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商人日記byフライパン倶楽部代表

人生とは、いかに生きるべきかを問いながら、自分とは何なのかを探す旅のようです。 お料理道具を売る現場で、地域との関わりの中で、家庭生活で、湧き上がった言葉を丹念に紡いでみた、明日への旅日記です。



母親が大変感動したと言うので浜松市立美術館で開催されていた「レーピン展」を訪れてみました。 イリヤ・レーピンは、帝政ロシア時代に生まれた画家。 貴族等の肖像画を精緻に描く一方で、社会の最下層にある民衆の赤裸々な姿を力強く描いていました。 観覧していて、ある小さな作品の前で、ボロボロと涙が出て来ました。 絵画の前で、涙が出るのは初めてのことでした。 それは、「パリ、モンマルトルへの道」という空と道のみが素描されたシンプルな風景画。 主義主張の色濃い作品が居並ぶ中で、この絵に心を揺さぶられたのです。 そこで、後日そのタイトルを調べると、 モンマルトルはパリで一番高い丘で、「殉教者の丘」に由来があるとのこと。 その昔、信仰のゆえに三人の首がはねられた地。 そして、フランシスコ・ザビエルがイグナチオ・デ・ロヨラらと誓い合い イエズス会を創設した地でもありました。 そこには、道を前にして怯えている者への激励があったようです。 たとえ道は険しくとも、共に歩まれるお方がおられます。 2012年12月25日



子供のクリスマス会で、サンタクロース役を頼まれました。 お馴染の赤い衣装を身に付けて、子供たちにお菓子のプレゼントを配ります。 その時、サンタさんとは、どんな人だろうと改めて考えてみました。 すると「メリ〜クリスマス!」と笑顔で語り、その後は 「ハッハッハッハ〜、ハッハッハッハ〜」と高笑いしている。 そして、その笑顔の背後にあるサンタさんの人生にも想像を膨らませてみました。 すると、サンタさんが全世界で愛され続ける理由が分かって来たようです。 想像したサンタさんは、人生経験が豊かで、酸いも甘いも知っている。 この憂き世の荒波を受けて、不条理や理不尽を経験して来た人。 それでも、サンタさんは、笑っている。 はっと気付いたことは、この一年、親として子供たちにどれほど笑顔を届けることができたのか。 サンタさんがやって来るとは、親が笑顔でクリスマスを迎えることなのかもしれません。 サンタさんは、子供たちよりも、大人たちに「スマイル、スマイル、スマイル」と 優しく語りかけているようです。 2012年12月21日



最近、夢の中で学生時代に戻りました。 学校の体育館のようなところで仲間たちと劇を演じていました。 どうも練習不足だったのか、舞台袖に不安な自分がいたのです。 すると、観客がしだいしだいに立ち去っていき、ついに誰もいなくなる。 どうやら、その劇は、途中で終わってしまったようです。 その時の鬱積した気分は、最近もいろんな場面で感じているのかもしれません。 すると、優等生のように、夢の中でも考えているのです。 これは明日への飛躍の機会だ。「ありがとう!」と無理にでも感謝していこう。 しかし、夢の中の私は、それをしませんでした。 そこで、もう一人の仲間を誘って、体育館の真ん中で、ある言葉を叫んだのです。 二人全身全霊で「バカヤロ〜〜」 それで、目覚めた私も、何だかすっきりしてしまいました。 すると昨日、ある自動車メーカーのテレビCMで、二人の有名人が、 同じことをしていて驚きました。同床異夢ならぬ異床同夢か。 それは、昔も今も変わりませんが、腑甲斐ない自分への叫びだったようです。 2012年12月17日



駅前で煙草を燻らせて、何をするともなく、ぶらぶらとたむろしている若者たち。 その光景をみると、「帰る家もないのかな〜」と寂しい気持ちになります。 そんな時、地元のラーメン店に入ると、同じ年頃の子が、にこにこしながら 「いらっしゃいませ!」と元気よく迎えてくれました。 細やかな配慮もあり、終始きびきびと働いています。 その若者のSmileに、そのお店の先輩経営者を思いました。 先輩は、「Smile & Sexy」を掲げています。 Sexyとは、心身ともに素敵で自分を率直に表現できる人、それは自ら意思決定できる人を表します。 Smileとは、単なる笑顔にとどまらず、人間性やマナー、服装や表現方法、挨拶等まで含んでいます。 先輩はご自身の体験の中で、Sexyになるためには、まずSmileが必要だと気付かれたようです。 私がその先輩を知ったのは、小学生の時。叔父の友人で、豊橋駅地下の店を当時切り盛りしていました。 そして、今日は東証一部に上場する会社に。 あの若者のSmileに、明日への希望が湧きました。 2012年12月7日



四十を越えた義弟の結婚が決まりました。 家内の兄弟は五人ですが、その数だけ喜びは大きくなるようです。 私のお世話になっている牧師は、なんと十二人兄弟です。 甥や姪は、ゆうに三十は越えます。 つい最近も、姪の一人が入院すると、親戚中で連絡を取り合ってお見舞いに向かう。 小さな甥が事故で亡くなった時には、悲しみはその人数分の一に小さくなったようです。 兄弟の間で、互いに助け合っている姿は麗しいものです。 また、家族とは違い、少し離れたところにいるので、より客観的に見えてくる。 率直に助言し合える健全な関係にあれば、軌道修正もできてしまいます。 最近よく耳にする別れ話をはじめ、人間関係でのトラブルは、 兄弟の助け合いがあれば、その多くは解消されるのかもしれません。 兄弟の間で互いに連絡を取り合い、互いに助け合っていくことには、 お金では代えられない大きな祝福が待っています。 傍で麗しい兄弟たちを眺めながら、来年早々、家族総出で結婚式にいざ駆けつけます。 2012年12月3日



「お父さん、最近来ているね。」 何が来ているのか。それは、頭髪の老化が来ている模様です。 本人よりも家族の方が分かるようです。 そんな時は、一抹の寂しさを感じるものですね。 髪は長い友とも書くので、長年の連れを少し失った心境でしょうか。 そこで、この世相は「アンチエイジング」なる言葉が飛び交って、年齢に抗う人も多いようです。 そんな時、読売新聞の日曜版で良寛さんの言葉に目が留まりました。 「災難に逢(あう)時節には災難に逢がよく候(そうろう)」 それは、諦(あきら)めること。 この言葉の由来は、明(あき)らめることであり、 現実を明らかに観(み)ることであると解説がありました。 「まず現実を受け止めよ。その上で、なお前向きに生きていく時に 初めて悲しみを乗り越える力が出てくる。」 子供は子供らしく。若者は若者。同じく老人は老人。 老いを、死を、そのまま受け入れてみる。 そして、自分は自分らしく生きる。 年齢相応があれば自分相応もあります。 これが「今日の自分」と胸を張ってこそ美しく輝きます。 2012年11月22日



