妻君は料理に夢中なり「薩摩芋がこんなに美味(おい)しくなるなら直段(ねだん)の高い物ばかり買わないで毎日お芋料理を致しましょう。 そのセンはどうなさいます」お登和「これは塩湯を沸(に)たたせてそれへこのセンを入れてザット湯煮て水でよく洗います。 塩で締りますから切れません。今度は水を入れて塩とお砂糖で味をつけますが長く煮過ぎると切れてしまいます。 その煮加減が少しむずかしいので」と自分で残らず拵(こしら)えて見せる。
妻君感歎し「マア綺麗ですこと。お三やちょいと御覧、誰が見てもお芋と思えないね。良人(やど)が旅から帰って参りましたら 黙ってこれを出してみましょう。きっと吃驚(びっくり)致しますよ。まだ外(ほか)にお芋の使い方はございませんか」 お登和「体裁(ていさい)をかえればまだ色々なものになりますが、湯煮て裏漉(うらご)しにしてお芋を一日乾(ほ)して お餅(もち)を搗(つ)く時お米と一所に蒸して搗き込みますと大層美味しいお餅が出来ます。 それは上等の油で揚げて食べるのが一番です」
妻君「そうでございますか、今に寒餅(かんもち)を搗かせますから試してみましょう。 葛(くず)を入れたお餅は暮に搗きましたけれども、まだ外に変ったお餅はありませんか」 お登和「大豆を生のまま碾臼(ひきうす)で挽(ひ)いてそれを二升に五勺(しゃく)位な割で 海鼠餅(なまこもち)に搗き込みますと乾きが悪うございますけれども、カキ餅にして焼きました時 お砂糖入りのカキ餅よりもよく膨(ふく)れて軽うございます」
妻君「そうですかそれも試してみましょう。お餅を截(き)る時庖丁(ほうちょう)へ截口(きりぐち)が粘着(くっつ)いて 困りますが好(よ)い法はありませんか」お登和「大きな大根を側へ置いて先ず庖丁でザクリと截ってはお餅を截り また大根を截ってお餅を截るとお餅が粘着きません」 妻君「それは好い事を伺うかがいました、貴嬢(あなた)はよくそんなに料理の事をお覚えですね。 私なんぞは娘の時分少しも料理の事を心掛けませんでしたから嫁に来て急に困りました。 何でも娘の時無益な事を稽古(けいこ)しないで料理法を習っておかなければなりません。 貴嬢をお嫁にお貰いなさるお方はどんなにお徳だか知れませんよ。失礼ですが貴嬢は東京でお嫁にいらっしゃいますか」
お登和「どうなりますか分りません。兄や親の都合次第でございます」 妻君「東京でお嫁にいらっしゃるとようございますね、いつまでもお近所にいてお料理の事を教えて戴きます。 オホホ自分の勝手ばかり申して。貴嬢なんぞはどんな好い処(ところ)へでもお嫁にいらっしゃられますよ、 ですが気心の知れない人の処へいらっしゃるよりお兄さんのお友達か何かで気心の知れた人の方がようございますね。 昨日(きのう)貴嬢のお家へ大原さんという人がおいででしたか」
お登和は名を聞いてさえおかしくなり「ハイあのお方は何かよく召上りますね」 とさも驚いたように言う。妻君も共に笑い「あの人の大食は名代(なだい)です。 しかしあの人は大食の外に悪い所が少しもありません。正直でおとなしくってそうして心が極(ご)く実体(じってい)ですよ」 とためにする所ありてか良き点のみを挙げぬ。
お登和嬢は悪(あし)き点のみを知れり「ですがあのお方は幾度(いくたび)も落第をなすって去年やっと御卒業だったそうですね」 妻君「ハイ、それはそうですけれども御自分から頭の鈍い事をおっしゃって外(ほか)の人の二倍も三倍も勉強なさるそうです。 ああいう人の方が後生(こうせい)畏(おそ)るべしだと良人(やど)も申しておりました。 この節の才子といわれる人は直(す)ぐ物を覚えて直ぐ忘れて勉強という事をしませんから学校を出るとその先は進歩しません。 大原さんばかりは極く遅い代りに死ぬまで進歩するだろうという人がありますよ」
お登和「そうでございましょうかね」と容易に信ぜずして心に大原を軽んずる様子あり。 折から表に「お頼(たのみ)申す、今日は」と大原の声聞ゆ。
○薩摩芋を弐分四角長さ一寸位に切りサラダ油かあるいは鳥の油にて揚げ紙の上に置きてその油を取りたる後味淋、醤油、砂糖等にて
よく煮たるものへ鳥のソボロをかけて出すは上品にて味好き料理なり。胡麻の油にて揚げたる時は臭みを取るため湯にて洗うべし。
○鳥ソボロは鳥の肉を細末に叩き味淋、醤油、砂糖等にてよく炒り付けたるなり。
○鳥ソボロの代りに海老ソボロにてもよし。製法は鳥に同じ。また玉子の黄身の湯煮たるを裏漉しにしてかけるもよし。
○薩摩芋あるいは他の芋類を多食して胸の閊(つか)えたる時は昆布を食すべし。
あるいは昆布茶を飲むも可なり。昆布は芋類を消化せしむるの功あり。