バイブル(聖書)は、私にとっては、高校時代から、毎日ほぼ欠かすことなく読んでいる書です。
いつもそばにあり、自分を励ましてくれる。
バイブルが、日々語りかけてくれるように、フライパンも日々語りかけてくれるようでした。
それは、考えること、料理すること、その歴史や科学に至り、食べること、生きること全般にまで及びました。
結局、バイブルの教えに集約されたのかもしれませんが、自由という言葉が浮かび上がって参りました。
新改訳 聖書(日本聖書刊行会)
フライパンとバイブル。どちらも自分からは何も語りません。
それは、決して押し付けることなく、私の料理したい、読みたいという意思が起こるのを待っているかのようでした。
どちらも私の自由な意思を尊重してくれた。
その自分の意思があってこそ、その世界の奥深さに触れることができるのだと思います。
そして、私たちは自由が何であるのかを悟るのでしょう。
そして、その自由をさらに追求して、自分を知り、自分らしさに至り、自分の使命を全うしていく。
独立自尊を説いた福沢諭吉は、英語の「リバティー」を自由と翻訳した人物とも言われます。
自由とは、自分に由ることであり、独立と同意とも言えるでしょう。
英英辞典で奴隷(slave)とは、自分自身で決めることができない人たちとあります。
自分のことを自分で決断できるのが独立国家であり、私たち日本民族も聖徳太子の時代より、それを求めて来た歴史がありました。
それは、個人でも同じであり、福沢は「一身独立して、一国独立する」と説いていました。
その個人の独立は、日々のお料理を通じても育まれます。
自分で食べるものは、自分で作る。その自らの手で行うことは、自分の人生を自分で決断することにも至るでしょう。
その時、フライパンは、美味しさを通じて後押しをしてくれるようです。
「あなたは、あなたでいい。」自分の味、自分らしさを肯定してくれる。
そして、愛された人は、愛する人になっている。さあ、あなたの手で、フライパンを握りしめて下さい。
今日もあなたを待っている人たちがいます。