中学校時代の友人のお母様は敬虔な信仰者。 当時自宅を開放して、子供たちに習字を教えていました。 「お前のお母さんは、クリスチャンなんだ。」 軽蔑をこめて友人をからかっていました。 ところが、その友達の家に遊びに行くと、 そのお母様の雰囲気は独特で、何か静かな輝きを帯びていました。 そのお母様と重なったのが、来年のNHK大河ドラマで主人公となる新島八重(にいじまやえ)さんです。 八重さんは、会津藩の福島出身。 あの戊申(ぼしん)戦争では、少年兵の白虎隊の悲劇は有名ですが、 背後で支えていた会津女子の生き様も壮絶です。 やがて、八重さんは、同志社を創設する新島襄(じょう)と結ばれて、 篤志看護婦として日清・日露戦争で従軍します。 新島襄曰く「彼女は、やることが非常にハンサムです」 友達のお母様も同じく会津女子でした。 後に私も同じ信仰を持つに至りますが、 お母様は迷える中学生のために祈っていて下さったと思われます。 私の信仰の源泉も、会津女子に至るのかもしれません。 2012年11月17日



わが故郷の塾の集まりで、後輩の女の子がゲスト出演してくれました。 名刺には「路上から武道館へ」とあり、武道館ライブを目前に控えていました。 もともとは、自分の作った曲を街頭で演奏することから始まったそうです。 演奏後に声をかけました。 「自分の学生時代を思い出したよ。実は、周りは温かく見守ってくれていたんだね。」 彼女も深く頷いていました。私の場合は、路上演奏ならぬ、路上説教でした。 塾校内で、時には渋谷で、新宿で、池袋で街頭に立ちました。 狭い中庭の大銀杏の前で、腹の底から大きな声を出すこともありましたが、 学校から止められることはなく卒業まで毎週続けました。 塾の創始者が、英語のスピーチを演説と訳されて、 人前で主義主張を語ることを奨励していた伝統も息づいていたのかもしれません。 周囲は冷ややかなようで、何人かは背後で温かく見守ってくれていました。 迷惑もかけましたが、その中で育てていただきました。 先週、後輩の武道館ライブも盛況のうちに終わったようです。 2012年11月10日



退職された地元の政治家と新幹線で同席させていただきました。 所属していた政党を思い出して問いかけます。「護憲派ですか。」 「憲法は解釈論。曖昧が日本人の性癖に合っている。」 すると、条文と現実の違いを交通法規で説明されました。 「制限速度も10km程度は許容される。」 几帳面な国民性ゆえ、白黒をはっきりさせると、かえって問題をおこしてしまう。 その曖昧さが民族の知恵だと。果たしてそうなのか。 政治を退廃させている元凶こそ、この曖昧な言葉がまかり通ることにあるのかもしれません。 条文や約束のもとにある言葉とは、本来その通りになることが前提にあります。 それがなければ、その言葉を信じることができません。 少なくとも、日本語の誠とは、言に成るで構成されています。 私が思うに、この曖昧さは、言葉遣いの問題のようにも思います。 政治家であれば、文学者のような美しい言葉ではなく、実態を正確に表現できる言葉を使うべきでしょう。 憲法論議以前に、政治家を信じられないことが問題です。 2012年11月3日



都知事を辞任した石原慎太郎さんが、彫刻家の平櫛田中(ひらくしでんちゅう)さんの 言葉を紹介していました。 「いまやらねば、いつできる。わしがやらねば、たれがやる」 その平櫛さんは、百七歳まで生きて、死の直前まで創作活動をされていたそうです。 百歳の誕生日には、「六十・七十は鼻たれ小僧。男ざかりは百から百から。わしもこれからこれから。」 ならば、八十の石原さんは、ようやく鼻たれ小僧を卒業なのでしょうか。 その石原さんが、歴史家トインビーの言葉を引用していました。 「いかなる巨大な国家、優れたとされる民族もやがては衰微し崩壊滅亡もする。 その最大の要因は、自分で自分のことが決められなくなってしまうことだ」 時にその発言は毒もあり過激ですが、今の日本を言い当てているように思います。 その時、石原さんの言説をそのまま鵜呑みにせず、 国民一人一人が自ら考えて自ら行動していくことが肝要です。 まだ赤ん坊かもしれない私も、大先輩にならって、自分の時を見極めて行きたいです。 2012年10月26日



高校時代の友人に、道端でばったりと再会しました。 久し振りの会話の中で、私の結婚式で配布した本のことを語ってくれました。 それは、河出書房新社の「アンクル・トムの小屋」という手のひらサイズの書籍。 翻訳は、先週お亡くなりになった丸谷才一さんでした。 今日改めて、ペラペラとページを繰りました。 エバンジェリンという女の子が、トムに語りかけます。 「なぜイエスさまはあたしたちのために死にたいとお望みになったか、あたしにはわかるわ」 「どうしてでございますか?エバお嬢さま」 「ほら、おまえやあたしが船でくるとき、かわいそうな人たちを見たわね。 お母さんと別れてきた人たち。ご亭主と別れてきた人たち。 それから、子供と別れてきたお母さんたちもいた。 ・・・あたし思ったのよ、あたしが死ねば、 こういう人たちの不幸をなくすることができるのなら、 喜んで死ぬって。トム、あたし、もしそのことができるのなら、あの人たちのために死にたい」 大人の理を越えて、子供の純朴な気持ちにこそ、厳然たる真理が潜みます。 2012年10月19日



豊橋南わが母校の応援団は、悲しいかな、いつしか消滅していました。 渡邉安祥先生指導のもとで旧制第八高等学校(現名古屋大学)の応援団から継承した 伝統の型をベースに母校独自に創作した舞を有しています。 その応援団復活を目指している先輩の一人は、市民ミュージカルに取り組んでいました。 演目は「ロミオとジュリエット」 二人の娘を連れて土曜夜の公演に駆けつけました。 五十路(いそじ)を前にした先輩は、母校応援団の演技を彷彿させる 華麗な踊りを披露してくれました。 そのパンフレットには、先輩の意気込み「一踊入魂」の文字が輝きます。 先輩は、応援団の蛮カラな印象とは裏腹に、 優しい人柄と細やかさで、みんなを束ねる力量もお持ちのようです。 昨年の母校40周年に、先輩は応援団を再結集して演技を披露。 あの日のあの演技に支えられている同窓生たちは数多くいることでしょう。 来年は、「穂の国とよはし芸術劇場」が豊橋駅隣りに完成します。 そんな舞台での応援団復活の舞を夢見ています。 2012年10月13日



9月17日に自民党総裁選挙の候補者たちが豊橋駅前で演説をいたしました。 安倍晋三候補は、ちょうど10年前のこの日を話題にしていました。 それは、日朝首脳会談で北朝鮮が拉致を認めて謝罪した日です。 娘のめぐみさんが死亡と伝えられた横田早紀江さんは、記者会見でマイクを握ります。 「いずれ人はみな死んでいきます。本当に濃厚な足跡を残していったのではないかと、 私はそう思うことでこれからも頑張って参ります。」 今朝、早紀江さんを支える聖書を読み返していました。 奴隷として異国の地に売り渡されたヨセフは、 父ヤコブには死んでしまったと伝えられていました。 ところが、ヨセフは、宰相に上りつめ、飢饉対策で手腕を発揮していました。 時は流れ老齢となったヤコブは、その対策に助けられ、 しかも、ヨセフとの再会を果たすのです。 「父に会うなり、父の首に抱きつき、その首にすがって泣き続けた。」 めぐみさんがヨセフと重なってしまったのです。 新たに選出された安倍総裁も、その光景を語っていました。 2012年10月5日



