わが故郷の豊橋動植物公園で、 アジアゾウのマーラが1歳の誕生日を迎えました。 アジアゾウの繁殖成功は、国内では大変稀少で、今回は4例目となります。 そのため、誕生までには、群馬サファリパークや上野動物園の支援をいただくなど、 関係者の皆さんには多大なご苦労があったようです。 現在マーラは、午前11時と午後14時からの2回、各1時間ほど観覧できます。
もともと、わが故郷の動物園は、1899年(明治32年)に安藤政次郎さんが安藤動物園として開園します。 その出発が民間の個人であったことは、わが故郷の誇りでもあります。 当時は、当店のある豊橋駅前の広小路にありました。 正確には、広小路の玄関口にある現在の精文館(せいぶんかん)書店の界隈で、 そこには「安藤動物園跡」と記された標柱が今日も立てられています。 駅前にある動物園ということで地の利も良く、遠くから訪れる人も多かったようです。
しかし、個人の力で動物園を維持して行くことは至難であり、 安藤さんは、何度も閉鎖の危機に追い込まれます。 安藤さんが亡くなる直前には、餌代にも事欠いて餓死する動物も出てしまうほどでした。 それでも、安藤さんの生前は、個人経営の動物園として持ちこたえました。
そして、安藤さんが亡くなった翌年の1931年(昭和6年)には、豊橋市が助け船を出します。 市民に親しまれた故でしょう。今度は豊橋市立動物園として新しいスタートを切るのです。 安藤さんは、31年もの長きにわたり、動物園を個人で経営しました。 そのため、昭和3年の昭和天皇の即位式では、社会教育に功労があったとして表彰されています。
「安藤動物園跡」の標柱、その先は豊橋駅
やがて、戦争を迎えた1945年(昭和20年)のことですが、豊橋市立動物園は閉園となります。 また、戦況悪化のため、全国の動物園では猛獣の射殺が実施されました。 同じ県下の名古屋市にある東山(ひがしやま)動物園は、 北王英一(きたおうえいいち)園長が最後まで抵抗して、動物たちを守っていました。 それでも、軍の命令には抵抗できず、射殺が行われます。
ところが、象のマカニーとエルドに対して、北王園長は懇願したそうです。 「この象たちは、よく仕込んであり、どんな芸でもするし、おとなしい象だから決して人間に 危害を加えるようなことはしない。この象たちだけは殺さないで欲しい。万一の時には私が責任をもつから。」 立会いの警察官もホロリとして、象の射殺は見逃しました。この物語には、後日談があります。
終戦となり、戦後復興が進行します。 わが故郷では、1954年(昭和29年)に豊橋産業文化大博覧会が開催されることになります。 この時、博覧会の会場の一角に動物園を設ける、動物園再園の計画が持ち上がりました。 時の豊橋市長は、豊橋警察署長だった大野佐長(さちょう)さん。 戦時中は、東山動物園を管内にもつ千種警察署の署長でもあった人物です。 すなわち、あの時、マカニーとエルドを見逃した警察官こそ、大野さんだったのです。
そして、再園する豊橋動物園を全面的に支援してくれたのは、東山動物園の北王園長だったのです。 情けは人のためならず。博覧会は大成功のうちに終わり、豊橋動物園は、順風満帆で再出発を果たします。 象を助けて、今度は象に助けられたと言えるかもしれません。 また、今日では、母象のアーシャの妊娠を助けて、マーラの誕生で来園者は増えています。 その時、稀少な子象が、わが故郷で誕生したのは、偶然とは思えません。
情けあるところ、愛のあるところに、希望は生まれます。 それは、安藤さんが忍びて忍んで蒔いた種が、花開いた瞬間でもありました。 マーラの周りで目を輝かせる子供たちに、安藤さんは満足そうな笑みを浮かべて 眺めていることでしょう。
平成24年神無月