わが故郷の食文化にも造詣の深い フランス料理店「ボレロ吾妻家」を運営するアヅマエンタープライズ会長の伊藤篤哉(とくや)さんと フライパン倶楽部代表の高津由久が対談をいたしました。 伊藤さんは、家業の割烹(料理)旅館を引き継ぎますが、変動する時代に事業転換を試みて、 さまざまなことに挑戦して参りました。 今日は、2期目の豊橋市議会議員として、街作りにも取り組まれています。 また、二人のお嬢様を男手一つで育てあげて来た方でもあります。 そんな伊藤さんだからこそ、幸せへのヒントが一杯詰まった対談となりました。
高津:
地域の食の伝統を見直し、地域特有の食文化を守る「スローフード運動」が
イタリアから日本にもやってきました。
伊藤さんは、いち早く日本支部の会員となり、
2006年には「豊橋スローフードフェスティバル」にご尽力されます。
その時に、わが故郷出身の村井弦斎(げんさい)を核とした企画をご提案されました。
それは、故郷の人たちの多くが、村井弦斎を知るきっかけとなったと思います。
村井弦斎を簡単にご紹介下さい。
伊藤:
明治時代のベストセラー作家・翻訳家・料理研究家です。
代表作の「食道楽」は明治36年ほぼ1年に渡って報知新聞に連載され、翌年単行本として出版されます。
春の巻・夏の巻・秋の巻・冬の巻と立て続けに4冊出版され、最終的な総売上部数は50万部。
同時代の夏目漱石が著した「我輩は猫である」を遥かに凌ぐ驚異的な販売部数と言われます。
この本は小説ですが、筋書きらしい筋書きは無く、主人公であるお登和(とわ)嬢を中心に、
和洋中様々な食べ物の話、家庭生活の理想、衛生の思想が語られます。
全巻を通して登場する料理が600種余り。
まさに料理が主役で、読みながらその知識を得ることが出来る実用本でもあったのです。
高津:
男女の恋物語というレベルではなく、家庭の理想を語る小説が、当時は受け入れられたのですね。
「食道楽」では、すでに食育という言葉が使われていました。
「先ず智育よりも体育よりも一番大切な食育の事を研究しないのは迂闊(うかつ)の至りだ、
(中略) 体育の根源も食物にあるし、智育の根源も食物にある、
して見ると体育よりも智育よりも食育が大切ではないか・・・」
人間としての完成あるいは成熟、言葉を変えれば自立を突き詰めて行くと、そのもとは食物、
すなわち食育にあると言うことでしょうか。そのあたりの本質を見抜いていた人物とも思えます。
お恥ずかしいことですが、同郷人でありながら、私は村井弦斎の存在を最近まで知りませんでした。
伊藤さんは、いつごろから知っていたのですか。
伊藤:
40年以上前に話は遡ります。
明治100年の頃、NHKラジオは明治をテーマとした朗読を放送していました。
「天は自ら助くる者を助く」という序文で始まるスマイルズの「西国立志編」とともに、
私のお気に入りとなった番組が村井弦斎の「食道楽」です。
物語の筋書きよりも気になったのはハイカラなメニューの数々とその解説、そして食育論です。
その頃、明治村へ行楽に行きますが、そこで村井弦斎は豊橋出身であると知ります。
料理屋の息子でしたから、いつかは村井弦斎と食道楽を活かして何かしてみたいと思いました。
高津:
明治100年と言えば、昭和43年。私の生まれた年でもあります。
伊藤さんは、10歳ほど年上だと思いますが、それでも、まだ小学生ですね。
その当時から、そのようなラジオ番組に興味を持たれたのは、早熟な少年であったと驚きとともに、
生まれ育った環境が大きな影響を及ぼしているように思いました。
それを活かして何かをしてみたいとは、「豊橋スローフードフェスティバル」でも実現されましたね。
そのことに加えて、明治100年のラジオ番組の内容は、伊藤さんのスピリットそのもののようにも感じます。
料理屋の息子と言われていましたが、いわば独立自営のお店ですよね。
伊藤:
1945年6月の豊橋大空襲で全焼し、祖父は割烹(料理)旅館を立ち上げます。
料理は三河の幸を活かした会席料理です。真鯛の兜(かぶと)煮や船盛りのお刺身が懐かしいです。
京都の料亭から板長さんが来ていました。
佐藤栄作、福田赳夫、中曽根康弘などの政治家や高松宮といった宮家、
三船敏郎や浅丘ルリ子、山口百恵といった芸能人、野球選手やプロレスラーが来ました。
仮面をかぶっていないデストロイヤーの膝に乗る幼少時代の写真が残っています。
高津:
やはり、わが故郷の海の幸を生かして料理を振る舞っていたのですね。
昭和を代表する面々が訪れていて、デストロイヤーが仮面を外していたとは驚きです。
数年前に、高校の同窓会で、デーモン閣下氏を招きましたが、
その素顔は舞台裏でも見ることができませんでした。
そればかりか、素顔が見られないように厳重に警戒をされていました。
それと比べると、初対面の人であっても、人と人の間に何らの障壁がない、
陽気な時代の空気まで感じることができます。
伊藤:
