです。 それは、もともとのヨーカ堂さんの売り方ではありません。 時代は変わっていますが、だからこそ、 北千住の原点に返るべき時ではないでしょうか。 創業者の伊藤雅俊さんは語っています。 「商売にとって一番大事なものは、信用を築き上げること。」 本部と加盟店に問題が生じるのは、ヨーカ堂さんらしくありません。 ポールスミスのスーツよりも、私にはヨーカ堂のスーツが誇らしく思えるのです。 2009年6月23日
テレビを見ていると、盲目の小学生がキーボードを手に街角で熱唱していました。 はじめは、数人だけが、しだいに人だかりとなります。 「花〜すべての人の心に花を」 聞きなれた歌なのですが、彼の花は違ったのです。 その歌声に、涙が溢れて来ました。 そして、10年。木下航志(きしたこうし)君の歌声は多くの人に感動を与え続け、 今や歌手として活躍しているそうです。 教会で歌う賛美歌の多くに、作詞ファニー・クロスビーとあります。 彼女も盲人でした。小さい頃に、医者のミスで失明しました。 しかし、彼女の賛美歌により、どれほど多くの人が勇気と力を頂いたことでしょう。 光を失うことは、想像するだけでも心が痛みます。 けれど、その暗闇を乗り越え、たくましく生きている姿に、希望の光を見るようです。 自分の悩みなんぞが、いかにちっぽけなものかも悟れます。 先日の辻井伸行さんの快挙も然り。 神様は、各人に賜物をお与えになっています。 後日ファニーは、その医師に優しく語ったそうです。 「神様には、失敗がありません。」 2009年6月22日
しょうがの皮むきが新聞で紹介されていました。 このところ、アイデアグッズに近いお料理道具がブームなのでしょうか。 そこには、遊び感覚も存在します。 価格も手ごろであれば、新鮮な気持ちで、楽しくお料理にものぞめそうです。 そこで、お料理と遊びについて考えてみました。 特に、子供の場合は、遊びの要素があると長続きもします。 そして、お料理の場合は、遊びで終わらず、食べる楽しみも待っているオマケ付き。 周りも喜んでくれます。 任天堂のWiiという新しいゲームも、遊びで終わらず、ある程度体を動かせる。 もしかしたら、今度は遊びながら、お料理もできてしまう。 そんな生活密着型のゲームが登場するかもしれません。 いや、待てよ。お料理そのものが、素晴らしいゲームの可能性を秘めているのでは。 何も任天堂さんの頭脳にお任せすることもありません。 お料理は、手や目や耳だけでなく、舌も、鼻も含めて五感をフルに使います。 その点では、Wiiにもまさります。 極めれば、お料理こそ、至高のエンターテイメント也。 2009年6月15日
良く晴れた日曜日の午後に、教会のお墓にでかけました。 そこは、高山(たかやま)という豊橋市が一望できる小高い山の中腹にあります。 さながら、故人が天国から下界を眺めているような心持でした。 その石碑には、百合の花が描かれて 「私は、よみがえりです。いのちです。私を信じるものは、 死んでも生きるのです。」イエス様の言葉が刻まれています。 繁る青葉に囲まれて、うぐいすの声が聞こえてきます。 その時、一陣の爽やかな風が吹き抜けました。 それは、「千の風になって」のように。 「私のお墓の前で、泣かないで下さい。そこに私はいません。眠ってなんかいません。 千の風に、千の風になって、あの大きな空を吹きわたっています。」 信仰者は、肉体は朽ちても、霊は朽ちないと信じています。 風は見えません。しかし、肌で感じることができます。 同じく、霊も見えません。しかし、心で感じることができます。 聖書の原語では、霊と風は同じ言葉が使われます。 初夏の風をうけて、やがて訪れる天の世界に、しばし思いを馳せました。 2009年6月12日
巨大な自動車メーカーが破綻。アメリカ在住の友人に聞きました。 「どうして、あのようになってしまったの?」 「自動車は、部品の集合体。それを自社で作らず、外注して組み立てる。 一見効率の良いように見えるけれど、自分がなくなってしまった。 その点、トヨタやホンダは、エンジン等のポイントでは自社製にこだわっている。」 なるほどと頷いてしまいました。 売上や効率を求めるあまりに、受け売りに走り、自分を見失ってしまった。 これは、小売業にも通じる真理だと思いました。 百貨店や量販店が典型かもしれません。 自社で売らずに、他社に場所を提供して売る。 それなら、小売業ではなく、不動産業かもしれません。 ネット販売も然り。自社で売っているのでしょうか。値段で売っている様相です。 それなら、小売業ではなく、金融業かもしれません。 小売業の本道は何か。見つめ直すべき時です。 それは、人間の生き方にも通じるものでしょう。 受け売りに暮れて、自分がない。 そんなお面をかぶった生き方は、随分とつまらないものです。 2009年6月6日
