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わが街・豊橋わが故郷・東三河
フライパン倶楽部の情報が発信される地、愛知県東部の東三河地区、わが街豊橋は、 山あり、海あり、川あり、農業あり、工業あり、そして商業あり。 自然豊かで、生活のしやすい調和のとれた街です。 四季折々に、故郷で感じたことを、言葉にしてみました。

住民たちが街を創る NPO法人二川宿


東海道の宿場町である二川は、江戸情緒漂う街並みが残っています。 豊橋市に位置して、当店より東へ自動車で20分ほどのところに位置します。 すぐそばには、恐竜をテーマにした自然史博物館と遊園地が併設される 豊橋総合動植物公園が控えています。 今回、草津宿街道交流館でTKD(東海道)57総選挙を実施したところ(有効投票数5,105)、東海道にある57の宿場町の中で、二川宿が一番人気だったそうです。 二川の住人である私の解釈では、二川宿の人たちの自治意識の高さが、その結果を生み出していると誇らしく思いました。


 「灯籠で飾ろう二川宿」二川宿本陣資料館前で

それは、行政が主導する街づくりではなく、住民たちが積極的に参画していることで分かるのです。 この夏にも行われた催事「灯篭(とうろう)で飾る二川宿」は、住民たちのボランティアで運営されています。 JR二川駅を起点に東方向へ1.5qほどの細い通りの両脇に灯篭を並べて、ぶらぶらと練り歩く行事です。 途中にお店や屋台が立ち並び、ところどころで和太鼓や和楽器の演奏なども楽しめます。 こちらの通りの拠点になるのが豊橋市二川宿本陣資料館です。 本陣は、大名などの宿泊施設ですが、そこには庶民の宿泊施設であった旅籠屋(はたごや)「清明屋(せいめいや)」も併設されています。 加えて、この秋11月1日には、商売を営んでいた商家の「駒屋(こまや)」が改修復元されて開館いたします。

この「駒屋」の開館に向けて、住民たちは数年前から準備を進めて来ました。 そこでは、地元住民による観光案内、地元特産品の開発と販売などを目指しています。 もともと、平成14年に住民の自主的組織として「二川・大岩まちづくり協議会」が設立されたことを契機に、 行政との協働事業「二川宿ブランド化推進委員会」では、観光案内の指針ともなる 住民手作りのリーフレットの製作や新しい特産品「レモン柏餅」の開発などを手掛けて来ました。(レモンは、前回ご紹介した二川の河合果樹園さんのものです。) そして、行政の直営ではなく、住民たちが「駒屋」の管理運営を担っていくことを目指して、 昨年3月に特定非営利活動法人(NPO)を設立するに至りました。

ここに至るまでに、住民は、持続可能な組織を模索していました。 そこには、次代に継承して行きたいとの強い思いがありました。 かたや、利益を追求する企業ではなく、目的や目標が明確でないサークルでもなく、 社会的な信用を備えて、透明性の高い運営を行うことも求めていました。 そこで、議論を重ねた結果、NPOという組織に至ります。 この法人の目的は、「二川宿を中心とする二川地域の歴史文化を全国に発信し、地域住民の誇りとなる地域づくりを目指すとともに、 地域資源である市民活動を支援し、次世代への文化の継承をすることで、住まう人、訪れる人に魅力ある地域とする。」 行政任せにせず「自分たちの街は自分たちで創る」気概に満ちています。

そして、駒屋開館の1週間後の11月8日には、毎年恒例の二川宿本陣まつり大名行列も行われますが、こちらは今年で25周年を迎えます。今年は、二川宿にとって節目の年となります。 この秋には、ご来店かたがた、二川宿にもぶらりと寄ってみて下さい。

