小学6年生の甥が、自家製ラーメンを作っている。朝のスタッフ会議で話題となりました。
スーパーで好みの自家製麺を購入して、スープは自分で調合して作る。
鶏がらスープの素をベースに、オイスターソース等を入れて、自分好みの味にしていく。
そして、具はネギが主で、自分で切って添える。
そのラーメンが大変美味しいとのことでしたが、本人は自分が食べたい一心で作っているとのこと。
そんな甥の姿に、私たちが忘れているものを気付かせてくれるようでした。
それは、わが家の味ではなく、既製品の食品メーカーの味に慣れてしまっていることです。
その結果、わが家の味がなくなり、全国どこでも同じ味となってしまう。
多くの人が受け入れる最大公約数的な味を実現する、食品メーカーの努力は評価されるべきですが、
それだけに依存してはならないでしょう。
理想としては、それをベースにして、わが家の味に調味していくことです。
そこで、わが家の味とは何かを考えていくと、やはり日本の家庭では、出汁に至るでしょう。
それが、わが家の味のベースにあるべきもの。
ところが、こちらも便利な化学調味料のみに依存しやすい状況があります。
それを警告しているお一人が料理研究家の辰巳芳子さんで、
いのちの授業レポートをご参考下さい。
わが家の雑煮を求めてと
安全安心な自家製調味料の友も同趣旨です。
この出汁の味にこそ体力や知力を結集して、わが家の味、自分の味を求めて行くべきでしょう。
それは生易しいことではなく、自分の五感と思考を駆使して、
毎日の台所で鍛錬していく大事のようにも思います。
そして、最終的には自分の判断で味を決めることができる。これが台所を守る者の目標でしょう。
そこで、便利な既製品があふれる時代、自分の舌を使わないことに気を付けたいものです。
そこで、自由と言うことを思います。
自分で自分の味を判断できる、その味を自分で作れることに、料理における自由があるとも言えます。
わが家の味を求めるとは、自由を求めることにつながります。
その時に大切なのは、意思だと思います。「美味しいものを食べてもらいたい。」
その意思が、やがて味に変わる。
すると、味気ない人ではなく、自分らしい味のある人になれるのかもしれません。