客の大原は腹中新に食物を容(い)るるの余地なけれども心に期する所ありて無理に箸(はし)を執(と)り 「なるほどこの汁は美味(うま)い、色々野菜も交っているがこの豚は口へ入って溶けるようだね」 主人「それは琉球の塩豚だもの。琉球の塩豚は有名なもので牛肉なんぞより数倍した御馳走だぜ。 豚だ位に軽蔑されては困る」大原「イヤどうして軽蔑が出来るものか、琉球も豚は上等かね」 主人「種が支那から来ているし飼養法(しようほう)も進んでいるから琉球豚は上等だよ」 大原「どうして支那豚はそんなに良(い)いだろう、やっぱり種類を改良したのかね」 主人「勿論(もちろん)古来から食用にしていて良い種類を繁殖させた結果もあろうが一つには地勢にあるそうだ。 第一豚の元祖たる猪(いのしし)の肉が欧羅巴辺(よーろっぱへん)のは非常に不味(まずく)って 支那のは非常に美味いそうだ。欧羅巴は土地が平坦でないから猪が常に筋肉を労してその肉が硬い。 支那は地勢上猪までノソリノソリと育(そだつ)から肉が美味い。豚は猪を家畜にしたものだ。 欧羅巴の豚も最初は猪の通りに肉が硬(こわ)かったのを支那豚を輸入して今のように改良を加えたものだ」
大原「なるほどね、一口に豚というが豚にも色々区別がある。この刺身のようになっているのも大層美味いがこれはどうしたのだ」 主人「それは豚の刺身と称するが君のような下宿屋生活でも一度拵(こしら)えておくと五日も六日も持つから試してみ給え。 訳はないよ。先ず豚の三枚肉の上等を買ってそのまま大きな鍋へ入れてよく湯煮(ゆで)る。 その肉片(にくへん)の大きさによって一時間から二時間も湯煮ると杉箸がスーッと楽に透る、それがちょうど適度だ。 その時一方の大きな丼鉢(どんぶりばち)へ上等の醤油しょうゆばかり注(つ)いで今の湯煮た肉を直すぐに漬けておく。 それが一日も過ぎると醤油が肉に浸みて美(うま)い味になる。イザ食べようという時小口(こぐち)から 極(ご)く薄く切って溶(と)き芥子(からし)を添えるのだ。一つ試してみ給え、一番軽便(けいべん)の豚料理だ。
しかし僕の家(うち)のは少し贅沢(ぜいたく)にそれをまた一時間ほどテンピに入れて蒸焼(むしやき)にしたのさ」 大原「テンピとは何だ」主人「俗にいう軽便暖炉だ。しかし君らが使うにはカステラ鍋で沢山だよ、小さいから火が少しで済む。 その鍋の中へスポリと入る位なブリキの皿のようなものを造ってそれを鍋に入れて上下(うえした)へ火を置けば 牛肉のロースも出来るし大概な西洋菓子も出来る」大原「早速そのお刺身を遣(や)ってみよう。 此方(こっち)の皿にある細(こまか)いものは大層サッパリとしているが何だね」
主人「それは豚のソボロといって豚の嫌いな人にでも食べられる。本式にするとソボロ俎板(まないた)といって 立目(たてめ)の俎板で肉を細(こまか)く截(き)るが此方にその俎板がない。 豚の肉を細く糸切にしてグラグラ沸騰(ふっとう)している塩湯へ少しずつ落してザット湯だったら 網杓子(あみじゃくし)で笊(ざる)へ掬(すく)い上(あ)げてよく水気を切って 今度は外(ほか)の鍋で油の中へ入れて炒(い)り付(つ)ける。 それから水一升に酒一合の割合で二時間ばかり煮て、牛蒡(ごぼう)と糸蒟蒻(いとごんにゃく)と木くらげがあればなおいい。 あるいは外の野菜でも時の物で構わん。野菜をやっぱり細長く切ってそれへ加えて砂糖と醤油で味を付けるのさ。 葱ねぎを細(こまか)に切ってヤクミにして食べると塩ゆでにしてあるから誰も豚と思わんよ。女に御馳走するならこれが一番だね」
大原「僕も豚ではないと思った、実に美味くって頬が落ちる。これは全く御令妹(ごれいまい)のお手料理だからこんなにおいしいのだね」 と柄(がら)になきお世辞を言う。娘も少し鼻が高し「どうぞその角煮を一つ召上って下さい」とこれが最も自慢の料理
注釈:
[#「テンピの図」のキャプション付きの図入る]
[#「カステラ鍋の図」のキャプション付きの図入る]
○琉球の塩豚にも色々の種類あり。その中で縄巻と称し、肉の周囲へ塩をつけ荒縄にてグルグル巻きたるが上等なり。
○琉球の塩豚を料理するは一晩位水に漬けて塩気を出し、一旦湯煮て薩摩汁の如く種々の野菜と共に煮るがよし。また刺身にもなる。種々の豚料理に用ゆべし。
○ソボロに用ゆる豚の肉は最初塩にて揉み、それを沸湯に投じてもよし。
○ソボロは汁が沢山あるほどに煮詰めてよし。外の野菜もなるべく小さく切るがよし。
○テンピは西洋食品屋にあり。壱円五十銭位なり。
○カステラ鍋は東京市浅草区蔵前片町瀬村正兵衛氏方にあり。壱円五十銭位なり。
○豚は生肉にて蛋白質壱割五分、脂肪三割七分あり。ハムにしたるものは蛋白質弐割四分、脂肪三割六分となりて滋養分牛肉に優る。故に長く煮てよく調理すれば滋養分は牛肉に劣らず。
○豚の糸切の塩湯煮にしたるを煮ていり豆腐へ交ぜ再び炒りてもよし。