平成27年葉月



誇り高き農業者の集まり 豊橋百儂人


農業王国のわが故郷には、王国に相応しい農業者たちが活躍しています。 その一人が、豊橋百儂人(ひゃくのうじん)を構想して仲間たちと立ち上げた 河合果樹園の河合浩樹さんです。 農業者の集まりである豊橋百儂人には、志の高い認定基準があります。 まずは、自身の情報を自らの力で発信していること。 そして、一農業者として、人間として、偉大な先人に恥じない生き方を貫き、 後進の手本となるよう絶えず努力していること。 もう一つが、率先して消費者との絆作りを意識し行動していること。 この三つを柱にした170項目以上に及ぶ認定基準があるのです。 詳細はこちらのホームページを参照下さい。わが故郷の農業此処にあり。たくましき自立した農業者 が日夜汗を流しているのです。


 上段の左が果樹園で働かれる河合さんです。

その認定基準を生きる河合さんの果樹園に今回お伺いしました。 「10年は続けたい」河合さんの口癖であり、10年と言うスパンを常に見据えていました。 すなわち、長続きすること、育てることに価値を置いています。 それが河合さんの一つの流儀。2009年に結成された豊橋百儂人も、まずは10年を目指しています。 そして、無農薬レモン一筋で、今日に至っているお話を伺います。 こちらは27年の歳月を重ねて来ました。 このレモン作りを通じて、河合さんという人物も作られたのだとも感じました。 日焼けしたお顔には、農業者としての高き誇りと自信なるものが伺えます。 それでも、完全な負け犬だと感じた過去がありました。 無農薬レモンを販売した当初、売る人たちに評価してもらえませんでした。 その結果、東京の高級スーパーでは、半値で販売されてしまう憂き目を見ます。 売り場には、説明できる人がいないという実態に愕然。 ならば自身で販売すべし。 負け犬で終わらず、ご自分でホームページを作って販売するのです。

「ジュースは、皮ごとミキサーにかけて下さい。」 河合さんのレモンは、無農薬なので、皮まで食べることができます。 しかも、レモンの皮にこそ、栄養があるとのこと。 その成分を科学的に解析します。 ビタミンEと同程度の抗酸化力のあるエリオシトリン、 ビタミンCの細胞内残存時間を2〜3倍にしれくるヘスペリジン、 ビタミンCの酸化を抑えるリモネンとシトラール。 皮には、いっぱいの栄養が含まれている。 凍らせたレモンを擦りおろして料理に使う提案は、 「豊橋方式」としてNHKの「ためしてガッテン」でも紹介されたこともありました。 地元の宿場町の二川では、柏餅が名産であったことを手掛かりに、レモン柏餅を街作りの方と共同開発します。 「私たち夫婦は年間700kgフルーツを食べています。」換算すると、なんと1日2kgの摂取です。(リンゴ1個約300g) ご自分で作ったものをご自分で食べて販売する。 健康で日々前向きに生きている姿は、このフルーツによれるものでしょう。 こちらのページでは、 レモンのさまざまな食べ方を提案されています。

果樹園を見学させていただくと、レモンの花が咲いて、ほんのりと甘い香りが漂って来ました。 小さく丸い緑の実があちらこちらに。 「この実をいかに落とさないかが課題です。」目を光らせながら、今日も格闘されていました。 そして、無農薬ですから、甘い香りに誘われて、必然と虫たちもやって来ます。 虫にも、レモンの芽を食べてしまう害虫もいれば、その害虫を駆除してくれる天敵もいます。 ここが、河合さんの真骨頂でした。 いかに農薬を使わずに、害虫を駆除するか。 すなわち、天敵に活躍してもらうのです。 そのために、河合さんは虫をじっと観察する。 すると、今まで見えなかった昆虫の世界が見えて来るのだと。 天敵が害虫を食べる条件が理解できるようになり、天敵昆虫の技術なるものを確立したのです。 河合さんが書かれたこちらのページも 大変興味深いです。 「子供のころは、一日中、虫を眺めていても飽きない子だった。」 それがそのまま仕事に生かされていることに、やはり無農薬レモン作りは河合さんの天職だったのでしょう。