東京駅の駅舎が復原されました。 その東京駅構内でばったりお会いしたのが、地元出身の衆議院議員候補者でした。 「尊敬する政治家は誰ですか。」彼はきっぱりと「浜口雄幸です。」 「まさに、東京駅でしたね。」二人で歩いていたその場所で銃弾に倒れたライオン宰相。 選挙が近づいた今日、城山三郎の「男子の本懐」を開きました。 主人公の二人は、時の軍部に対して軍縮を強いて、緊縮財政を断行します。 浜口は井上準之助に大蔵大臣を依頼します。 「この仕事は命がけだ。すでに、自分は一身を国に捧げる覚悟を定めた。 きみも、君国のため、覚悟を同じくしてくれないか」 ライオンの目で凝視したのでしょう。「わかった。引き受ける」 二人とも愛妻家であり、同じ覚悟を家族にも求めていました。 そして、浜口は撃たれた時、ぽつり「男子の本懐だ」 それでも、瀕死の状態で国会答弁に立ちます。 しかし、事切れます。そして、井上も銃弾に倒れます。 時は巡って東京駅。二人を回想する時に、彼の覚悟を聞いたようでした。 2012年9月29日



わが故郷で、4歳児が育児放棄によって命を落としてしまいました。 ここに至るまでに、兆候はあったはずですが、察知できなかったのが悔やまれます。 これは、もちろん両親の責任ですが、市民の責任でもあるでしょう。 一市民として反省いたします。 わが故郷でも、いつしか、ご近所つきあいが希薄になっていることを危惧いたします。 ご近所の深い事情に立ち入るべきではありませんが、少なくとも、よき隣人である努力をすべきです。 それは、防犯防災も含めて、自分たちを守ることにもつながります。 やはり、人間は助け助られて、お互い様で生きて行けるものです。そのために、何ができるのか。 それは、まず声を掛けてみる。掛かった声には反応してみる。 明日は、町内会が主催する運動会があります。 運動会は、単に競技を楽しむためではなく、地域とのつながりをつくる絶好の機会です。 年齢別リレーに選出されてしまいましたが、前回大転倒したトラウマがまだ生きています。 それでも、ほどほどに走りぬきたいと思います。 2012年9月22日



その話を聞いた時に、急に空気が変わってしまい、心が痛むのは夫婦の別れ話です。 最近は、あちらこちらで耳にしますので深刻です。 そうなる前に、もう少しお二人のために何かできなかったものかと、 悔やまれる気持ちもわいて来ます。 やはり、結婚という関係は重くあるべきで、それがこの社会を支えています。 そこで改めて、今日の風潮を猛省してみる必要があるでしょう。 何と言ってもテレビの影響力はおそるべしです。 不倫や性愛などを題材にしたり、それを楽しんでしまっているのは、 突き詰めれば、人間の欲を増長させているだけに過ぎません。 それは、いつしか結婚という関係を軽薄なものとしてしまっているのです。 表現の自由を問う前に、それを楽しんだ先にあるものに思いを及ばす必要があります。 教会で結婚式を挙げるペアが多いようですが、そうであれば、 健やかなる時も、病める時も愛することを誓っているはずです。 誓いは非常に重いもの。二人が誠実さを貫けるように社会を引き締めるべしです。 2012年9月15日



解散風が吹いているのか、地元候補者の動きが目立つようになりました。 二大政党どちらも勢いはなく、一寸先は闇のようです。 なぜ、今日の政治状況を招いてしまったのか。 それは、政党の退廃とも言えます。 政党とは、政治的な主義主張を同じくする集まりです。 しかし、時の政権を担う民主党には、同じくするはずの主義主張がありません。 党綱領が存在しません。 単に政権交代だけを最優先した集まりとも言えます。 ですから、何か問題が起これば、すぐに分裂してしまいます。 今一度、政党は、国民の生活が第一というレベルの政策の前に、 その根本にある主義主張を掲げるべきです。 その主義主張とは、国家の根幹である憲法がどうあるかを見据えたもの。 特に、外交や安全保障に関して、どのように考えるのか。 その点で離合集散してこそ、健全な政界再編が進みます。 単に政権だけを求めるのは政治屋で、主義主張をもってこそ政治家です。 そして、有権者は、その候補者が政治家になる手助けをすべきです。 2012年9月8日



夏の疲れか、何となく憂鬱な気分でしたが、それを晴らす出来事がありました。 それは、中学生からの言葉でした。 夏休み前に「フライパンを売る」と題して自分の仕事について中学生たちの前で語りました。 その感想を含めたアンケート用紙が手元に届いたのです。 それを読んでいくと、私が考えていた以上に、自分の言葉が伝わっていたと感じました。 私の投げかけた言葉に対して一言添えています。 「仕事の基本は勉強」今から勉強をがんばろうと思います。 「仕事は自分で創る」自分が行動しなければ何も始まらないと思いました。 そして、最後のアンケートには「一身独立して一国独立する」 自分が国を支えるという気持ちが大切だと知り、人を支える大人になりたいです。 このように言葉が伝わるとは、心が伝わるとも言えます。 そこには心の通い合いがあり、「よし、やれるぞ!」 そこに明日を生きる力や勇気が湧いて来ます。 今度は、彼らにならって、私が誰かに声を掛けたくなりました。 中学生諸君、ありがとうございました。 2012年9月1日



隣国との領土問題が浮かび上がっています。 「わが国固有の領土である」と双方が正義を主張します。 それは、歴史的な過去の事実に関しても同じです。 事実は変わらないものですが、もはや事実を再現できるものはありません。 そのため、体験者をはじめ記録や文献を手がかりに間接的に知ることになります。 ところが、それらは完全ではない人間の介在した事項であり、正確であるとは限りません。 そのような状況下で事実を探し出すのが歴史家だとしたら、 その歴史家の見方によっても事実は違ってきます。 歴史には、そのような危うさが伴います。 その意味では、歴史は多面的に見る必要があります。 わが国の主張する歴史があれば、隣国の主張する歴史がある。 自分を正しいとせず、相手の主張に耳を傾けます。 領土問題も、わが国の主張を知るだけではなく、隣国の主張も知るべきです。 そして、主権者たる日本国民として、主張すべきことは主張します。 相手を尊重しつつ自分を持つことは、相手に対しての誠意です。 2012年8月25日



67回目の終戦記念日を迎えました。 甲子園の高校野球でも、試合を中断して、正午に1分間の黙祷をしています。 私なりに、どのように追悼ができるのかを改めて考えてみました。 すると、何かをしていて、その場で黙祷するスタイルには、 違和感のようなものを覚えました。そこで、追悼とは何か。 辞書では、死者の生前をしのんで、悲しみにひたることと記されていました。 何かを片手間にしながら、しのんだり、悲しんだりする 器用なことは自分にはできないと思いました。 教会の日曜礼拝のように、身なりを整えて自分の足を運ぶことがヒントになりました。 故郷の豊橋公園には、戦没者の記念碑があるのを思い出します。 その記念碑の前で、祈りをささげました。 そばの警察署や美術館の日の丸は半旗となり、正午にサイレンが鳴りました。 あの戦争で命を落とされた人たちの思いに近づけますように。 遺族の方々の深い悲しみに大いなる慰めがありますように。 その悲しみを通じて、わが国と私が前を向いて進んで行けますように。 2012年8月17日



