食物を喫するを知りて食物を味(あじわ)う事を知らざれば共に料理の事を談ずるに足らず。 食物を味う事を知りて料理の法を知らざれば共に生理の事を談ずるに足らず。 人のこの世に生存するは毎日の食物を摂するがためなり。 食物は生存の大本(たいほん)なるに世人(せじん)の深く注意せざるは怪(あやし)むべし。
この家の主人中川は平生(へいぜい)食物論を研究すると見えて頻(しきり)に長広舌(ちょうこうぜつ)を揮(ふる)い 「小山君、モー一つ僕の言う事を聞いてくれ給え、西洋料理にも今のような生理の原則はあるが 素人(しろうと)に解り難(にく)い。 支那料理の原則たる五味の調和という事は誰にでも応用が出来て自然と化学的作用に適合しているね。 即ち料理には必ず甘いと鹹(しおから)いとの外に辛(から)いと酸(す)いと苦(にが)いという五の味が備わらねばならん。 日本人の食物は多く二味か三味で成立っているが僕の家では注意して必ず五味を調和する。
今差上げた料理の中に甘いと鹹いのは勿論、胡椒(こしょう)や芥子(からし)の辛いのがあり、 梅干や蜜柑の酸いのがあり、百合や蜜柑の皮の苦いのがあって五味になる。 梅干を使わない時は酢(す)の物(もの)を拵(こしら)えるとか百合のない時には款冬(ふき)の薹(とう)とか鮎(あゆ)のウルカとか 必ず苦味と酸味を膳の上に欠かないのが五味の調和だ。 普通の人の食物は単調単味に過ぎるようだが五つの味が互(たがい)に化学作用をすると消化も好(よ)し心持(こころもち)も好い。 これはどうか世人に勧めたいと思うね」
客「なるほど、それも至極よかろう。時に御馳走の話しはモー沢山だが先刻(さっき)の話しはどうだろう。 大原君の方では非常に急いでいるがこの場で返事を聞く訳にならんかね。 御当人や親御(おやご)さんたちの御心持は後で聞くとしても君だけの心を聞きたいね。 君は絶体的に大原君へ御令妹(ごれいまい)を遣る事には反対せんか。 先刻僕が説明した大原君の真価を承認したらむしろ進んで賛成すべきだがどうだね君の心は。 もし御本人がイヤと言わず、親御さんたちが御不承知でなければ君は別段に異存を言わんかね」
主人「それは別に異存も言わんが、今妹を取られると僕が少し困る」 客「それは君の勝手というものだ。御令妹の心も御両親のお心も君の心によって決すると思うが、 御令妹は君次第、御両親も君次第といったら君はどうするね。大原君の処へ往ったがよかろうというか、 それとも止(よ)したらよかろうというか、マサカ君が止せとは言うまいね」
主人「止せとも言わんが少し待ち給え。僕だってよく考えてみなければならん。妹が生涯の大事件だからね」 客「だからさ、ここで考えてここで決断したらよかろう。先刻も言った通り、良人(おっと)に持つべき第一の資格は 誠実なる心の人に限る。今の内こそ不誠実な人でも才子だとか学者だとかいわれて社会に相当の仕事をしているけれども モー少し社会の文明が進歩したら誠実な人より外に社会に立つ事は出来んぜ。 政治界でも実業界でも何の仕事でも誠実な人を貴(たっと)ぶようになるが殊(こと)に文学界では誠実な精神の籠(こも)ったものでなければ 人が決して読まんという事になる。我々の責任としても社会の文明をその程度までに進めなければならん。 未来の事を想像したら大原君の如きは最も有望の人物だ。 今あの人を失っては後に至って君も後悔する事が出来るだろう。 よくよく僕の言葉を考えてこの相談を極(き)めてくれ給え」と頻(しきり)に勧告して帰り去りぬ。事業所 主人は跡(あと)にて黙考する事久し。物思わし気(げ)に側へ進みたるお登和嬢が「モシ兄さん」
注釈:
○支那にては五味を配合する中にも春は酸味を主として夏は苦味を交え、秋は辛味を加え、冬は鹹味を多くす。
甘味は四時通用なり。これも自(おのずか)ら学理に適(かな)いたる養生法というべし。
春は逆上の気ある故に酸味を以て引下げるなり。夏は胃の働き弱る故に苦味を用い、秋は気の鬱(ふさ)ぐ時故辛味にて刺撃し、
冬は体温を保つために塩分を要す。