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精読「食道楽」春の巻

第二十五 心細き

台所にて料理の手伝(てつだい)をなしたる大原はお昼の御馳走を例の如く飽食(ほうしょく)せり。 お豆腐の餡掛(あんか)け、薩摩芋の梅干韲(うめぼしあえ)、同じくセン、同じくフライ、同じくマッシ、 自分が少し焦付(こげつ)かせたる干瓢(かんぴょう)なんどいずれも美味ならざるはなし。 さりながら大原の悦(よろこ)びはお料理の味よりもお登和嬢と共に御馳走を喫せしにあり。 なるべくなら晩にもこの楽(たのし)みを再びせんと 「お登和さん、貴嬢(あなた)も御緩(ごゆる)りと遊んでいらっしゃい。 晩までに此方(こちら)の小山君もお帰りになりましょうから」と頻(しきり)に嬢の去らん事を気支(きづか)う。

お登和は一刻も早く立去りたし「イイエ、家にも用事がありますからお暇(いとま)を致します。 奥さん、大(おおき)にお邪魔(じゃま)を致しました。 どうぞ私どもへもお遊びにいらしって下さい」と妻君の引留(ひきとめ)るを辞して遂に我家へ戻り行(ゆき)ぬ。

失望せる大原「どうでしょう奥さん、お登和さんは僕の処へお嫁に来てくれましょうか」 妻君「そう貴君(あなた)のように性急な事を言っても出来ません。 それに貴君はあんな半襟(はんえり)なんぞをお持ちなすってかえって人を馬鹿にしたようなものです。 柄(がら)にない事をなさるから御自分で事を毀(こわ)すようなものです」 大原「イヤあれは大失敗、全く僕が悪戯(わるいたずら)をされたのです。 実は寝言にお登和さんの事を口走(くちばし)って隣室の書生さんに聞かれたのが原因で、 好意か悪意か親切ごかしにあんなものを買って来てくれて僕を玩弄物(おもちゃ)にしたのです」

妻君「道理で上包(うわづつみ)の拵(こしら)えからおかしゅうございましたよ。 半襟位をあんな大きな奉書へ包んで頭(ず)なしの水引や熨斗(のし)をつけたのは茶番めいています。 お登和さんのようにおとなしい人でなければ馬鹿にされたと思ってどんなに怒るかしれませんよ」 大原「それを怒らない所が僕に対してよほど温情を抱いているのですね、品物よりも僕の志を受けると言った所は 尋常一様(じんじょういちよう)の言葉でありませんね」

妻君「オホホ貴君も罪がありません。お登和さんの方では温情どころか冷眼を以て貴君を視ておいでです。 私も内々気を引いてみましたけれどもお登和さんのお心には貴君の事をあんまり好ましいともお思いなさらんようです」 大原「それはチト失望ですな。何とか外に名案はありますまいか」 妻君「お登和さんの口振(くちぶり)では兄や親の都合次第でどうなるか分らんとお言いでしたから 先ず中川さんに話して中川さんが御承知なされば強(し)いてイヤともおっしゃいますまい」 大原「強いてイヤとも言うまいなんぞは甚(はなは)だ心細(こころぼそ)い。 それでは一つ貴女(あなた)から中川君にそう言って下さいませんか。 是非お登和さんを大原に遣(や)れと無理にも説き付けて下さいませんか」

妻君「それは私よりも良人(やど)が帰りましたらば良人に言わせた方がいいでしょう。 お友達同士ですから小山が中川さんに御相談したら中川さんも早く御承知なさいましょう」 大原「なるほどごもっとも。小山君は何時頃お帰りでしょう」 妻君「晩までには戻ります。暮の二十八日に出かけたのですから今日は必ず帰ります」 大原「早くお帰りになればいい。何だか待遠ですな。僕は新橋まで迎いに行きましょうか」と心のみ頻(しき)りに急がるる。

コメント:
「中川さんが御承知なされば強いてイヤともおっしゃいますまい」 中川さんとは、お登和の兄のことであり、家長が承知すれば、断ることができない当時の慣習が伺えます。 しかし、これも一理あり、若い本人の未熟な見識で相手を選ぶよりも、 自分をよく知る年長者の方が相応しい相手を選ぶことができるかもしれません。 ただ、最終的には、本人の意思で決断すべきでしょう。 今日では当然となりますが、そんな婚姻の自由は、戦後の憲法でようやく、両性の合意として規定されますが、 明治憲法下では、この自由は保障されていませんでした。 その前提では、そんな慣習に対して心細いと言っているのかもしれません。 その意味では、お登和の意思を尊重しているようにも感じられます。 そんな自由の気風がユーモアとともに漂い、女性の自立を促しているようです。