戦前は、豊橋一番の「おもちゃ」と「たばこ」を商う伊藤屋というお店でした。
おもちゃといっても「囲碁盤」「将棋盤」「花札」「トランプ」「麻雀」といった
収入印紙の付いたものが子どものおもちゃ以上に良く売れたそうです。
私の祖父は、もともとは豊橋の絹繭取引所に来た近江商人です。
また、祖母は製糸工場の社長夫人の妹でした。
高津:
わが故郷は、蚕都(さんと)糸の町であったと言われます。
明治に近代国家が誕生したけれど、産業がない。
そこで、世界遺産で話題となっている富岡製糸場が建設されます。
まずは、国を挙げて製糸で産業を興します。
先ほどのラジオ番組に通じますが、スマイルズや福沢諭吉の啓蒙書が広く読まれた時代です。
その時、わが故郷では、女性民間人の小渕志(し)ちなどが表れて、技術改良を重ねて国内の製糸業を先導します。
やがて、生糸は、西欧列強に伍する輸出産品に成長します。外貨を稼ぐ旗頭です。
その後、日露戦争に勝利できたのも、これらの産業振興に負えるところもあったでしょう。
わが故郷では、玉糸製造同業組合が作られて、互いに助け合いながら生産を伸ばして行きます。
独立心に溢れた土地柄だと想像できます。
伊藤さんも、そのような先祖からの遺伝子、また故郷の風土から、この独立精神を受け継いでいたのでしょう。
伊藤:
私の代でも、時代の変化とともに、いろいろと挑戦して参りました。
大学を卒業して10年ほど、東京のホテルニューオータニで働きました。
その後、豊橋に帰り割烹旅館では役に立たない自分を感じ、東京豊橋を往復する中で
休業中であったパブを改装した「アンソニア カフェ」をオープン。
割烹旅館を廃業し駐車場事業へ転換、そして、弟と力を合わせ新事業に挑みます。
ロングカウンターバーとビリヤードのBROWNSです。
伊藤:
そんな時に、オートバイで事故を起こしてしまい、療養生活に至ります。
当初は大したことはないと高をくくっていましたが、内臓破裂で危うく命を落としかけました。
1度目の手術は思わしくなく、2度目の大きな手術で生きながらえます。3〜4か月は点滴で過ごしました。
「最後のひと葉」ではないですが、窓辺から中庭を見ながら過ごす毎日でした。
少し元気になりだしたころ、これから生きていくことの使命を意識しました。
長女と、まだ生まれたばかりの次女を成人させること、そして家族、従業員、友人への恩返し、そして事業です。
高津:
二番目のお子様が生まれた時だったのですか。
死を身近に感じると、生をより深く考えることができるのだと思います。
「なぜ自分は生きているのか、生かされているのか?」
そこに、使命と言う言葉が出て来ましたが、使命を意識できると、
事業も生き方も大きく変わるのだと思います。
その使命の延長に、事業にとどまらず、今日の市議会議員と言うお仕事があったのかもしれませんね。
また、病院のベッド上での思索は、深いものであったように思います。
自分の欲や自分本位の夢などというものが削がれて、純化されていく。
夢が志に昇華される。そこで初めて、自分の使命が見えてくるのかもしれません。
伊藤:
退院後、豊橋生まれ豊橋育ちで豊橋在住の恐らく初めてのソムリエとして仕事にのめり込んで行きます。
ところが、税理士試験に合格し会計事務所で働いていた妻がガンで倒れます。
残念ながら妻は先に旅立ちます。
小学校2生と幼稚園年長の娘二人を託された私には、
何故オートバイ事故で生きながらえたか改めて天命を知ります。
また、妻の闘病中に付き添いながら読んだ本は数多いです。
アンドルーワイル氏の「ナチュラル・メディスン」には感銘を受けました。
現代医学と伝統医学を解説する自然医学の教科書ともいうべき本です。
そして、日本の自然医学を調べていくと村井弦斎に行きつきました。
振り返ると、ソムリエや料理という仕事も、仮説と実験により極めていく世界。
また、その世界は、高校時代の生物部での活動はじめ、
ボーイスカウトや魚釣りや昆虫採集といった私の子どものころからの経験とも通じます。
妻亡き後ですが、フランス料理店「ボレロ吾妻家」を再創業いたします。
高津:
重い人生の現実ですね。
こんな表現をするのは適切ではないかもしれませんが、
さらに思索は深められ、思想は純化されたように思いました。
そして、無駄なものは何一つなく、すべてが一つに収斂されていくように感じました。
料理や自然科学に触れて来た事も大きな影響を与えたと思います。
ありのままを見る、物事の本質を見ることともつながっているので、
ご自分の使命を意識する上での大きな手助けになったのではないでしょうか。
料理や自然科学を通じて、人間は美味しさを求めたり、
自然の実相あるいは真理を追求したりするのですが、
結局は、「自分はどう生きれば良いのか」を学んで、個人の生き方に落とし込んでいるように思います。
伊藤さんにとっての「ボレロ吾妻家」こそ、子供時代からの経験と知識の集大成だったのでしょう。
