わが故郷は、軍都とも呼ばれ、その名残を街のところどころに見ることができます。 私の中学校時代の校長であった兵東政夫(ひょうどうまさお)先生が、召される直前に「軍都豊橋」を上梓しました。 そのタイミングを考えると、それを書き残すことは、ご自分の使命であったかのようです。 そして、それは、先生からのわれら世代への遺言だったように思えてしまいます。
決して戦争を肯定するものではありませんが、 われら世代は、このことに無知であり過ぎると反省いたします。 そこには、国のために、家族のために、わが身を投げ出した人たちの尊い生き様がありました。 それらの犠牲の上に、今日の私たちがある。 そんな人たちのことを忘れて、その後の豊かさを享受している私たちが、時に申し訳なく、時に情けなく感じます。
今この時代に必要とされているのは、彼らが示してくれた、 「自分たちの国は自分たちで守る」という責任や気概ではないかと思えてくるのです。 陸軍歩兵第十八連隊のあった豊橋公園の入口には、見張りをするために詰めていた 哨所(しょうしょ)が当時のままで残っています。 この季節、哨所周辺では、寂しく枯れ葉が舞っています。 偉大な人たちは、決して声高に自分のことを誇示しません。
陸軍歩兵第十八連隊をご存じでしょうか。 戦争末期に、サイパン島方面に派遣されます。 日本軍がサイパン島を失えば、敵軍は日本本土を空襲することができる。 その最後の砦を守ろうと、懸命に戦ったのです。
昭和19年7月7日、サイパン島は敵軍の手に陥ります。 それでも、生き残った第十八連隊の大場栄(おおばさかえ)大尉指揮下の衛生隊は、 タッポーチョ山を拠点に、ゲリラ戦で戦いを継続します。 その数は、四十七人と言いますから、忠臣蔵の赤穂四十七士を彷彿させます。 終戦を迎えても、なお抵抗は続きます。そして、ようやく上官の命令書を手にして、投降に至るのです。 それが、昭和20年12月1日ですから、陥落後512日間も戦い抜いた。
しかも、その前日には、髭をそり身なりを整え、亡くなった戦友たちを弔う式を敢行します。 そして、投降する当日。日章旗を高々と掲げ、軍歌を歌いながら整然と山を下ります。 大場大尉の軍刀が、敵軍の前に、厳かに捧げられる。 彼らに散々悩まされた米軍は、「敵ながら天晴れ」と涙を流すのです。 戦後、大場さんは語っています。「玉砕で死ぬべきところを生き残ったことについて、 果たして正しかっただろうかという思いがつねにあった。」
来春には、大場さんを主人公にした「太平洋の奇跡」が映画上映されます。 その生き様が公になるのは、大場さんの本望ではないのかもしれません。 しかし、それ以上に、われら世代が目覚めることを願っておられることでしょう。
平成22年霜月