就業体験に来ている高校生が、辰巳芳子さんの 「いのちの食卓」を読んでレポートを書いてくれました。 〜私は、食は深い!!と言うのを第一に受けました。 しかし、「深い」という表現がしっくりしないので考えてみました。 食べる事は、生きる事とものすごく近いもの。 生きているから食べていると言うよりか、食べているから生きている。 食べる事は、人間の何よりの土台のような気がします。 だから、私たちは、そんな当たり前すぎることを、いちいち考えることもなく 生活しているので、この本を読んだ時に感じた「深い」という印象を 何か不釣合いに感じたかもしれません。 だから、毎日の家族の食事を作るお母さんたちも「一日三回の仕事」みたいに 気が重く感じてしまうのかもしれません。 そして、将来私が母親としての立場になった時には、この本で学んだ事を 思い出して料理して行きたいです。〜 「一日三回の仕事」という絶妙な表現。 当たり前の中に潜む奥深さへの気づき。 お料理の真髄を教えていただき、大きな花丸をつけたくなりました。 2009年6月4日
この季節、クローバーをいたるところで見かけます。 すると、四葉がないかなあ〜と条件反射的に探し始めてしまいます。 小さい頃からの習性のようです。 先日も本腰を入れて探してみると、すぐに4つほど見つけてしまいました。 「あった〜!」すると、大方その近くにもあることが多いです。 四葉のクローバーは、なぜ、愛されるのでしょうか。 調べてみると、十字架に見えることから、幸せを運ぶと言われているそうです。 それでは、なぜ、十字架が幸せなのか。その意味を知る人は、ほんの一握りでしょう。 それは、沢山のクローバーがある中で、四葉のクローバーが稀であるのと似ています。 しかし、同じように、求めるものは、必ず見つけることができます。 決して難しいものではありません。 四葉のクローバーの本来の意味を知ることができれば、 すなわち、十字架の意味を知ることができれば、幸せになれると信じます。 それは、私自身が実体験しているからです。 幸いなる哉。私は、高校時代に、その四葉のクローバーを見つけました。 2009年5月30日
豊橋動植物園には、バラ園があります。 この時期に、いろんな種類のバラが開花しています。 個人的には、花に鼻をつけて、芳香を楽しみます。 香りには、思い出が詰まっているのでしょうか。 バラの香りは、なぜか幼稚園時代を思い出すのです。 山のふもとにあった自然豊かな幼稚園でしたので、 園内いたるところに花が咲いていたと思います。 「おへそと太陽」を合言葉に、運動場の園児たちは上半身はだかでした。 はだかの幼稚園ですが、仔羊(こひつじ)幼稚園です。 創立者の園長先生は、鼻にイボがあったので、 園児からは「園長チョコチョコボール」と慕われていました。 ふと卒業文集を開くと、先生の言葉に目が留まりました。 「君たちが大きくなったら、聖書という本を読むように・・・」 私は高校時代に、聖書に触れましたが、先生の奨めを越えて、そこに祈りを感じました。 すると、香りと祈りが一つとなりました。 どちらも、天まで昇り、今も絶えることがありません。 バラの香りには、園長先生の熱き祈りが秘められていたのでしょう。 2009年5月28日
GDPという国内経済の規模を表す指標があります。 景気の後退を受けて、どんどんと規模が小さくなっています。 それをもって悲観することもないでしょう。 ある意味では、人の体と同じです。その大きさは、水脹れかもしれません。 それを引き締めて、お腹にある贅肉が削がれれば健全な体になります。 体重の多いことが、良いことではないのです。 ローレル指数や体脂肪率のような指標といえば良いでしょうか。 その身の丈にあった、ベストな体重があるのです。 今の日本の経済は、身の丈に相応しいのでしょうか。 アメリカの浪費にも近い消費に対して、過度に輸出をしてきた結果とも言えます。 規模のみ大きくなれば、破綻するばかりか、資源は枯渇して、ゴミの山。 日本人が大切にしてきた自然も失われます。 フライパン屋でも、樹脂加工のような消耗品ではなく、 末永く使える鉄のフライパンをお勧めしたいです。 物を大切にする消費スタイルは、そこに慎みが生じます。 健全な体にも慎みが必要なように、経済にも慎みが必要です。 2009年5月21日
「高津君に、母親のような優しさがあると良いよなあ〜」 幸い私には、このように声をかけてくれる方がいます。 私の身近にいる人には、頷ける言葉なのです。 しかし、当の本人は、自分のことが見えていない。 自分が自分のことを一番知っているつもりなのですが。 夏目漱石が「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。 意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」 智も情も意地も、人間の人格をなす働きであり、どれも重要なものです。 しかし、それらが過ぎてはならない。偏ってはならない。では、いかに。 この3つの調和です。 よく耳にする全人格教育とは、まさにこの調和が目標でしょう。 聖書にも「厳しさと優しさ」あるいは「力と愛と慎み」という並列の言葉があります。 これも調和を教えていると思います。 いや、愛というものこそ、この調和を意味しているようです。 その時、イエス様こそ、調和のとれた全人格をお持ちだと気づきます。 とかく人間は偏ります。しかし、人の声によって救われます。 また、私の祈りの課題が増えました。 2009年5月19日