消費増税法が国会で成立いたしました。 その賛否はともかく、国民が覚悟を決める時だと思います。 その覚悟が、国の未来を明るくするでしょう。 今年の春先、子供たちが通う中学校の卒業式でも、 校長は生徒たちに、国の現実を知ってもらう必要があるとして、 国の背負っている借金のことを語っていました。 生活保護を受ける世帯が増えているなど、 国民がもらうことだけを考えていたら国はもちません。 たとえ働いて得た収入が、生活保護費より低くても、 そこには国を支えている大きな価値があることも知るべしです。 いつしか、目の前の家計や企業会計のみを考えがちですが、 あわせて国全体の財政も考慮することは国民の義務です。 国力の実相とは、国民の成熟度で計ることができます。 成熟度とは、主権者としての自覚をもって義務を果たす度合。 首相いわく、打ち出の小づちはありません。 富を生みだすのは、あくまで国家ではなく国民です。 増税は国民が腹をくくり、自らが成熟する機会にしてこそ意義があります。 2012年8月11日



ロンドン五輪の裏番組で、映画「太平洋の奇跡」が放映されていました。 主人公の大場栄(さかえ)大尉は、わが故郷の出身です。 サイパン島が陥落して終戦を迎えても、大場さんたちは戦い続けます。 しかし、上官からの命令書を受け取り、ついに投降。 その前日には、髭をそり身なりを整え、亡くなった戦友たちを弔う式を敢行します。 そして、日章旗を高々と掲げ、軍歌を歌いながら整然と山を下る。 大場大尉の軍刀が、敵軍の前に厳かに捧げられた時、 彼らに散々悩まされた米軍は、「敵ながら天晴(あっぱ)れ」と涙を流すのです。 これら敗者には、気高き人間性を感じます。 五輪でも敗者がインタビューに答えています。 たとえ、金メダルは取れなくても、その負けっぷりは、金以上に輝くことがあるのです。 日本が戦後の復興を果たせたのも、太平洋の奇跡。 それは、当時の鈴木貫太郎首相はじめ、先人たちの見事な負けっぷりのゆえでした。 日の丸を背負う人たちよ。武士道とは、負けた時にこそ表出すると覚えるべし。 2012年8月4日



「母をたずねて三千里」のように、子供たちと離ればなれになって 日本で働いている海外の知人がいます。 今日は幸い携帯電話等があるので、毎日連絡をとりあっています。 そして、こちらでの収入が安定したら、子供たちを呼びたいとのこと。 もちろん、家族一緒に暮らすことは望ましいのですが、 子供たちにとって、母国を離れる選択は相応しいのか。複雑な気持ちです。 ただ、問題も複雑で、母国の経済状況が深刻で、まず家族を養うことが第一義のようです。 母国で働いて母国で家族と一緒に生活できない現実もある。 さて、子供たちが来た時の懸案は、まず教育です。 公教育の場では、基本的に日本語での教育となります。 そこで、他国語を話せる教員を採用するなど、わが故郷も対策を講じています。 そして、彼らの隣人として何ができるのか。 今後は、ますます海外の人たちとの共生が問われます。 少なくとも、わが国が自立し続けて、他国を助ける模範を示すことです。 そこに、マルコのような少年が育って参ります。 2012年7月28日



「東三河は一つ」を合言葉に、より広域な行政区分を目指す故郷の懇話会に参加しました。 そこに、副知事が出席されていて、いの一番に挨拶をされます。 愛知県は東三河県庁を新設して、東三河担当の副知事を常駐させるようになりました。 官も「東三河は一つ」を後押ししてくれているようにも思われます。 しかし、官に過度な期待をかけるべきではありません。 「東三河は一つ」の主体は一体誰なのか。それは愛知県なのでしょうか。 いつしか、官に依存する空気を感じます。 この懇話会は、産学官の交流の場でもあります。 もちろん三者の連携は必要ですが、責任の所在を曖昧にしてもなりません。 主体は、あくまで民であり、民の担い手である産業人なのです。 産が主体であって、産が主導してこそ、地方分権も広域行政も実現します。 官はあくまでサポートする立場に過ぎません。 産学官の連携という美名のもとで、産業人は自らの立ち位置を明確にすべしです。 自立した強き産業人があってこそ、東三河は一つとなれます。 2012年7月21日



地元の食材を使って料理することで同じ思いを持っている知人と昼食を共にしました。 経営する会社の新規出店で、大きな決断をされたことを伺います。 周りの役員たちは、顔を赤くして反対したそうです。 しかし、彼は熟考して、最後はゴーサインを出します。 その揺れる気持ち、不安な気持ちを率直に打ち明けてくれました。 その時、セブンイレブンが日本に誕生した時の話を思い出しました。 親会社のイトーヨーカドーの創業者であった伊藤雅俊(まさとし)さんをはじめ周囲は反対します。 しかし、鈴木敏文(としふみ)さんは、ゴーサインを出します。 そして今日、親会社を越える売上の会社へと成長しました。 このことを私なりに考えた時に、鈴木さんには先見の明があったと言うよりも、 鈴木さんには覚悟と責任があったのだと思います。 周りから反対されるほど、成功への執念も強くなるもの。 鈴木さんは、万が一失敗したら、自分の所有する親会社の株で穴埋めすると伝えていたそうです。 わが友の決断に祝福がありますように。 2012年7月16日



JR東海会長の葛西敬之(かさいよしゆき)さんの論説が新聞紙上に掲載されていました。 葛西さんは、前政権時の脱原発政策への官僚の対応に疑問を呈します。 もし、首相が誤ったら、官僚は身を挺して、首相の過誤を諫めて翻意させるべきだったと。 政治家を諫めることこそ、伝統の官僚道であり、その範たる武士道を語ります。 「武士道にいう忠義とは、自立した信念と価値観を持った個々の武士が、主君の誤りに対しては 敢然とこれを諫め、職を賭し、命を賭して自らの信念を貫き、主家を守ることだ。」 新渡戸稲造は、著書「武士道」で同じく語ります。 「臣が君と意見を異にする場合、あらゆる手段をつくして君の非を正すにあった。 容(い)れざる時は、主君をして欲するがままに我を処置せしめよ。 かかる場合において、自己の血をそそいで言の誠実を表し、 これによって主君の明知と良心に対し最後の訴えをなすは、武士の常としたるところであった。」 江戸幕府が長く続いたのも、むべなるかな。武士は自分を持っていました。 2012年7月9日



