太平洋の海沿いにある豊橋から、内陸山間部にむかって北上する電車がJR飯田線です。 わが故郷の母なる川である豊川の上流域であり、自然豊かなのどかな風景が広がります。 山並みの間を流れる川の水は透明度を増し、深みを感じれます。 木々の葉は繁り、しだいに濃くなり、涼しげな木陰をつくります。
その清流のところどころには、鮎(あゆ)の釣り人が、長い竿を差し伸ばしています。 また、「やな」といって、川のある場所をせき止めて、竹などで作った仕掛けを設置して、 流れてくる魚を掴み捕りできるところもあります。 このあたりは、奥三河とも呼ばれ、この季節は、避暑を求める家族連れで賑わいます。
そして、奥三河と言えば、五平餅(ごへいもち)。 ご飯を潰して楕円形にしたものを、平たい竹串などに刺して焼き、 甘辛の赤味噌をぬってかじりつきます。 子供のころ、口の周りに味噌をいっぱい付けて食べたのが懐かしい思い出です。
この奥三河では、戦国時代に、長篠の合戦がありました。 織田信長と徳川家康連合軍が、武田勝頼軍に対して、鉄砲を使い勝利したことで有名です。 しかし、この戦いは、鉄砲よりも、名もなき足軽の活躍がありました。
家康から長篠城を託されていた殿様が武田軍に囲まれます。 落城寸前の危機に至り、岡崎の家康に援軍を要請するために足軽を走らせます。 なんと、城の下水口から川を泳いで敵軍を突破する命がけの作戦。 深き水と深き緑が幸いしたのか、見事に敢行します。 家康のもとにたどり着いて、援軍がすぐに来ることを知ると、折り返し長篠城へ。 ところが、敵軍に捕らえられる。
そこで、敵軍は、「援軍は来ない」と伝えれば、助命して褒美を授けると持ちかけます。 足軽は、それに同意して、城のそば近くから大声で伝えます。 「あと二、三日のうちに織田・徳川の援軍が来る。それまでの辛抱である。」 策にはまった武田軍は、その足軽をはりつけに。 かたや、その声に励まされて長篠城は持ちこたえる。 形勢は一転して、織田・徳川連合軍は勝利します。
この決死の覚悟で忠義を尽くした足軽こそ、鳥居強右衛門(すねえもん)です。 この三河侍の辞世の句が墓標に刻まれています。 「わが君の 命に替る 玉の緒を などいとひけん 武士(もののふ)の道」 飯田線の鳥居駅は、強右衛門の磔殺された地にちなんでいます。
平成22年葉月