「受け売り」という言葉があります。 辞書で調べると、それはメーカーや卸店から買った商品を転売すること。 それは、皮肉にも、今の弱体化した小売業を指しているかのようです。 しかし、本来の小売業は、受け売りではありません。 自分で商品を選別して、自分の言葉で売ります。 商品や情報が溢れると、ますますこの受け売りが主流になります。 何といっても、安易で楽ですから。 お料理でも同じです。お料理本やレシピに書いてあることをそのまま鵜呑みにする。 自分で考えない。自分で判断しない。すべて他人まかせ。 いかにも、分っているかのように振舞います。 その実、自分の味が全くない。 100年前に夏目漱石も悩んでいました。 当時の学問も、西洋の受け売りだったようです。 その時、自分本位という言葉によって、この受け売りから解放されます。 それを漱石なりに、「私の個人主義」と呼んでいます。 大先輩は、きちんと要諦をおさえていました。 それは、自分の足で立つ、独立に至ります。 小売業も大人になるべしです。 2009年5月16日
ある時、突然メールが入って、実店舗を訪れた人がいました。 大学の後輩にもあたり、親近感を覚えたものの、 ウェブ上の新規事業を立ち上げ、苦闘していました。 コミュニティサイトで、いかに利益を出して、運営をしていくかが当面の課題でした。 その後、事あるごとに、彼の名前を聞くようになって、 そのカテゴリーでは、国内最大のサイトにまで成長しました。 しかし、そんな話を聞くと、自分の中には複雑な思いも芽生えていたようです。 素直に喜ぼうとしない感覚。 同じサイト運営を手がける立場で、後輩に先を越されたしまったような一抹の寂しさでしょうか。 裏を返せば、いかに自分への執着が強いものかが見えてきます。 内村鑑三氏は、その著書でご自分をヨナタンXと呼んでいました。 聖書によると、ヨナタンは王子の立場にありました。 しかし、実力と人気のあった友人ダビデに嫉妬することなく、かえって彼を祝福します。 やがて、ダビデは王となります。 この時代も、ヨナタンのように、心から人の成功を喜べる器が求められています。 2009年5月12日
ココ豊橋は、書店文化が花盛りかもしれません。 当社筋向いには、耕文堂(こうぶんどう)さんがあります。 子供の頃、長時間立ち読みしていたのが懐かしいです。 そして、少し足をのばせば、駅前には精文館(せいぶんかん)。 こちらの蔵書数は素晴らしい。大方ほしい本は手に入ります。 豊橋人には、なくてはならない存在です。 もう一件、豊橋公園のそばに、豊川堂(ほうせんどう)さんがあります。 こちらの店内は、落ち着いた雰囲気で、文化の薫りが漂います。 店主おすすめ本のコーナーもあり、また違った魅力を感じれます。 最近、中学2年生の娘が映画「余命1ヶ月の花嫁」に興味をもちました。 そこで、これはチャンスと本の贈物を思いつきました。 早速、豊川堂さんで、単行本を見つけてレジへ。 にこやかに、さらりと店員さんが「こちら、文庫本もありますよ〜」 3分の1ほどの価格ですが、こちらで十分でした。 「じゃあ、文庫本で。」浮いたお金で、他の子供たちへの本も買えました。 こんな地域の本屋さんを応援したい今日このごろです。 2009年5月9日
「子供のため」という視点は、問題の扉を開く鍵のようです。 もう一度、その視点で見つめ直してみます。 すると、今まで見えなかったものが見えてきます。 明日への道標です。「子供のため」は、真に大人のためでもあることに気がつきます。 例えば、酒やタバコを飲まない。 シンプルに考えれば、大人にとっても良いことです。 ところが、「大人は、どうして飲むの?」 子供はその点では、実に鋭く率直です。 濁った大人の目でなく、澄んだ子供の目こそ、真実が見えるように思います。 いろんな理屈はつけれますが、大人の矛盾ということです。 「法律で決められているのだ。」と諭す前に、 その素朴な指摘は、大人たちが自らの生き方を反省すべき時のように思います。 そこで、子供のように素直になれれば、大人が自己変革をする機会となります。 しかも、「子供のため」は党派を越えて、大人たちの力を結集できます。 子供は偉大です。イエス様も子供たちが大好きでした。 「幼子らを許せ、我に来るを止むな。天国はかくのごとき者の国なり。」 2009年5月5日
教師の有形力行使に、はじめて最高裁判所の判断が下されました。 わがままな子供を口だけで諭すことは至難の技。 そのまま放任させれば、子も親もさらに混乱をきたすでしょう。 わがままと自主性の違いも熟考すべしです。 聖書には「愚かさは子供の心につながれている。懲らしめの杖がこれを断ち切る。」 底流には人間観も関わります。 最近の中学生は、有形力行使に戸惑いがある教師の隙も突きます。 いかにも知能犯。もし、彼らが生命に関わる重大事をしでかしたら、 有形力行使が相応しい場合も十分ありえます。 校内暴力で荒れていた我が時代は、毅然とひるまず叱っていただいたものです。 今とあの頃は違うようです。 その時の、先生の真剣な眼差しは、今でも焼きついています。 それは、怒りの暴発なんかではありません。 立派な人間になってもらいたい、一途な愛情の発露でした。 今日、叱れない教師や親こそ、逃げや甘さがあるかもしれません。 有形力行使が本質ではありません。信頼と愛情の不足こそ大問題です。 2009年5月1日