河合さんは、自然に向き合って仕事をされているゆえに、自然の叡智を授かっているようです。 おもむろに、果樹園に植わっていた雑草を引き抜いて 「ここに見えないかもしれませんが、ダニがいるんです。」 「ダニは小さな蜘蛛。でも蜘蛛は益虫なんですけどね。」 害虫を退治してくれている蜘蛛。殺虫剤などに蜘蛛が描かれているの見ると、 寂しい気持ちになるようで、蜘蛛を弁護しているようでした。 とかく人には偏見や誤解がつきまとうものの、河合さんは、素直に物事を見据えている。 だから真偽が見えてくる。小さな虫たちから謙虚に学んでいるのです。 そこに、自然の叡智なる気づきが降ってくるのでしょう。 そこで、河合さんは、消費者はもちろん、さまざまな人と広く交流するに至ります。 同業者たちのこと、住んでいる街のことにまで関心が及びます。 その気づきの結実が、豊橋百儂人でした。 そして、その気づきとは、責任あるいは愛情の発露にも見えて参りました。 儂人とは、自然から学ぶ責任と愛情に溢れた王国の勇者なのでしょう。

平成27年水無月



市民立で歴史を伝える ひとすじの会


昨年6月に一冊の本が上梓されました。 演劇脚本「ひとすじの糸」です。 主人公は、わが故郷で明治時代に製糸工場を立ち上げた女性経営者の小渕志ち(おぶちしち)。 南山国際中学校・高校の国語教師である馬場豊(ばばゆたか)さんの作品です。 折良く、富岡製糸場が世界遺産に登録されます。 これを機に、わが故郷では、この作品を演劇上演しようとの声が高まり、 「ひとすじの会」が設立されました。 わが故郷には、PLAT(プラット)という芸術劇場も誕生しましたので、まさに時期到来となります。


 演劇脚本「ひとすじの糸」の出版から始動しました。

この会の代表者が、当店が立地する小学校区の自治会長である宮下孫太朗(まごたろう)さんです。 宮下さんは理容師であり、誇り高き自営業者。 その昔、製糸に関わるお仕事もされていて、是非子供たちに、 郷土の偉人たちを伝えたいと、早速行動に移されました。 一歩踏み出されると、次々に賛同者が集まって、 中部ガスグループ相談役の神野信郎(かみののぶお)さんや豊橋市教育委員会教育長の 加藤正俊さん等が顧問に付きます。産業界および教育界の支援体制も整いました。

PLATでの上演日も来年の3月に決まりました。 演出家なども決まり、舞台出演者とボランティアも集まって、早速今月から舞台けいこも始まっています。 この会の特徴は、行政等の補助金に依存せず、市民たちの力で取り組んでいくことです。 また、来年で終わってしまうことなく、毎年継続させていくことを目指しています。 そのために設立した会となりますが、只今会員を募集しています。 個人の年会費が3000円で、只今入会されると特典として「ひとすじの糸」の書籍もいただけます。

私の両親世代の方々が主となっていますが、私も役員の一人として参加させていただいています。 年長者の経験と、若手の行動力と感性があいまって、素晴らしい舞台になることを期待しています。 そして、この会に関わって、歴史を伝えることは、伝える人がいてこそだと実感しています。 座して何もしなければ、歴史はあるものの歴史は伝わりません。 伝える意志、伝える努力があってこそ、歴史は子供たちに伝わっていく。 そのひとすじさこそ、大人たちの責任とも言えるでしょう。

追伸:ひとすじの会の入会案内書は実店舗にございますのでお役立て下さい。

平成27年卯月



自ら立ち上がる 交通安全ステッカー運動


わが故郷、豊橋の隣にある静岡県湖西市で豊田佐吉は誕生しました。 その当時は、同じ吉田藩の領内でもあり、 その点では同郷者とも言えるのかもしれません。 また、青春時代は豊橋で学んでいました。 やがて世界を驚かす自動織機を発明して、会社は大きく飛躍します。 さらに、トヨタ自動車が生まれて、世界一の販売台数を誇るに至りました。 そんな歴史もあり、わが故郷は、自動車産業とも密接に結びついています。 そこで、湖西市にある 豊田佐吉記念館、名古屋市のトヨタ産業技術記念館を訪れると、 世界のトヨタに至った由縁がよく理解できます。 その背後にあった精神を肌で感じることもできるでしょう。 おすすめのスポットであり、実店舗ご来店の際には、お立ち寄り下さい。


