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精読「食道楽」春の巻

第二十四 秘伝

妻君はお登和の忠告によりて急に下女を顧み 「和女(おまえ)すぐ牛肉屋へ往(い)って今のロースはバラーにしてくれろと そういっておいで、その肉が来たらお登和さんにシチュウを拵えて戴いて宅が帰りましたら晩に食べさせましょう。 きっと驚きますよ」大原「僕もお相伴(しょうばん)を」 お登和「ですが美味(おいし)いシチュウは今日の間に合いません」妻君「そんなに長く煮るのですか」

お登和「イイエ長く煮過ぎても肉が硬(こわ)くなって味が抜けますし、煮方(にかた)が足りないでも柔(やわらか)になりません。 ザット三時間位煮てちょうどよい時に火から卸(おろ)すのがシチュウの一番むずかしい処ですけれども 美味しい味を出させるには今日煮たものを一夜冷(さま)しておいて明日召上る前に温めて出しますと 肉の味と汁(しる)の味とよく調和して極(ご)く美味しい処が食べられます。 やっぱり鯉(こい)の濃漿(こくしょう)のような訳(わけ)で」

妻君「アラ鯉こくもそうですか」お登和「鯉こくもその日に食べると詰まりません。 今夜よく煮てそのお鍋を地の上へ卸して一晩冷しておいて明日になってモー一度煮なければ極く好(い)い味が出ません。 全体西洋料理でも極く上等の御馳走は二日も三日もかかって拵えますし、 支那料理はなおさら七日も八日もかかるものがあります。 直ぐ煮て直ぐ食べては大概なものは美味しくありません」 とこの説明に大原少し張合抜け「御馳走を拵えるのは随分面倒ですな。日本料理で非常に長くかかるものは何です」

お登和「そうですねー、お多福豆を本式に煮ても最初から三日位かかります」 妻君「あの大粒な蚕豆(そらまめ)ですか、曹達(そうだ)を入れて煮ると柔くなると申しますがホントですか」 お登和「曹達で煮たのもよくありますがあれでは曹達の匂いがして味が抜けて形が崩れて一向(いっこう)美味しくありません。 先ずあれにするには西京(さいきょう)の真葛(まくず)が原(はら)の豆が一番上等です。 大阪の尼が崎辺の一寸豆(いっすんまめ)もようございます。 上州沼田辺の豆も大きいそうですが新豆の乾(ほ)したのなら一昼夜水へ漬けます。 ヒネならモット長く漬けないと大きく膨れません。それをザット一日ですね、少くとも十時間以上 深い鍋へ重い蓋(ふた)をしてゴトゴト湯煮(ゆで)るのです。湯煮(ゆだ)った時その豆を冷水(ひやみず)の中へ入れて 洗うのが秘伝だそうです。

水で洗って今度はお砂糖と極く少しの醤油と水を沢山入れて、その上へ竹の皮を鍋の内側だけに切って 蓋にしますが豆の空気に触れないためです。それから鍋の蓋をして強い火ではいけません。 といって弱過ぎてもいけません。火加減が大層むずかしいので、ちょうど適度の火で煮るのが先ず七、八時間でしょう。 その途中でもなるたけ蓋を取らないようにしないと豆へ空気が触れて皮が裂(さ)けます。 それから醤油はお吸物へ入れる位な心持(こころもち)でホンの少し入れないと長く煮ますから詰まって塩からくなります。 よく煮えると皮も身も同じような柔さになってどんなに美味しゅうございましょう。 それを火から卸して一晩おいて明日から食べ始めると寒い時なら四、五日は持もちますから煮る時面倒(めんどう)でも 毎日の副食物(おかず)になります。私も真葛が原の豆を沢山持って来ましたら今度煮て差上げましょう」

妻君「どうぞ是非」大原「僕も頂戴に出ますよ。しかしお登和さん、そんなに料理の秘伝を人に教えては何処(どこ)からか お小言(こごと)が来ませんか」お登和「来てもようございます。秘伝秘伝といって隠すのは狭い心、 私は何でもないような秘伝を習うために沢山の金を取られた事も毎度あります。 しかしこういう事はお互(たがい)に教え合って我邦(わがくに)の料理法を進歩させるのが人の道ではありませんか」 妻君「そうですとも」と大賛成。野蛮の世には何事にも秘伝多し。秘伝は文明の大禁物。

注釈:
[#「シチュウ鍋の図」のキャプション付きの図入る]
○本文の法にて煮たるものは最初樺色かばいろにて一日二日を過ぐると次第に黒味を帯び来る。
○一旦煮たるものを二、三日過ぎて再び煮返せば長く持ち豆もいよいよ柔くなる。
○ヒネの固き豆は本文の時間より一層長く煮るを要す。
○蚕豆を煮る時昆布と共に煮れば双方共に柔くなりて味よし。ただしこれは普通の新豆を煮る場合なり。もっともお多福豆に加えてもよし。
○鯉は蛋白質壱割九分、脂肪一分ありて滋養分多し。鯉の味噌汁を産婦に飲ましむれば乳の量を増すと称するは鯉も味噌汁も共に滋養多ければなり。

コメント:
濃漿とは、魚や野菜などを煮込んだ濃い味噌汁。ヒネとは、古くなること。 そして、秘伝とは、秘密にして特別な人だけに伝授することと辞書にあります。 お登和は「秘伝秘伝といって隠すのは狭い心・・・お互いに教え合って我邦の料理法を進歩させるのが人の道」と志高く語ります。 これも今日では、その内容によっては、著作権などの問題も絡んで参りますので、対価を払った者に提供することも必要でしょう。 それでも、家庭料理というものは、ビジネスのような報酬を伴うものではなく、無償で与える一方的なもの、恵みだと思います。 公共性の高いものであり、皆で共有すべきものとなるのでしょう。 ですから、著者は、その豊かな知識をこの著書を通じて惜しみなく与えているように思いました。 家庭料理は神聖なものです。