販売店にとって、安売りは良いことなのでしょうか。 顧客のためでも、それが過ぎると、利益がなくなり、販売店は運営できません。 インターネット上の安売りは、過ぎています。 モール上のサイトでは、価格の安い順に店名が表示されます。 安売りを助長していますが、販売店は疲弊しています。 モールから撤退したくても、もはや余力がないのかもしれません。 そのため、いよいよ安売りは加速します。節度なき安売りが横行します。 その流れは、実店舗にもまで及びます。 高額なものを百貨店で購入する人はいなくなるでしょう。 それが、日本の小売業全体の現実です。 お互いに利益を食い合って、共倒れとなる。 適正な価格とは何でしょうか。それは、販売店が末永く運営できる価格です。 買う人だけでなく、売る人も納得できる価格です。 本日、フライパン倶楽部は、ルクルーゼ鍋の販売から撤退します。 「節度なき安売りは、破滅の道だ!」販売店は、もっと主張すべきです。 顧客のためとは名ばかりで、結局顧客のためならずです。 2009年4月30日
近くの豊橋商業高校から、就業体験で高校3年生がやってきます。 今回は、クッキング部の部長さんでした。 いつも最初の時間は、「働くとは」を考えてもらいます。 「何で働くのかな〜。」そう問いかけながら、自分も原点に返っています。 すると、新たな発見。その答えから教えてもらっています。 今回は、お料理に興味のある方でしたので、「食べるとは」も考えてもらいます。 これは、ホームワークです。辰巳芳子さんの「いのちの食卓」を読んでもらい、 レポート用紙1枚に感じたことをまとめてもらうのです。 そのレポートから、改めて私も教えられます。 いつも思うのですが、教える人は、教えを受ける人から学ぶ。 教師は生徒から。親は子供から教えられます。 この時期、ボタンの花の真ん中で、たっぷりの花粉をまとって蜂が蜜をもらっています。 蜂の減少が問題となっています。 実は、受粉のお手伝いを蜂にしてもらい、花も実を結ばせている。 お互いに助け合っている関係なのです。 今年も、高校3年生に教えていただく日々が始まりました。 2009年4月28日
豊橋動植物園には、長野県飯田市からいただいたリンゴの木があります。 この時期、とても可憐な白い花が咲いています。 その時、映画「サウンドオブミュージック」で歌われた エーデルワイスを思い出しました。 そこでは、「small and white」と歌われて、同じく白い花なのです。 白い花には、何か魅力があります。歌詞の続きは「clean and bright」です。 すると、乙女をイメージしました。花嫁がバージンロードを歩きます。 その道ばかりか、ドレスも、ブーケもやはり白です。 その通りの汚れなき乙女が、花婿のもとにやってくる。 花婿にとって、花嫁が乙女であることは、最高の贈物。 もちろん、花嫁への清き花婿も然りです。 お互いが自分の体を守る。貞操を守る。その生き方の象徴が白い花に思えました。 白い花を咲かせれば、周りの人を生かす、赤く美味しい実がなります。 やはり、清らかな二人が築く家庭には、豊かな実が結ばれます。 雨にも負けず、風にも負けず、今日も白い花を咲かせている。 それは、祝福の王道を示していました。 2009年4月23日
最近、聖書を読んでいて、薄っすらと涙を浮かべた言葉がありました。 それは、創世記24章という、美しい花嫁物語です。 ユダヤ人の祖であるアブラハムの息子イサクとリベカが結婚に至った経緯が 1章をかけて事細かく書かれています。 父親のしもべが花嫁探しに出かけるのですが、不思議な導きがあり、リベカと出会います。 なんと、そのしもべに出会った翌日には、花婿イサクのもとに出発するのです。 もちろん、リベカにとって、花婿はまだ見ぬ人。 しかし、リベカは、その不思議な導きを、自分なりに熟慮したと思います。 家族は、すぐに出るのをひきとめ、リベカに問います。 「この人といっしょに行くのか。」すると、「はい、まいります。」 この言葉に打たれました。 そこには、うら若い乙女の精一杯の決断が含まれているように思えました。 この決断こそが、父母のもとを離れる真の独立でしょう。 結婚とは、独立への門のように思えます。 ちょうど、天皇皇后両陛下の金婚式が行なわれました。 50年前の美智子さんとリベカが重なりました。 2009年4月14日
サクラ舞う豊橋公園をぶらぶら歩いていると、 タンポポがひときわ沢山咲いている場所がありました。 午後の日差しに向って、きょとんと微笑んでいます。 どうして、ここに密集しているのかなあ。不思議に思いました。 ちょうど、その場所は公園の裏手で、人目につきにくいところです。 桜並木の小道があり、すぐそこには、朝倉川という川が流れています。 良く見ると、子供の頃から、心に焼きついている一つの石碑がありました。 4人の男たちがボートを漕いでいます。 それは、昭和41年に朝倉川が集中豪雨で氾濫した時に、 孤立した住民を助けに出かけて殉職した4名の警察官の記念碑です。 その石に刻まれた4名の姿は、実に格好良い。男の美学すら感じます。 「人その友のために己の生命を棄つる、之より大いなる愛はなし。」 聖書の言葉を髣髴させる、大変インパクトのある石碑なのです。 そこに桜が舞い、タンポポたちが精一杯に花を添えている。 花たちも、咲くべきところを選んでいるようです。 それは、偶然ではないように思えました。 2009年4月9日