中学校2年の国語の授業で学んだのが、魯迅(ろじん)の「阿Q(あきゅう)正伝」でした。 松井兌一(たいち)先生は、教科書を読んだら、生徒たちに毎回「質問を受付ける」 熟語の意味をはじめ、すべての質問に即答される。 「アンネの日記」の時には、「てごめにする」と言う言葉を質問をしたことがありました。 人間の中に潜むものを指弾されたのか衝撃的な言葉でした。 「女性諸君、気を付けよ!男性諸君、しっかりしなさい!」 その行為は、匿名のもとで行われるのでしょう。 そして、今も記憶にあるのが、名前のはっきりしない阿Qの生き様です。 「おまえら、しっかりしないと、阿Qのようになってしまうぞ!」 そんな先生の声が聞こえてくるようです。 その当時、兵東(ひょうどう)政夫校長は、生徒一人一人に 手書きの表札を贈ってくれました。「自分の名前に誇りを持ちなさい」 私の家の前にも、この表札が掲げられていました。 名前のあるところには、責任が伴います。自分の名前を高く掲げる。 もう一度「阿Q正伝」を読み返しています。 2012年7月6日



戦後日本の復興は、電力と鉄鋼の供給体制が整っていたゆえでしょう。 そこに自動車等の産業が育ち繁栄して来ました。 そして、あの震災に及んで、今日も電力会社は命を張って業務に勤しんでいます。 そんな電力会社の意識改革を声高に唱えるのなら、 それを唱える側の意識改革の方がよほど必要だと思えます。 我が国には、「和をもって貴しとなす」という伝統があります。 それが戦後の復興時には、発揮されていたのでしょう。 政治の世界でも、今まさに与党が割れようとしています。 その時に、孔子の言葉を思い出しました。 「君子は和して同ぜず。小人は同じて和せず。」 和と同の違いとは。そこに主体性があるか否かです。 与党の若手議員は、君子なのか小人なのか。 上にすべて一任ではなく、自分で判断してこそ政治家です。 小人は、自分がないので媚びへつらい、他の言われるがまま。 責任を負う堅固な意志がないので、肝心な落とし所が見えません。 相手を尊重して、責任ある批判をするのが誇り高き日本人です。 2012年6月28日



戦後60年目の夏に、家族で沖縄に出かけました。 平和祈念公園にある平和の礎(いしじ)には、あの戦争で亡くなった人の名前が刻まれています。 出身の都道府県別で、愛知県の礎には、私の祖母の弟の名前を見つけます。 その時、はじめて、大叔父が沖縄で亡くなったのを知りました。 そして、ひめゆり平和祈念資料館を訪れると、当時ひめゆり隊員だった方が、 「どちらからお越しですか?」「愛知からです。」 「愛知も空襲で大変でしたよ。」 その方は、沖縄だけではなく、本土のことにも思いを寄せていました。 沖縄は本土の捨て石になったとも言えますが、 本土では原爆が2度も落ちて、多くの主要都市は空襲を受けています。 わが故郷も今週は、空襲の慰霊祭が行われていました。 沖縄の歴史をたどると、不条理なことは山とあります。 しかし、沖縄は沖縄であるべきです。それは、わが故郷も然り。 ヤマトという大きな木に身を寄せるのではなく、ヤマトを支えつつも自らの足で立つ。 そこに沖縄が沖縄である鍵があります。 2012年6月23日



豊橋商工会議所主催で、中学生たちに自分の仕事を語る「ビジネスパーク」という催しがあります。 市内の中学校が参加して、今回130人以上の講師の一人に任命されました。 私は、福沢諭吉の「一身独立して、一国独立す」を引用。 この国を支えているのは、誇り高き自営業者たちであることを語りました。 公務員よし、大企業の社員よし、しかし、独立精神旺盛の自営業者はなおよし。 学問のすすめならぬ、自営業者のすすめでした。 今回講師として私とペアを組んだのは、お隣田原市でバラをつくる渡辺真臣(まさおみ)さんでした。 田原市のバラの生産額は全国一を誇ります。 渡辺さんは、生徒全員に一輪のバラをプレゼントして、メッセージの書けるシールを配布。 大切な人に、メッセージを添えて贈って下さいと呼びかけます。 私も一輪のバラをいただきましたので、早速家内にプレゼント。 バラの力は偉大なり。家内はたった一輪のバラをすごく喜んでくれました。 バラは、人の理屈を越えて、人と人との関係を取り成してくれます。 2012年6月15日



あのオウム真理教の暴挙をなぜ許してしまったのか。 いわゆる幹部たちとは、同世代であり、同じ時代を生きて来ました。 しかも、違う信仰ではありますが、宗教という括りでは、同じところに所属していました。 当時バブル時代の全盛で、私なりに、その時代に疑問を持ち、 その世界に対峙する点では同じだったのかもしれません。 しかし、違うと感じたところは、自由意思のあるなしです。 あの団体では、帰依する対象に従うことを絶対として、 自分で考えて自分で判断する自分の意志がなくなってしまったようです。 本来、帰依される対象は、それを神と呼ぶ場合もありますが、 帰依する人の自由意志を尊重することが前提にあるはずです。 私の宗教では、それを愛と表現できます。 それは、夫婦関係でも同じで、互いの人格を認めることが土台にあるのです。 そして、自分の意志をもつことが、自由と表現できます。 自由とは、「自分に由(よ)る」と書き、それが責任に通じます。 この時代も同じように、自由を履き違えていないでしょうか。 2012年6月9日



仮店舗時にお世話になった名豊(めいほう)ビル。 こちらのビルは、私と同級生であり44年前の開業時には、街中の中心的な存在であり、 地下にバスターミナルがあり、階上には名だたる小売店が軒を連ね、 カルチャースクールの中日文化センターがあり、 ホテル結婚式場も控えた今日の複合商業施設の先駆けでした。 時代の流れとともに、ありし日の面影はなくなってしまいました。 さて、これからの街中、これからの故郷はどうあるべきか。 このビルの中に事務所がある東三河懇話会という民間団体は、叡智を結集してこの問題に取組んでいます。 その会誌に高校在学時にお世話になった別所興一先生の言葉がきらりと輝いていました。 「地域復興というと、カリスマ的指導者に丸投げをして、彼の指示を仰いで 行動すれば、良い未来が開けるといった幻想を持つ人もいる。 そうではなく、人間としてやるべきこと・やるべからざることを自ら主体的に判断して 地域の課題に協働で取り組む、そんな住民自身の成長が一番望まれている。」 2012年6月2日



近くの大学の留学生と最近親しくなりました。 彼には、とても親しくしている留学生仲間のガールフレンドがいます。 ある日、わが家に、その二人を含めて、同じ年頃の子たちを食事に招きました。 留学生とは言え、日本語の日常会話には支障はありません。 会話も弾んで、午後10時近くなってしまい、 その子たちを私の車で送ることになりました。 ところが、女の子は、男の子の下宿先のことろで下車。 女の子の宿舎は、そこから少し距離があり、時間も時間でしたので、 私の中で胸騒ぎがしました。 その場では、何も言いませんでしたが、帰宅してから彼に電話を入れました。 まだ彼とはあまり関係が築けていませんでしたが、 ややきつい内容で注意を促しました。 また、男性がいかに弱いものであるかを経験の中で教えてあげました。 もう彼から電話が来ないことも覚悟しましたが、 かえって彼は私を慕ってくれるようになりました。 言うべきか否か、私の中で迷いもありましたが、 声を掛けれたことが、彼と私をつなげたように思います。 2012年5月26日



