この季節、わが故郷の二川にある豊橋動植物園には、アサギマダラという蝶が、 秋の七草のフジバカマを求めて、ひらひらと飛来して参ります。 その舞いは、悠然としていて、近くに来る人間を恐れようともしません。 そして、この蝶は、渡り蝶でもあり、海を越えて何千キロも飛んで行く力を秘めているのです。
同じく蝶を家紋にもつのが、わが故郷の吉田藩主であった大河内松平(おおこうちまつだいら)家。 当社の校区にある松山小学校の校章は、この大河内松平家の蝶が図案化されています。 そして、この大河内松平家は、名君の誉れ高い松平信綱(のぶつな)を輩出。 島原の乱を平定させた功績をはじめ、江戸幕府の礎を据えた人物とも言われます。
その大河内松平家第4代吉田藩主の松平信明(のぶあきら)は、 寛政の改革にあたった松平定信(さだのぶ)とともに緊縮財政や風紀の取り締まりを断行。 そして、定信の失脚後は、信明が老中首座となって、その改革を継承。 この時期は、折しも、北方の蝦夷地(北海道周辺)でロシアとの対外危機が引き起こされます。
いかにして、日本を守るか。まず、蝦夷地の地形を正確に知る必要があると考えます。 そこで、近藤重蔵、伊能忠敬(いのうただたか)、間宮林蔵(まみやりんぞう)らを派遣。 そして、1804年には、ロシアのレザノフが皇帝の親書を携えて長崎に来航しますが、 幕府は要求してきた通商を拒絶。 すると、ロシア人は樺太(からふと)・択捉(えとろふ)島に上陸して、幕府施設を襲撃する 露寇(ろこう)事件が勃発。 そのため、幕府は蝦夷地沿岸の警備を強化して、蝦夷地全域を幕府直轄地とします。
1808年には、イギリスの軍艦が長崎に入港して薪水・食料を強要するフェートン号事件も起こります。 ますます国際状況が緊迫化する中で、1811年には、 国後(くなしり)島でロシア軍艦の艦長であるゴローニンを抑留するに至ります。 その後、ロシアに捕縛された廻船商人の高田屋嘉兵衛(かへえ)とゴローニンとの捕虜交換が行われる。 これらの対外問題で、幕府を指揮していたのが、わが故郷の藩主・信明でした。 結果、ロシアとの軍事衝突は回避されました。
大名行列が歩く本陣資料館前の旧東海道
蒙古襲来以来の対外危機の渦中にあった信明は、 わが故郷の吉田藩に戻ることも少なかったようです。 それでも、江戸から帰藩する時は、その緊張も一時的に解けて、ほっと息をなでおろしたことでしょう。 その信明の大名行列を再現したお祭りが、二川本陣まつりです。 今年は11月18日(日)に実施予定です。
二川本陣資料館前の旧東海道を、当時の衣装に扮したわが故郷の人たちがゆっくりと練り歩きます。 時代物を彷彿させるその光景に、籠にゆらゆらと揺られつつ沈思黙考していた信明を想像できます。 そして、あの時代も、此処二川にアサギマダラは舞っていたのかもしれません。 信明は、アサギマダラの舞いに、松平伊豆守系・初代当主の信綱を思い出したことでしょう。 すると、その蝶が飛んで行く海の向こうに思いを馳せます。果たして、日本はこのままで良いのか。
信明の地元での事績は、藩校の時習館(じしゅうかん)を拡張したことだと伝えられています。 この藩校を設立したのが、祖父に当たる松平信復(のぶなお)でした。 国防の最前線に身を置いて、教育こそが最重要だと考えたのでしょう。 著名な儒学者であった大田錦城(きんじょう)を召喚します。 この時習館は、愛知県立時習館高等学校として今日に至っています。
信綱が知恵伊豆と呼ばれる一方で、信明は小知恵伊豆とも呼ばれました。 小という字があてられているところにも人柄が表れているようです。 当時の幕臣たちは、時の将軍を支えて、自分たちを表に出すことをしなかったようです。 北方の領土を守り、対外危機を回避した信明ですが、その名はあまり知られていません。 自分の事績は、時の将軍にすべてを譲る。 それは、立つ鳥跡を濁さずならぬ、立つ蝶跡を濁さずのごとくで、 人の記憶からも跡かたもなく消えてしまうのかもしれません。
しかし、隣国との領土問題に揺れるこの時代こそ、改めて、ありし日の信明を思い出すべきでしょう。 二川本陣前で籠に揺られながら、遠くを見つめる信明の眼差しに、 われら世代へのメッセージが聞こえてくるようです。 アサギマダラのごとく恐れず悠然と構えるべし。 他に身を任すことなく、毅然と自らの力で高く高く飛ぶべし。
平成24年霜月