サクラの開花とともに新年度が始まります。 一斉に満開となるサクラを見て、「強く明るく」という言葉を思いました。 歳月とともに、人の心は、弱く暗くなってしまいやすいものです。 見るもの聞くものに、いつしか影響されてしまいます。 その時、サクラは日本人に、原点を教えてくれるようです。 強い心をもて。明るい心をもてよ。よく景気の気は、気持ちの気と言われます。 景気とマインドとの関係を調べてみると面白そうです。 巡り巡って、サクラの時期を迎える度に、日本人は心を新たにして、 時代の荒波を乗り越えて来たのかもしれません。 そんな時、首相のメールマガジンに目が留まりました。 「強く明るく」がタイトル名で使われていたのです。 周りはいつもブーブー言うものですが、そんな声を一切ものともせずに、 定額給付金や高速道路の割引など、実生活に密着した政策を淡々と実現しています。 そんな姿に「強く明るく」生きる首相を感じている人も増えているようです。 そこで、自分と首相への応援歌です。サクラ咲く 強く明るく やまとびと 2009年4月4日
イチロー選手の生き方は、イソップ物語を思い出します。 ロバを売りに行く親子に、周りから声がかかります。 「ロバに乗ればよいのに。」子供をロバに乗せます。 「親だけ歩かせて生意気だ。」代わって親が乗ります。 「子供がかわいそうだ。」今度は、二人で乗ります。 「ロバがかわいそうだ。」そこで、ロバの足を縛って担ぎます。 「ロバをかつぐなんて、頭がおかしい。」町中が大騒ぎになり、最後はロバが 暴れだして川に落ちてしまう。 周りの声に振り回されて、自分の意志をもてない人の結末を教えています。 名前を鈴木ではなく、「イチロー」と登録したのは画期的でした。 その時も、周りの人はブーブー言っていたことでしょう。 プロの世界に入る時も、大リーグに行く時も、 「おまえにはできない。やめた方がよい。」そんな声もあったそうです。 イチロー選手が野球少年たちに語っていました。 「重要なポイントが来た時に、自分の意志で何かを決められる大人になってほしい。」 自分の意志を貫く人の結末こそ、あのセンター前ヒットでしょう。 2009年3月28日
「豊橋・生と死を考える会」という素敵な集まりがあります。 そのお世話をしている田中さんが実店舗の方に寄ってくれました。 もともとは、終末期医療のホスピスを考える会から始まり、 「よりよく生きること」を真摯に模索しています。 私のおにぎりの先生と仰ぐ佐藤初女(はつめ)さんを皮切りに、 渡辺和子さん、柳田邦男さん、山崎章郎さん、鎌田實さん、 アルフォンス・デーケンさん、曽野綾子さんなどなど 大変多忙な人たちを豊橋にお呼びして、講演会を開き続けています。 まさしく継続は力なり。その地道な活動ぶりには頭が下がります。 谷川俊太郎さん親子や千住真理子さんの詩や音楽を交えることもあります。 お招きする人たちの人選やその企画も素晴らしい。 それでも、ご婦人やご年配の参加者が多いのが気がかりです。 もっと若い世代にもと、惜しむ気持ちがあります。 本物の話は、世代を問わないと思うのです。そこで、親子での参加もお勧めです。 今週の土曜日は、がんになったホスピス医の細井順さんが豊橋にやってきます。 2009年3月24日
日曜日の午後に、太平洋が眺望できる近くの潮見坂の海に出かけました。 波打ち際で遊んだり、凧揚げをしたり、サッカーをしたり、 カニを採集したりとバリエーションは豊かです。 その日、友人が大アサリをもって来てくれました。 大アサリは、このあたりの名物でもあります。 砂浜で火をおこして、網焼きに。パカッと開いたら、醤油とバター。 潮風をうけながら、子供たちは、次々にペロリと食べてしまいました。 また、この太平洋でも、少なからず、潮干狩りまで楽しめるのです。 ちょうど同じころには、北海道からホタテが送られてきました。 これも、大喜び。どうやら、みんな貝好きのようです。 小泉武夫さんの著書「食と日本人の知恵」には、「貝を食して快となる」という項目があります。 その栄養もさることながら、昔の人は、貝を装飾品に、また貨幣にもしていた。 漢字を見ると頷けます。財、賃、費、貴、貿、貨、貯、購・・・ どれも貝がつきます。やはり、子供たちも、貝拾いに夢中になります。 貝は美味しいばかりか、不思議な魅力があるようです。 2009年3月19日