五月晴れのもと、中学校の体育祭をテント席から観戦していました。 活躍していた生徒の一人は、保護者や先生たちの間で以前から心配していた生徒でした。 その子は、小学校のころは、学校で人気者だったのですが、 両親の離婚を通じて、さまざまな問題行動を起こようになったようでした。 先日、テレビ番組「徹子の部屋」で、作家の曽野綾子さんが笑いながら語っていました。 幼稚園のころから、ご両親は喧嘩が絶えず、 大人がいかに上手く嘘をつくのかをじっと観察していたのだそうです。 そして、この仲の悪いご両親のお陰で、小説を書けるようになったと言われていました。 それを聞いて、何だか救われた気持ちになりました。 その活躍していた生徒は、最近では、学校に継続して通えているとも聞きました。 テント席で聞いた話から推察すると、その生徒は特別愛されていて、 地域の方や先生たちが絶えず気にかけていた。 そんな周囲の気配りには大きな力があり、 問題を越えて、生徒に前を向かせるのだと気付きました。 2012年5月20日



中学校一年生の娘さんを残して、癌で先立ったご婦人がいました。 ある集まりで、そのご婦人のお母様からお話を伺う機会がありました。 召されたのは、ほんの一カ月ほど前のこと。 ところが、そのお母様、娘さんのおばあちゃんは、カラリと五月晴れのごとし。 驚きとともに、こちらの方が大変励まされました。 お話を聞いてみると、ご自身もお孫さんと同じ年頃に、 お母様を交通事故で亡くした経験をお持ちでした。 今お孫さんの気持ちを誰よりも理解できると言う点で、 ご自分の運命を前向きに受け止めることができたようです。 その娘さんも近くで、友達と元気よく遊んでいました。 ちょうど同じ日に、交通事故でご主人を亡くした別のご婦人からもお話を伺いました。 この方も、すべてを感謝と受け止めていましたが、お二人に共通しているのは、信仰者であること。 悲しみが深ければ深いほど、慰めもまたいと深し。 それは、試練を通ったものしか味わえない境地のようです。 お二人には、すがすがしい五月の風が流れていました。 2012年5月12日



震災のあった日に、東京電力の社長は関西にいたそうです。 いち早く本社に戻るために、名古屋から自衛隊の飛行機をチャーターしたのだそうです。 しかし、防衛庁長官の命令が入って、一旦離陸したもののUターンして名古屋に戻る。 本社に到着したのは翌日となります。 その時、なぜ社長は、危急の状況を説明して、政府に喰いつかなかったのか。 今日に至るまでの対応を象徴しているようです。 かたや、東電の創業者である松永安左エ門(やすざえもん)さんを思い起こします。 戦争を前にして、電力会社は国営化されてしまいます。 その時、松永さんは、民営化にこだわり、政府に喰いついて、最後は会社を去ります。 終戦後は、電力再編成に参加して、GHQに粘り強く交渉。 九つの民間会社を見事に巣立ちさせます。その後の料金値上げも妥協はありません。 「電力の鬼」と呼ばれた松永さんの鬼気迫る態度があってこその東電であり、 自立した東電あってこその戦後復興だったでしょう。 東電よ、松永スピリットは何処へ? 2012年5月5日



中学校の入学式で「ほらを吹け!」と語りました。 これは、地元を流れる豊川用水を作った大先輩の近藤寿市郎(じゅいちろう)さんに続くことでした。 近藤さんは、日照りに悩まされた渥美半島に、用水を流すことを思いつきます。 奥三河の鳳来町に大きなダムを作って、そこから渥美半島まで導水する。 大正時代に、この構想を聞いた人たちは、「大ほらふき」と近藤さんを相手にしませんでした。 しかし、47年後に豊川用水は完成して、日本一の生産量を誇る農業王国が誕生します。 そこで、私もほらを吹きました。「原子力に代る新しい発電を開発するぞ!」 すると、同じ教会に集い、お隣の浜松ホトニクスに勤める2年生社員が 目を輝かせて教えてくれました。 浜松ホトニクスとは、豊橋出身の物理学者・小柴昌俊(こしばまさとし)さんと縁のある会社です。 そこでは、トヨタ自動車等と共同でレーザー核融合発電の実用化を目指している。 CO2を排出せず、原発に比べて放射性廃棄物も極めて少ないとのこと。 ほらを吹けば、夢が近づきます。 2012年4月27日



中学校の公民の教科書のはじめに「グロバール化」という言葉が記載されていました。 耳触りの良い言葉かもしれませんが、肯定すべき言葉ではありません。 先日、国内で就航する格安航空会社の運賃が発表されて、最低価格保証を宣言していました。 他社の同クラスの航空運賃より10%値引きする。 利用する人にとっては、心はずむような事態でしょう。 だからこそ、危険なのだと思います。 それが本質を見えなくしてしまい、人を無責任にさせてしまう。 他社が同じ宣言をしたら、この業界には明日はありません。 明日の業界を守るという点では、この保証は禁じ手だと思います。 放射能の安全性を問うならば、この価格での安全性も問うべきです。 この格安航空会社の進出が「グローバル化」という甘い言葉に包まれます。 しかし、先を見据えて考えなければなりません。 そして、赤信号と判断したら、はっきり「NO!」と言える。 「グローバル化」の時代には、自分をもつことが求められています。 国際社会はそのことを日本に期待しています。 2012年4月20日



司馬遼太郎さんの『「明治」という国家』を読んでいます。 司馬さんは、自律や勤勉などの明治の精神は、プロテスタントの精神に通じると書いています。 そして、この時代に日本にやって来た宣教師たちに敬意を表していました。 そんな折に、中学生の娘と息子を前にして自習の仕方を教えていました。 そして、よぎったのが、私のお世話になった宣教師夫妻です。 米国から終戦後の焼け野原にやって来るのですが、 16歳の娘さんと13歳の息子さんを連れて行くことができません。 そこで、娘さんはカナダの神学校へ。 息子さんは、祖父母のいるアイダホへ。 シアトルのバスターミナルで息子さんと別れます。 その時の御夫妻の心情が、同じ年頃の子をもつ親になった今日は痛切に分かってしまいます。 さすがに御夫妻は、身内からクレイジーと非難されますが、御夫妻が海を越えなかったら、今の私はありません。 時に、宣教師は説教していました。 「ひとりごをお与えになったほどに愛された」 身をもって、この愛を示してくれたのです。 2012年4月14日



満開の桜のもとで、息子の中学校の入学式がありました。 少し大きめの学生服が、まだ板につかず、開花したばかりの桜と同様で初々しく感じられます。 入場してくる彼らの姿に、この世界を助ける人になってもらいたいと眺めていました。 しかし、時代は、ますます厳しくなります。 気がかりなのは、最近の男子です。 同じ時期の入社式で、答辞を読み上げるのは、女性が目に付きます。 会社でも男性よりも女性の方が即戦力になるのだと耳に入ります。 いつしか、草食系などという言葉も生まれています。 日本男児は何処へ。そんな時、海軍戦闘機操縦者であった坂井三郎さんの 「大空のサムライ」の一場面を思い出しました。 若きパイロットを訓練していた坂井さんは、いつもと違う態度を見抜いて追及します。 ついに白状します。「チチキトクの電報が届きました。」 しかし、そのパイロットは帰ろうとしません。 さらに聞いてみると、もう一つの電報が届いていた。 「カエルニオヨバズ ハハ」 この母のもとで、日本男児は生まれるのだと思いました。 2012年4月6日



