田圃に植えられた早苗が、初夏の風をうけて、そよいでいます。 豊橋の西の外れにある神野(じんの)新田は、この季節、田植えを迎えています。 この新田は干拓地であり、もともとは三河湾の海浜であったところです。 その歴史をひもとくと、明治20年にさかのぼります。
百十国立銀行の頭取であった旧長州藩重臣の毛利祥久(もうりよしひさ)が、 同じく長州出身の愛知県県令(知事)にすすめられて、この地の干拓事業に着手します。 一旦は堤防が完成したものの、津波によって堤防が破壊されて工事は振り出しに。
明治23年に至り、ようやく再度完成したものの、 翌年の濃尾大地震と翌々年の大暴風雨によって堤防が決壊してしまいます。 自然の猛威の前に、毛利祥久は茫然自失となり、この事業から手を引きます。 すべては、ここで終わりかと思われました。
その時、この新田を買い取って、再びこの事業に挑んだ一民間人がいました。 それが、神野金之助(かみのきんのすけ)です。 神野金之助は、毛利祥久の失敗を検証します。 そして、当時堤防構築で実績をあげていた服部長七(はっとりちょうしち)からの協力を得ます。 服部長七は、人造石を使って堤防を作る土木請負業者。
人造石とは、花崗(かこう)岩の風化によってできた土に石灰と苦汁(にがり)を練り合わせたもので、 セメント発明以前に用いられたものでした。当時の最新技術を取り入れたのです。 ここに、一日当たり平均五千人の作業員を動員して、大堤防の再築工事が始まります。 それは、大自然との格闘でもありました。
神野金之助は、自らも草鞋(わらじ)をはき塩水につかり、 その一族の巨万の財を惜しむことなく捧げます。 ついには、明治29年4月15日には、神野(じんの)新田成工式が挙行されて、上写真の紀徳碑が除幕されます。
そこには、「子々孫々(ししそんそん)克(よ)く念(おも)ひ篤(あつ)く信じて 父祖の艱難辛苦(かんなんしんく)を 忘るる勿(なか)れ」と刻まれています。 その後も、入植者たちによって、開墾が始まりますが、初期のころは 塩水を含んだ土のために、農作物は思ったように実らず、赤貧洗うかのごとくの生活が続きます。 多くの入植者が、この地を去りました。
そのような苦難を経て、明治42年に始まった耕地整理は、最も先進的とされて、 多くの名士が視察にやって来るほどに至ります。 その一人が、農業博士でもあった新渡戸稲造(にとべいなぞう)であり、 その写真が神野新田資料館に今日も残されています。
ここで着目したいのは、この神野新田は、国家のプロジェクトではないことです。 一民間人の責任のもとで事業を起こして成功させたのです。 ここに大きな意義とわが故郷の誇りがあります。
神野金之助を大叔父とするのが、豊橋の財界で活躍するSALAグループの神野信郎(のぶお)相談役であり、 その精神を今日も脈々と受け継いでおられます。 わが故郷に流れる、国家に頼らず個人の責任で事業に取り組む独立の気風は、 この新田にこそ源流があるのです。
平成24年水無月