料理道具専門店 フライパン倶楽部

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精読「食道楽」春の巻

第十五 昨夜の夢

思いつつ寝(ぬ)ればや人の見えつらん夢と知りせば覚(さめ)ざらまじを、大原は昨夜(ゆうべ)の夢の現(うつつ)に残(のこし)て 独(ひと)り嬉し顔に朝早く臥戸(ふしど)を出(い)で洗面場(せんめんば)に到(いたり)て その帰りに隣室の前を過(すぎ)けるに、隣室に下宿せる大学の書生二、三人頻(しきり)に大原の顔を眺(ながめ)て クスリクスリと笑っている。 大原足を停(とど)め「ヤアお早う、諸君はナゼ僕の顔ばかり見て笑っています。 顔に何かついていますか」書生の一人(にん)「アハハついていますとも、絶世の美人がついています。 しかもその名をお登和さんという美人が」

大原眼(め)を円(まる)くし「ナニお登和さん、どうしてそれを知っているだろう」 書生「知っているから不思議でありませんか。コレお登和、林檎(りんご)の何とかを拵(こし)らえてくれ、 豚のお刺身が食べたいなんぞは安くありませんね」大原いよいよ驚き「それは全体どうしたのです」 書生「どうしたにもこうしたにも昨夜の寝言というものはありませんでしたね。宵(よい)から朝まで寝言の言い続け、 コレお登和こうしてくれ、ソレお登和ああしてくれとお登和さんという名が百遍も出ましたろう。 貴君(あなた)は食気(くいけ)一点張(てんばり)で女なんぞは振向きもしないと思ったら油断がなりません。 そのお登和さんと言うのは何です、お嫁さんの候補者ですか」と言われて大原急に間が悪く 「イヤどうもとんだ処(ところ)を聞かれましたな。そんな寝言を言ったかしらん」

書生「言わなければ僕らが知ろうはずもない。よほどの御熱心ですな。貴君の顔の前にお登和さんという人の姿がブラ下っていましょう。 真直(まっすぐ)に白状なさらんとこの関門を通しませんよ」大原「ヤレヤレ少々驚いたね。ナーニ昨日(きのう) 僕の友人の家(うち)へ往(いっ)てその妹に御馳走されたのです。その事が寝言に出たのでしょう」 書生「御友人の妹さんならお登和さんこうして下さいと他人らしく言うべきです。 お登和お登和と女房らしく呼棄(よびすて)になさるのは内々(ないない)その美人に野心があるのですね。 そうに違(ちがい)ありません。それなら打明けて僕らに相談なさい、女の事にかけては僕らの方が貴君よりよほど老功ですよ」

大原「なるほど、それに違いない。ナニね、深い野心がある訳(わけ)でないがその人を僕の嫁に貰ったらちょうどいいだろうと思って 今日は一つ外(ほか)の友人に橋渡しを頼もうと思っているのです。どうでしょう、出来ましょうか」 書生「出来るか出来ないか僕にも分りませんが幾分か先方にもその心が見えるのですか。 以心伝心黙契(もくけい)の中(うち)に貴君の心が通じているのですか」大原「イヤ一向通ぜん。 どうか通じさせたいと思っても向うは電気の不導体の如(ごと)し」

書生打笑(うちわら)い「それでは急に橋渡しを頼んでも駄目です。先ずその人の心を此方(こっち)へ引寄せておかなければ効がありません。 何か先方の悦(よろこ)びそうなものを遣(や)って少しずつ機嫌を取るのですな」 大原「何を遣ったらいいでしょう」書生「娘ならば先ず半襟(はんえり)位かな」 大原「半襟を買って持って行こうか」書生「そうなさい、それが一番です」大原「しかし僕は半襟というものを買った事がない。 どんなものを持って往(い)って悦ばれるか訳が分らん。困りましたね」書生「では僕らがちょいと小間物屋(こまものや)へ走って 良いのを一つ買って進(あ)げましょうか」大原「どうぞそうして下さい」と妙な処に援兵あり。

コメント:
間貸しの下宿は、今日ほぼなくなっています。 寝言が聞こえてしまう住環境でありつつも、このように冗談めいて語れる空気感には憧れます。 かえって今日の住環境は、あまりにもプライベートが行き過ぎてしまっているのかもしれません。 このような人と人とのつながりは、この時代に取り戻したいものの一つでもあります。 また、このころの学生は、今日と違って大人びていた印象があります。 大原も負けてはいず、「電気の不導体の如し」と返しているところにも面白みがあります。 このように男女の色恋のことを、カラリと明るく語れるところは、この小説の魅力なのかもしれません。 真面目なことを、真面目に語ると、やはり読みづらくなります。 それを面白おかしく表現することで読みやすくなる。これぞ啓蒙小説なのでしょう。