ずっとお世話になっていたご近所のガソリンスタンドが閉店となりました。 消防法の改正で地下タンクを交換する必要があったそうです。 しかし、それにお金をかけるだけの利益が見込めないとのこと。 企業を維持するには、コストがかかります。 そのコストに見合っただけの利益が、もはや期待できないのです。 ガソリンは、自由競争の荒波にさらされて、ますます利益が薄い状況に至っています。 そういえば、玩具屋さんが、酒屋さんが、薬屋さんが、次々に閉店の憂き目を見ています。 かたや、消費者は安く買えたとぬか喜びをしているかのようです。 商店街に生きる者としては、それは人と人との絆を断ち切っているように思えます。 デフレ脱却と政府も声をあげますが、その核心は自由競争を推進している政策にあるように思えます。 自由競争の見えざる手に委ねてしまえば、もはや企業の利益はなくなり、商店は立ち行きません。 消費者の利益だけに偏ってはなりません。 お金ではなく、互いの信頼を失っている事態がそら恐ろしいのです。 2012年4月3日



中学校の卒業式で校訓の「なせばなる」をお話しました。 その時、この言葉を後継者に贈った米沢藩主の上杉鷹山(ようざん)を紹介します。 すると、NHKの歴史番組でも上杉鷹山を特集していました。 鷹山の奥様は、脳障害があったようで、大人になっても10歳程度の知能であったと。 しかし、鷹山は、その奥様を生涯大切にして、時には一緒になって玩具で遊んでいた。 その姿を見た人たちは涙を流したそうですが、聞いただけの私もほろり。 この番組全体から伝わって来たのは、鷹山の覚悟でした。 それが、財政難の米沢藩を立て直すことにもつながったのでしょう。 その時、わが街に住んでいたご夫妻を思い出しました。 ご主人は交通事故により植物状態となってしまいます。 その介護は、十年以上にも及びます。 しかし、その奥様が、ご主人を慈しまれて、祈りと涙をもって 日々感謝にあふれて介護をしておられたのです。 そのお二人の姿に、夫婦とは斯くあるべしと教えられました。 ちょうど放映のあったその日は、私たちの結婚記念日でした。 2012年3月22日



実店舗便りの写真を撮影するために、近くの川に土筆(つくし)を探しに出掛けました。 ところが、その日は、全く見つかりません。 それでも、目の前の土の中には、土筆の命が宿っているのだと思い描きました。 今は見えないけれど確かにある。 時が来れば、姿形は現れる。 そして、昨日は温かな日となります。 同じ場所を再び訪れました。 すると、あちらこちらに、望んだ通りに土筆が顔を出していました。 見えなかった時でも、土の中に命は宿っていて、確かに存在していたのです。 すると、信仰者の天への望みと重なり、嬉しくなりました。 私という土の器の中にも、永遠の命という種が宿っている。 時があると分かれば、見えなくても、待つことができます。 待っているとは、そこには希望があり、そこには信仰があります。 それは、子育てにも通じるでしょう。 今は見えなくても、じっと信じて待っている。 その信じるところに、子供は育って行きます。 聖書は語ります。 「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」 2012年3月16日



公立中学校の卒業式に参列しました。 来賓代表で祝辞を述べるために登壇して日の丸を前にしました。 日の丸は、祖国が受けた苦しみと悲しみを象徴しています。 また君が代は、それでも前を向いて行く強い意志を感じます。 日の丸は、日米和親条約を締結後に外国船と区別するため 日本国共通の船舶旗として採用されます。 薩摩藩が幕府に献上した洋式軍艦「昇平(しょうへい)丸」に初めて掲げられます。 その後、日米修好通商条約の批准書交換のために 福沢諭吉などを乗せた咸臨(かいりん)丸が太平洋を横断した時にも掲揚されます。 日の丸の歩みは、日本が近代国家を形成していく歩みでもありました。 それは、凄惨な戦争の歩みでもありました。 今日に至るまで、数え切れない人たちが、祖国のために負傷し命を落として来ました。 そして、その銃後には、途方に暮れる家族や仲間たちの深い悲しみがありました。 義務教育の課程を無事終了できたのも、当たり前のことではなく、 日の丸の背後にあるものに思いを致すべきでしょう。 2012年3月9日



最近読み始めたのが、石牟礼(いしむれ)道子さんの「苦海浄土(くがいじょうど)〜わが水俣病」。 そんな時、NHKで「花を奉(まつ)る」と題して石牟礼さんのドキュメンタリーが放映されていました。 お顔を拝見した時に、作家の三浦綾子さんと似ているなあと感じました。 パーキンソン病を患っている事、戦時中に教師をしていた事、 言葉を花になぞらえる事も重なりました。 石牟礼さんも、ひとひらひとひら花を奉るがごとく言葉を紡ぎ出しています。 水俣病の子供に出会った時に始まり、四十年の歳月を経て今日もなお、花を奉り続けています。 ちょうど車椅子の石牟礼さんが、胎児性水俣病患者さんたちの施設を訪問していました。 すると、「道子さん」と名前を呼んだ車椅子の女性がいました。 五十路を越えた今日も、未だ歩いたことのない患者さんだと思われます。 その彼女が、歩けない石牟礼さんを慰撫。 その活動に感謝して石牟礼さんを激励していました。 石牟礼さんの目からほろほろと涙が流れていましたが、テレビの前の私も同じでした。 2012年3月1日



塾の先輩である亡き黒岩比佐子さんが、わが故郷出身の村井弦斎(げんさい)を発掘してくれました。 東京生まれの黒岩さんが、岩波書店から「食道楽の人 村井弦斎」を上梓しました。 弦斎は、大正年間に「食道楽」という料理をテーマにした小説を書いてベストセラーとなります。 その内容は、単に料理だけではなく、結婚や夫婦のあり方にまで及びます。 そこで、頻繁に登場するのが「覚悟」だと黒岩さんは語ります。 作中人物に語らせています。 「男子が一たび妻を得たならば此の妻の外に愛すべき夫人は天下に無い、 終生外の女に心を移さぬと覚悟して居たらば、他日我妻を離縁すると云う様な不徳は出来ますまい。 妻も其通りに覚悟して居たらば、良人に対して不平や不足も出ない訳です。」 思わず「その通り!」と心で拍手しました。 芥川賞作品をはじめ昨今の小説とは隔世の感があります。 時間をかけながら綿密に調べて書き上げる黒岩先輩だからこそ弦斎に目が留まったのでしょう。 先輩の小説を読めなかったことが惜しまれます。 2012年2月24日



