新聞広告で目に飛び込んで来た言葉が、渡辺和子さんの著書のタイトル「面倒だから、しよう」でした。
私の家内も渡辺和子さんのファンのようで、自宅のトイレには、
昨年上梓された「置かれた場所で咲きなさい」が立て掛けられていました。
そして、最新刊の「面倒だから、しよう」という言葉こそ、新しい年への道標だと感じたのです。
いつしか、世の中は便利になったゆえに、面倒と感じてしまうことが多くなったようです。
それは、最近の年賀状にも表れています。
パソコンやプリンターなどの便利なものが溢れたこの時代。
打つことはあっても書くことをしなくなっています。
ビジネスでも、あるいは最近ではプライベートでも、
宛名書きも裏面もすべて綺麗に印刷されている年賀状が多くなりました。
文面までも定型文をそのまま引用しているようです。
そんな年賀状が当然となっている世相も寂しいものです。
かたや、手書きの年賀状からは、たとえ筆跡が武骨であっても、差出人の心が伝わって参ります。
書くことは、情報を伝達することで、心が伴っている行為だと思います。
まさに、情報に情という言葉が付いているがごとしです。
その行為は、思考を働かせて、感情をこめて、手を動かすので、面倒な行為とも言えるでしょう。
しかし、面倒なことをするからこそ、心がこもるとも言えるかもしれません。
また、面倒なことをすることで、人としての底力、我慢する力も養われていると思います。
逆に、すぐに切れてしまうのは、便利なものに依存している結果なのでしょう。
このことは、家事やお料理にも通じるように思います。
便利な道具やサービスが登場して、それに頼ってしまっている。
そのため、自分の手で行うことが、効率の悪い愚かなことにすら見えてしまう。
その時、面倒なことには、愛情がこもることを忘れてしまうのです。
綺麗に印刷された年賀状が、作り付けの綺麗な食べ物と重なってしまいます。
この時代の便利な道具やサービスにのみ依存せず、きちんと自分の手を使い、人としての心を回復したいものです。