「韓国のお母さんになります」と拉致被害者の 田口さんの息子さんを抱きしめた金賢姫(キムヒョンヒ)さん。 死線を2度も越える波乱万丈な人生が現在進行形です。 大韓航空機を爆撃して自殺を図った時。 そして、死刑の宣告を受けた時。しかし、今生きている。 多くの人の命を奪ってしまった境遇の中で、 いかに生きて行けばよいのか。それは過酷な問いのようです。 幸い彼女は、獄中で聖書に出会う。 そして、洗脳の呪縛から解放されて、劇的な改心を果たします。 その時に、生きているのではなく、生かされていると悟ったのかもしれません。 北朝鮮の実父を含む家族は、強制収容所に入れられているようです。 その意味では、今回の面会も、相当の覚悟があったのでしょう。 同じ信仰をもつ大統領も加勢して、あくまで彼女個人にとっては、 命をかけた決断のように思えます。今、自分がなすべきことは何か。 親子の絆を断ち切られた田口さんを眼前にして、 あえて、ご自分の親子の情を断ち切る。涙の彼方には、希望の虹が輝いています。 2009年3月12日
ぶらりとお店に寄ってくれたのが、びわこフキンでお馴染みの朝倉さん。 有元葉子さんが激賞するフキンをココ豊橋で作っています。 このフキンは、わが町の生糸の歴史にも由来します。 その昔、小渕志ち(おぶちしち)さんが豊橋の二川地区で、製糸工場をはじめます。 さなぎが二つ入った屑繭から、生糸を繰る技術を開発。 一躍わが町の製糸業が盛んになります。 当時の製糸工場と言うと、「ああ野麦峠」の世界。 ところがドッコイ、「豊橋には、女工哀史がなかった!」 小渕さんは女工さんと食事をともにする。 そのため、大家族のように生き生きと働いていたそうです。 そんな故郷の歴史の語り部としても朝倉さんは活動しています。 私もふと、同時代を生きたお隣の湖西市出身の豊田佐吉さんと 小渕さんのつながりにも興味をもちました。 クリスチャンの大先輩でもある朝倉さんは、 ホームレスの方へのボランティア活動をはじめ、 ご自分のできることを日々淡々とされています。 びわこフキンのタワシを片手に「今度、これを二川名物にしたいよ」 2009年3月7日
ウズラの卵は、本当に小さな小さな卵です。 この小さなものを、毎日毎日、誠実に生産しているのが 豊橋のウズラ農家の皆さんです。 その現場を見学してみたくても、管理が徹底しているので立ち入ることができません。 しかも、内部の人でさえ、なかなか入れないことでも有名です。 今回の検査にしても、自発的に名のり出ているほどです。 ここまで、管理が徹底していての今回の事件。 変死したウズラは一匹もいません。しかし、何十万羽が処分されます。 その処分に手間取っているのも、ウズラが元気だからなのです。 非常に複雑です。未知のことであり、その対応は慎重が期されるべきでしょう。 かたや、地元農家の皆さんを覚えたい。 安易に棚から引き上げる地元販売店を残念に思います。 私は、あの事件があっても、なお棚に並んでいたウズラ卵を見て、 その店に心で拍手しました。風評に流されない「それでこそ、豊橋人だ。」 そして、一番確かな情報をもつ知事と市長こそ、ウズラ卵を公衆の面前で、にやりと食べていただきたい。 2009年3月3日
北海道から親戚のおばさんが豊橋に来てくれました。 ところが、ちょうど寝込んでしまい、思うように接待ができません。 そんな時、ご近所の方が、家内のもとへ「おばさんに、このイチゴを食べてもらって。」 家内からは、その方から「いちごをもらったよ。」とだけ伺い、 私は自分のためと思い込んで、パクパクパク。 「いちごって、こんな美味しいんだ〜」 暗闇の中で、その赤いイチゴが、赤いハートに見えていました。 そのイチゴのおかげもあり、翌日はおばさんの接待もできるまでになりました。 それで、そのご近所の方に、率直にお礼をしました。 「あのいちごは、ハートに見えましたよ〜」「・・・・・」 その話を家内にすると、「え〜。あれは、私が買ってきた別のいちごだよ。」 よく話を聞かずに、早とちりをしてしまったのです。 家内はすっきりせず、お詫びしたところ、「とにかく、喜んでもらえれば良いのよ。」 いや〜、気恥ずかしい。このようなすれ違いってありますね。 しかし、あのハートに見えたいちごは、家内のもので良かったと感謝しました。 2009年2月28日
若き水谷豊さんが小学校の教師になるドラマ「熱中時代」を久し振りに観ました。 私は生徒たちと同世代で、当時も楽しみに見ていました。 ところどころ記憶の断片が蘇りますが、視点は変わってきますね。 熱中先生を取り巻く人たちの温かいつながりに憧れます。 あのつながりは、どこに由来するのだろうか。 いつの間にか、この国が失ったもののように思えてなりません。 このドラマ、いっしょに食べる光景が多いのです。 熱中先生は、校長先生のお宅に、他の先生たちと下宿しています。 夕方には帰って来て、みんなで食事をするのです。 そして、朝も。その中で、学校であったことを共に喜んだり悲しんだり、時には相談しあったり。 その光景が、実にあったかい。 かたや、今日では、ワンルームマンションのコンビニ弁当でしょうか。 NHKの「今日の料理」のレシピが、この春から4人分から2人分になるそうです。 お料理は、たくさん作って、たくさんで食べる方が美味しいのです。 熱中先生のあのフィーバーぶりも、手作り料理の賜物でしょう。 2009年2月24日