小さな女の子が教会の礼拝で美しい歌声を響かせていました。 それは、まるで天使のようでした。 誰もが彼女の歌声に慰められ、彼女に惜しみなく感謝をささげます。 「その歌声はイエス様からの賜物よ。それを通じて栄光を表しなさい。 それがあなたの使命よ。」 やがて彼女は成長して歌手となり、ヒット曲を次々と生み出します。 とうとう、映画にも主演して、その主題歌は大ヒット。 ところが、彼女は結婚生活に失敗して、麻薬に入り浸ります。 その結末は、ひとり寂しくホテルで変死。 ありし日の天使の面影は、もはやありませんでした。 いつしか、賜物にあふれていた歌姫を周囲は特別視するようになっていたのか。 彼女自身も、途方もない名声や財産を得て、自分自身を見失ってしまったのか。 「信じれば奇跡が起こる」と歌った時もありました。 しかし、一つの明白な事実を忘れていました。 ホイットニーも、一匹の迷える子羊、ひとりの罪人に過ぎないことを。 When you believeの彼女の叫びは、十字架のもとに立ち返ろうと聞こえて来ます。 2012年2月17日



父親と近くのお店でランチをとりました。 ちょうどそのお店の向いに同級生の家がありました。 その子とは、幼稚園から高校までずっと同じ校舎で過ごしました。 幼稚園のころは、その家の中で「田舎のバスはおんぼろバスで・・・」と 彼女から教えてもらった歌を思い出します。 そして、小学校2年生の時でした。 当時母校の2年生は、離れの木造校舎に教室がありました。 それこそ、おんぼろ校舎でした。 その廊下を泣きながら歩いてくる彼女がいました。 その隣には、もう一人の女の子がいて、彼女を励ましているようでした。 「どうしたの?」「お父さんが死んじゃったんだって!」 私は、彼女のお父さんも知っていましたので、信じることができませんでした。 そして、「うそだろ、うそ泣きするなよ!」 すると、そばにいた女の子からきつく叱られました。 担任の先生から話があり、新聞にも報道があり、何と自死だったのです。 今でも、うつむいて泣きながら廊下を歩いている彼女の姿が思い出されます。 そんな彼女は、すでに立派な母親になっています。 2012年2月10日



明け方にみた夢にひとり涙を流していました。 目覚めると、涙が耳の中に溜まっています。 それは、自分が小学校一年生で、新しい教科書をもらって胸をときめかせているのです。 そのピカピカの教科書は、自分の宝物のようで、 嬉しそうにじ〜っと眺めているのです。 ちょうどアルプスの少女ハイジの一場面も思い出しました。 ハイジは、クララのお婆さんから字を習うのですが、 学べることに同じく胸をときめかせます。 昨日、中学校で保健委員会という会合があり、 保健室の先生をはじめ生徒たちと意見交換をしました。 私は保護者の代表。すると、タイムスリップしたようでした。 そう言えば、小学校の時の山本先生、中学校の時の丸山先生、 高校の時の西野先生、保健室の先生たちは優しかったなあと一人感慨に浸りました。 この出来事が、きっと明け方の夢を引き起こしたのでしょう。 当時いただいた教科書には、ぎっしりと愛情が詰まっていたのです。 勉強ができる喜び。一年生の頃のときめきを忘れずに、今度は恩返しをして行きたいです。 2012年2月3日



私の娘と名前が同じで、大学の先輩でもあることからか、 何かしら親近感を覚えていた竹内まりやさん。 五十路を越えた先輩の「人生の扉」に静かな感動を覚えました。 英語の歌詞のところも単純で奥深い。 年ごとに扉を開けて形容詞が添えられます。 20才fun、30才great、40才lovely、50才nice、 60才fine、70才alright、80才still good、90才を越えてもなお生きていく。 そして、they say that life has no meaning,but I still believe it's worth living. 直訳すれば、人生には意味がないと人は言うが、 私は価値があるのだと未だ信じている。 この時、その根拠を問われれば、それが自分の生き様であると思います。 先輩の場合は、この歌を歌っていることで示している。 「長い旅路の果てに輝く何か」とは、聖書の言葉を彷彿させます。 「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、 内なる人は日々新たにされています。」 この内なる人とは、先輩の言葉では、人のために生きる。 歳月を重ねて愛はいや増し重くなります。 2012年1月27日



祖母の四十九日に、親戚の方から一冊の本をご紹介いただきました。 海軍のパイロットであった坂井三郎さんの「大空のサムライ」です。 多くの戦友を失い、多くの敵兵を失わせて、坂井さんは一人生き残ります。 そして、その記録を綴ることは、坂井さんの義務であったようです。 同じく海軍のパイロットであった祖母の弟は、戦地で帰らぬ人となります。 数年前に祖母から始めて聞いたことがありました。 戦地に出かける前に、祖母は弟を駅まで見送りに行ったと。 もう一人の祖母も、父と叔父の間に子供がいたことを生前ぼそっと話してくれました。 あきひろと言う名の赤ちゃんは、戦争中の食糧難で亡くなります。 この二人の祖母に共通していたのは、何かしらの陰でした。 それは、理不尽な現実世界を受け入れられず、あきらめ悟る心境でしょうか。 優しい祖母たちに潜むその陰を、孫の私は何かしら感じとっていました。 しかし、それをよく理解できませんでした。 そして、ようやく分かったことは、二人の祖母とも戦争の犠牲者だったのです。 2012年1月21日



わが故郷には、女工さんたちと寝食を共にして、 和気あいあいと製糸工場を経営していた小渕志ち(おぶちしち)という女性がいました。 わが国の物作りの伝統は、この製糸から始まったとも言えます。 蚕の繭から糸を取り出すために、ガラ紡(ぼう)という機械が開発されます。 今日もこの機械を使っている会社がわが故郷にあります。 その会社の創業者である老夫妻に、小渕さんのことを教えていただきました。 老夫妻は八十を越えた今日も、小学生たちに手で編む物づくりを指導しています。 それは、手先を動かして物を作る喜びを伝えているのです。 このようなご当人たちの生き様にも感銘を受けます。 さらに、奥様からご自身のたどって来た道を伺いました。 忙しく働いている当時、背負っていたお子さんを事故で亡くされる。 それでも、悲しみに暮れず今日まで生きて来られました。 三度の流産を経て、さらに盲目の子供を授った小渕さんも、あくまで前を向いて生き抜きました。 いつしか、小渕さんと奥様が私の中で重なってしまいました。 2012年1月14日



明けましておめでとうございます。 久し振りに開いた大学の卒業アルバム。その時、塾長の言葉に目が留まりました。 この言葉は、卒業当時には気がつきませんでしたが、 それは母校の精神を見事に表現していました。 われら卒業生たちに、右の人となることを求めていました。 独立自尊の人とは、 1.他人を頼りにすることなく、自ら考え、自ら判断し、自ら実行しうる人である。 2.従って、自分で考え行ったことの責任は、自らとらなければならない。 これを他人のせいにしたり、社会のせいにしたりする人は、独立自尊の人とは言えない。 3.これらを実行するには、剛毅な心を必要とする。 剛毅な心は、他人を思いやる優しい心に裏付けられて真の剛毅な心となるのである。 4.自らを尊重し、自らを卑しめてはならない。 そうである以上、他人も尊重すべきであり、他人を卑しめるようなことがあってはならない。 以上、今は亡き石川忠雄先生の言葉は、卒業二十年後に響いて来ました。 先生の言葉を噛みしめて、この新年に挑んで参ります。 2012年1月5日