高津:
そして、二人のお嬢様を育てる中で、事業を弟さんに委ねつつ、市議会議員として活躍の場を広げられます。
2期目の現在のテーマは「サスティナビリティ」「持続する都市 豊橋・東三河」と言われています。
伊藤さんが発行されている機関誌「TOKUYA TIMES」で紹介されていたアランという人物に、心が留まりました。
「生涯一高校教師として送った教養人」に、この時代の道標があるように感じたからです。
伊藤:
アランの著書は高校時代の恩師からすすめられました。
「幸福論」は、私にとっての「哲学始め」のような存在です。
アランは、健全な身体によって心の平静を得ることを強調しています。
そして、すべての不運やつまらぬ物事に対して、 上機嫌に振る舞うことをすすめています。
また、社会的礼節の重要性を説いています。まさに理想の教師です。
高津:
私の伊藤さんのイメージは、スピーチをされる姿に出会うことが多いのですが、
いつも優しい笑みをたたえていることです。静かな上機嫌とも言えるでしょうか。
その笑みは、さまざまなことを乗り越えた上で生まれてきた微笑みのように思います。
深い味わいのある笑顔とも言えるでしょうか。
ただ、現実生活では、なかなか上機嫌に振る舞えないものですが、
それを事前にそのようなものだと悟って、自分の意志で制御することが大切なのでしょうか。
「武士は食わねど高楊枝」という言葉も思い出されます。
しかし、気分とは違う自分を、無理やり演出することと言うよりも、
小さくみえるような幸せを感じとって、感謝することから醸し出されるようなものとも感じます。
その時、悲しみや苦しみというものは、その感度を増してくれるのかもしれませんね。
加えて、食べることが大いに助けてくれるように思います。
基本的に美味しいものを食べれば、自然と笑顔に上機嫌になれますから。
伊藤:
食べるとは生きること。「いただきます」と手を合わせるのは「命をいただきます」
という感謝の言葉だと思います。
子どものころ、ボーイスカウトでは3泊4日程度の「舎営」をしました。
大きなお寺を借り切っての少年たちの泊まり込みの夏の活動です。
ハイキングやゲーム、野外での炊事や夜の肝試し、そして寝袋で寝る生活などなど
子どもたちにとっては刺激的でした。ところが今になって良く思い出すのは
毎朝のお寺の住職の法話です。「いただきます」もそのころ学んだのですが、
いただく前に唱えたのが五観(ごかん)の偈(げ)です。それを訳すとこんな意味です。
一、この食事がどうしてできたかを考え、食事が調うまでの多くの人々の働きに感謝をいたします。
二、自分の行いが、この食を頂くに価するものであるかどうか反省します。
三、心を正しく保ち、あやまった行いを避けるために、貪など三つの過ちを持たないことを誓います。
四、食とは良薬なのであり、身体をやしない、正しい健康を得るために頂くのです。
五、今この食事を頂くのは、己の道を成し遂げるためです。
高津:
こんな気持ちで食べることができれば、それこそ幸せへの道のように思います。
食べることは、命をいただくことだと言われましたが、
それは自分ではない「他の命」をいただくことであり、
言葉を変えれば、自分のために他が犠牲となってくれた事実が存在します。
キリスト教の贖罪というニュアンスに近い、自分の存在意義を確認できることのように思います。
私見ですが、そのためにこそ食べる行為は存在するのかもしれません。
そこには人間存在の根源的な安らぎがあります。
また、犠牲になったもののことを思えば、自然と前を向いて自分の務めを主体的に果たして行ける。
食べることを通じて、いつも「あなたは愛されている」との語りかけがあるのですが、
飢えを体験したこともなく、誰かに料理してもらうばかりの飽食世代は、
それを聞ける感覚が麻痺してしまっているのかもしれません。
伊藤:
最後に、アランの言葉を紹介します。
「あなたが上機嫌でありますように。これこそ交換し合うべきものである。
これこそみんなを、まずは相手を豊かにする真の礼節である。
気分というものは、正確に言えば、いつも悪いものなのだ。
だから、幸福とはすべて、意志と統御によるものなのである。」
高津:
「衣食足りて礼節を知る」と言われます。
やはり、礼節のはじまりも食べることから。
先ほどの「健全な身体」も、同じく食べることを通じて形成されます。
ですから、「意志と統御」も、結局食べることと直結しているのではないでしょうか。
それができる人を自立した人とも呼べるように思います。
きちんと食べる。そんな人たちが増えれば、必然と街は良くなるでしょう。
まず自分がそんな人となり、そんな人を育てることが健全な方向性のようにも思われます。
そこに、伊藤さんのテーマである「サスティナビリティ」も実現するのでしょう。
そのためには、心の底から「いただきます」と言える人になりたいです。