道産子の家内がいつになく激賞していたのが、 ココ豊橋の和菓子屋お亀堂さんの「あんまき」です。 時同じくして、和菓子職人を親にもつ、三重県出身の方からも 「お亀堂のあんまきは、最高に美味しい!」 家内以上の惚れ込みように、何だか、自分のことのように嬉しくなりました。 このあんまきは、1つ七十円也。一口サイズで、もっちりとした皮に、 こしあん、つぶあんがさりげなく包まれています。 餡(あん)は、どれも同じように思っていたのですが、 餡こそ手間隙かかる職人技と知りました。 チャレンジ精神旺盛で、こだわり肌のお亀堂さんならばこその餡の出来栄え。 やはり、このあんまきは、その筋で表彰も受けているほどの逸品。 開発までのストーリーも聞きたくなりました。 豊橋に来られたら、ちくわも良いですが、お土産には お亀堂さんの「あんまき」をおすすめします。 実は、この2日間ほど寝込んでしまったのですが、 妙に食べたくなったのが、このあんまきでした。 パクリパクリと、その甲斐もあり、今日から復帰いたしました。 2009年2月19日
春めいた温かな日となり、本日味噌を仕込みました。 砕いた大豆と米麹を混ぜ合わせて、琺瑯容器に重石をのせ収めます。 それだけの作業でしたが、一汗かきました。 混ぜ合わせ仕込むだけでも、かなりの力が必要です。 終わった後は、ホッとするとともに、ドッと疲れを感じました。 味噌を作るには、大豆を煮込むことからはじめ、それを仕込み、 それを寝かせておくなど、かなりの労力と時間を必要とします。 その過程では、目に見えませんが、作り手の力が込められ、 さらに熟成させることで、天然の静かなる力が蓄えられて行くようです。 そして、口に入れるものは、味噌に潜んだこの力をいただき、此処一番で踏ん張れる。 この時代に、大人も子供も我慢ができず、踏ん張りがきかない。 それどころか、心の病になる人も増えている。なぜか。 それは、とりもなおさず、本物の食材を失ってしまった結果かもしれません。 土俵際に追い込まれても、あきらめない気力は何処より。 それは、労力と時間がそそがれた、本物の食材から訪れます。 2009年2月14日
昔わが家の書棚にずらっと並んでいたのが、山岡荘八さんの「徳川家康」でした。 その冊数に、ひとりの人から、こんなに物語が生まれるものかと 子供心ながらに関心しました。ところが、その冊数に圧倒されてか 読んでみる機会もありませんでした。同じ三河地方の出身であり、お料理道具を長年扱ってきた わが家の先祖たちも家康の生き方から多くを学んでいたと想像します。 「腹が減っては、戦ができぬ。」と言葉があるように、戦国武将は 食べることに大いに関心をもっていたようです。 その時、食べることに並々ならぬ関心をもっていたのが、家康なのです。 「そうじて、人は朝夕の呑み食うものが大事なるぞ。」 信長は、鉄砲に目をとめましたが、家康は、胡麻や味噌に目をとめた。 いくら最新の武器があっても、人に気力や体力が備わっていなければ、宝の持ち腐れ。 まず、人ありき。まず、食ありき。 家康は、いろんな経験の中で、それを悟っていたようです。 人を治めるは、食にあり。この家康の開眼に、この時代も倣いたいものです。 2009年2月12日
地元で食品スーパーを経営する社長さんが、ぶらりと店に寄ってくれました。 「即席カップラーメンって、見えないけど、たくさんの油が入っている。 あまり店にも置きたくないんだがね〜。」 そこで、社長さんから一冊の本をご紹介いただきました。 「食品の裏側」で話題になった安部司(あべつかさ)さんの最新刊です。 その名も「なにを食べたらいいの?」 いわゆる食品添加物の現場で働いていた著者の食まわりの実態と提案です。 もともと、ご自分が肉団子なるものを開発して、 お子さんが誕生日にその肉団子を食べているの見て、ショックを受けた。 それで、潔くも翌日会社に辞表をだす。 それほど、その食品は食べれる代物ではなかったのだそうです。 便利になった食まわりですが、代償も大きそうです。 社会の中にはまってしまうと、いつしか真実が見えなくなります。 私がこの本で一番心に留まったのは、「子供のために」という視点です。 それが、真実の扉を開けてくれるようです。 そして、手作り料理にまさるものなしと再確認できました。 2009年2月7日
豊橋で警官が威嚇発砲する事件があり、その対象は体格の良い14歳でした。 学生時代に、勉強をみてあげていた、当時14歳のたかしを思い出しました。 彼も体格は良く、動きはゆっくりでしたが、勉強はそれほど得意ではありませんでした。 しかし、数学でわからないところがあると、真剣にずっと考えている。 理解は遅くても、一生懸命さが伝わってくる少年でした。 彼はどのような大人になるのかなあと不安な面と、 「たかし、がんばれよ〜」と声援をおくりたくなる、ひたむきさを持ち合わせていました。 その後、彼は柔道に取り組み、輝きを放ち始めます。 彼の体格から、柔道が強くなったとは頷けます。 わが道を得たように、やがて都の警察官になり、今は刑事をしているのです。 「お〜たかしがそこまで成長したのか」と感慨深く、その知らせをいただいた時に嬉しくなりました。 刑事とは、命を張っているのです。 たかしが、命を張って仕事をしていることを考えると涙が出てきます。 同じ街に住む迷える14歳に、たかしが重なってしまいました。 2009年2月5日
