料理道具専門店 フライパン倶楽部

since 1970 FR CAMPANY
Instagram ご相談窓口
ホーム 会社案内 ご利用手引き 取扱ブランド カートを見る

料理道具専門店 フライパン倶楽部

MENU
0120-08-8271 10:00〜18:00 水・日・祝日定休 お問い合わせ 利用手引 取扱ブランド Instagram カートを見る
ご相談窓口 info@furaipan.com 10:00-18:30 水・日・祝日定休
ユーザーの声
→投稿する
朝のスタッフ会議
月間ベスト30
FRオリジナル商品
フライパン
炒め鍋・中華鍋
たまご焼き器
天ぷら鍋
お鍋・ケトル
圧力鍋・キッチン家電
包丁・まな板
木製品
ボウル・ザル・バット
調理小物
食器・ガラス
保存容器・弁当箱
ファブリック
お手入れ道具
入荷&欠品情報
セール品
おすすめギフト
オリジナル企画
個人情報取扱
特定商取引法表示
TAKATSU furaipan.com

わが街・豊橋わが故郷・東三河

大崎の 空駆け巡る さくらかな

わが故郷には、海軍の航空基地がありました。 三河湾を埋め立て八角形の人工島「大崎島」が造成されます。 この大崎島に、三本の滑走路をもつ飛行場とその関連施設が戦争末期に急遽作られたのです。 わが故郷は、気候的にも地形的にも飛行機が離着陸しやすい。 ちょうど日本の真ん中に位置して海上輸送がしやすい。 しかも、航空機関連の産業が近隣にあり部品を調達しやすい。 このわが故郷に白羽の矢が立ち、海軍最後の大基地が作られて、昭和18年4月1日には豊橋海軍航空隊が開隊しました。

主に若き操縦者を養成する練習部隊だったようです。 この基地と縁のある一人が、坂井三郎さんです。 坂井さんは「大空のサムライ」を上梓しましたが、二百回以上の空戦で敵機を撃墜してきたエースパイロット。 その坂井さんの所属していた台南(たいなん)海軍航空隊は、ガダルカナル島で激戦を交えた後に一時日本に帰還します。 その帰還先が、豊橋のこの基地だったのです。 ここで部隊を再編成して再度敵地に向かう備えをします。

一方、坂井さんは、ガダルカナル島での激闘の末に、一命は取りとめたものの、 パイロットには致命傷である片目を負傷して、一足早く戦地から九州の実家に戻っていました。 そこに仲間からの手紙が届きます。 自分の部隊が豊橋にいることを知ると、単身で豊橋へ。 そこで、仲間との劇的な再会を果たします。 もちろん、再度仲間たちと敵地に飛んで行く覚悟だったのです。 ところが、軍医長の診断で、それを果たせず、悲痛な思いで豊橋を去るのです。

やがて、豊橋海軍航空隊は七〇一海軍航空隊と改称して練習航空隊から戦闘部隊となります。 昭和19年10月には、最初の神風特攻隊に加わり、フィリピンのレイテ湾に突入します。 昭和20年3月には、再び特攻隊出動命令が下ります。この時は、幸い作戦が途中変更されます。 また、豊橋の空で訓練された搭乗員たちは、各地の航空隊にも送り出されます。 そこから出撃して、大空に散った若い命は数知れないでしょう。

そして、終戦の日。最後の特攻隊となって沖縄の米軍基地に突入しようとした戦闘機がありました。 それは、七〇一海軍航空隊の中津留(なかつる)達雄大尉が操縦して、 宇垣纏(まとめ)中将が同乗した戦闘機他十機でした。 宇垣中将は、終戦を知りつつも、決死の覚悟で特攻命令を出します。 しかし、突入したのは、米軍基地を避けて崖であったと言われています。

憶測に過ぎませんが、終戦後の攻撃に疑問を抱いた中津留大尉が、 独断で明日の日本を守ろうとしたのかもしれません。 あるいは、宇垣中将が、最後の最後に翻意して、そのような命令を下したのかもしれません。 そこには、死を覚悟して、ぎりぎりまで考え抜いて、日本を守ろうとした決断があったと思われます。 その最後の特攻隊員が、豊橋の空を飛んでいた中津留大尉であったのです。 享年二十三で新婚の奥様と生まれたばかりの娘さんがいたそうです。

さて、歳月を重ねて、その基地は跡形もなく、今日は工場団地となっています。 トラックが間断なく行き交う中に、当時の面影を残す交差点標識がありました。 そこには、「海軍橋」と記されています。 それがなぜ海軍橋であるのか、知ろうとする人はほとんどいません。

ただ、この交差点近くにある百三十年以上の歴史をもつ大崎小学校では、 ちょうど桜が開花する時季を迎えています。 その桜は、当時もそこにあったのでしょうか。 花盛りの命が大空に散ったことを深く心に刻んでいるかのように、今年も美しく花を咲かせています。

平成24年卯月