ママさん宇宙飛行士に、ようやく日本も登場かと喜ぶべきでしょうか。 ご主人をはじめ周囲の方々の理解と協力の賜物だなあと恐れ入ります。 かたや、どうもすっきりしないのは、小さなお子さんの存在です。 子どもがママを応援するほど、健気な声に響いてしまいます。 時同じくして、「弁護士白書」なるものに、日本の女性弁護士は、まだ全体の14%止まり。 欧米諸国からすると遅れていると新聞にありました。 何も欧米諸国と比べることありません。それで、結構なのです。 日本の女性は、欧米諸国と違って、子育てや家事を片手間にできるとは考えない。 それに、十分な価値を見出しているのです。いや、楽しんでいるのです。 宇宙飛行士が、「1年後にシャトルに乗れることに、ワクワクしています。」 それも素晴らしい。しかし、私たちは、子どもの1年後の成長に、 もっとワクワク胸を高鳴らせるのです。間近でその様子をじっと見守れることこそ、最高の幸せなのです。 大人の視点ではなく、子供の視点に立つと、違った世界が見えてきます。 2009年1月30日
学生時代に、牧師婦人から一冊の本を薦められました。 「私は、これで信仰をもったのよ。」 気になって、読んでみたところ、嗚咽し涙があふれました。 それが、ストー夫人の「アンクルトムの小屋」。 主人の非情な扱いにも関わらず、黒人奴隷のトムが最後まで 清く正しく生き抜いていく。 まさに、トムは自由を高く掲げる合衆国の理念を生きていました。 同じくその本に打たれたのは、当時のアメリカ人でした。 このままではいけない。それが、国を二分する戦争にまで至ります。 その一人のリンカーン大統領も、ストー夫人に「あなたのような小さな方が、 この大きな戦争を引き起こしたのですね。」 昨日、オバマ大統領が伝えたかったことも同じでしょう。 もう一度、原点に返ろう。 打たれた私も、自分の結婚式の記念品に、「アンクルトムの小屋」を選びました。 出版社にお願いして、聖書の言葉と二人の名前を入れていただきました。 私たちも罪の奴隷であることは変りません。本当の自由とは何なのか。 人としての原点を教えてもらえる一冊です。 2009年1月22日
箱根駅伝をテレビ観戦しました。 今年のお正月は、連日爽やかな晴天日となり、富士山が見事でした。 私がうるうるしてしまったのは、早稲田大学の往路の最終ランナーが、 ゴールインした瞬間でした。その全身がくずおれたのです。 まわりの人たちがタオルで抱きかかえてあげる。 しばらく、立ち上がれません。 往路の最終コースと言えば、難所でもある箱根の凄まじい上り坂です。 そして、追いつ追われつのデッドヒートを繰り広げて、 絶景の富士が見つめる芦ノ湖でテープを切る。 その全力を出し尽くした瞬間は、魂を揺さぶります。 「あ〜あんな生き方をしたいなあ」そんな憧れが潜んでいました。 年末に家族一緒で観た「30人31脚全国大会」も、うるうる状態でした。 小学生30人が力と心を合わせて、懸命に50メートルを駆け抜ける。 そこにも、「あ〜あんな生き方をしたいなあ」の羨望がありました。 涙は、そこに戻れ。泣くは、そこに立て。と漢字で書きます。 うるうると涙の流れるところ。それは魂が求めている、明日への道標のようです。 2009年1月17日
ウェッジウッドが経営破綻。 当社でも扱いのあった英国の高級食器メーカーです。 それでも、国産のノリタケさんの方が作りは良いよなあ〜と、 冷めてノリタケ派でもありました。 ところが、最近は、ノリタケさんも砥石の方が主のようで、 食器の方は往時の精彩を感じません。 堅実に食器のみを手がけれれば良いのですが。 メーカーの規模が大きくなり過ぎて、 市場が縮小した時に、迷走が始ってしまうようです。 ウェッジウッドの湯のみが出てきたり、お鍋が出てきたり、 専門店としては興ざめでした。ウェッジウッドは、やはり洋食器なのです。 ブランド名のみを頼りに、他のものまで手がけてしまう。 やはり、「餅は餅屋」という言葉のごとくに、 自分を見つめていくことが重要です。 フライパン倶楽部とは何なのか。 最近、子供が何気なく、口ずさんでいる歌に、はっとしました。 未来の自分に書いた「手紙〜拝啓十五の君へ〜」という歌です。 その歌詞の中に「自分とは何で、どこに向うべきか。」 その問いかけが、今日こそ必要とされています。 2009年1月10日
明けましておめでとうございます。
年末から新年にかけて、3人の子供たちは楽しんで
年賀状を書いていました。
パソコンもプリンターも使わない。アナログのペンと色鉛筆です。
一つ一つに時間をかけて、きちんと手書きで書いている姿に教えられました。
私の年賀状と言えば、未だデジタルの産物。
そこで、今回は子供たちに幾分見習って、初めて筆をとりました。
子供の習字道具を借りてきて、年頭の思いを書き上げました。
「牛歩の如く」と5文字。それでも、これをスキャナーにかけて印刷。
ただ、一筆部分を設けて、署名は一つ一つ手書きにしました。
やはり、子供たちの年賀状には及びません。
携帯メールで新年の挨拶を済ませる人も増えている様ですが、
便利さになれて心が失われている様にも感じます。自戒したいです。
いただく年賀状を見ても、子供たちの年賀状は、
個性豊かに字が曲がっていても、心が感じられ魅力的です。
新年は、まさしく牛歩の如く、時間をかけて、
心のこもった手紙を書いてみたくなりました。
2009年1月5日