 ステッカーを自家用車に貼って意思表示します。

この誇れる自動車産業とは裏腹に、わが故郷には、 自動車に関わる恥ずかしい事実があります。 それは、交通事故死亡者がワーストワンという深刻な事態です。 愛知県は、全国でワーストワン。その県内の警察署管内では、豊橋がワーストワン。 昨年19名の方が命を落とされました。 わが故郷の人たちは、この現実にしっかりと向き合う必要があります。 また、子供を持つ大人たちの責任も問われています。 このような劣悪な交通環境を許容していることは、座して悲劇を待つにも等しい。 いつしか、自動車を利用することだけに胡坐をかいて、 先人の苦労を忘れてしまっている状況です。

それは、他人まかせと表現できます。 この深刻な問題に対しても、警察がやることだ。行政がやることだ。 自動車を運転しているにも関わらず、当事者意識が希薄になっています。 今一度、英語の「independence」独立と訳される言葉を思い出す時です。 故郷の先人たる豊田佐吉の精神は、「independence」の精神でした。 これを直訳すると、「依存しない」他人まかせにしないということです。 自助とも表現される、自らを助ける、自らが努力して今日の産業を築いて来たのです。 ところが、交通安全の問題に関しては、自分および自分の意思がなくなり、 他人まかせの無責任な状況に至ってしまっているのです。

そこで、物語は、ここで終わってはいません。 わが故郷のPTAで、交通安全ステッカー運動が今月から立ち上がりました。 これは、PTAという子供たちを守る立場にある父兄たちが始めた運動です。 「スピードを守る。子供たちを守る。」と意思表示したマグネットステッカーを 自家用車に貼り付けて運転します。 ステッカーには、豊橋の地形が中央にデザイン化されて、 それをハンドルの輪で守る思いを込めています。 また、緑豊かな故郷の色であるグリーンは、信号の緑、安全の願いも込めています。 汚名を返上すべく、重い現実に立ち向かう、わが故郷です。 販売台数ではなく、交通安全でこそ世界に誇りたいものです。

追伸:同郷の皆さんでご賛同いただける方には、実店舗にて1枚300円でこのステッカーをお分けしています。

平成27年如月



2015年 幸せのために手を使おう


あけましておめでとうございます。 新しい一年の道標として、「手」を思いました。


 この手から、家族みんなの幸せが生まれます

旧約聖書の箴言(しんげん)は、分かりやすい人生訓に溢れています。 厳しい戒めの数々を語った後で、名もなき一人の女性が突然登場して、ほんのり温かく幕を閉じます。 それは、さわやかな一陣の風が流れ去ったかのような読後感です。 この女性の生き様こそ、箴言の結論だったかもしれません。 そこには、その女性の生活ぶりが具体的に描かれています。 キーワードは「手」で、日本語訳では、この女性の「手」が8回も登場いたします。

彼女は羊毛や亜麻を手に入れ、
喜んで自分の手でそれを仕上げる。
彼女は畑をよく調べて、それを手に入れ、・・・
彼女は糸取り棒に手を差し伸べ、
手に糸巻きをつかむ。
彼女は悩んでいる人に手を差し出し、
貧しい者に手を差し伸べる。
彼女の手でかせいだ実を彼女に与え、・・・

民藝運動を起こした柳宗悦(やなぎむねよし)さんは 「手仕事の日本」で機械との違いについて語っています。 「手は、心とつながっている。手はただ動くのではなく、いつも奥に心が控えていて、 働きに悦びを与えたり、また道徳を守らせたりする。 まさしく、手仕事とは、心の仕事にほかならない。」 心とつながっているからこそ、愛情が注がれます。 手当てする。手助けする。手伝いをする。 手とは、誰かに愛情を注ぐための器官とも言えそうです。 ところが、便利な機械やサービスに依存してしまい、いつしか手を使わなくなってしまった。

福山雅治さんの「道標(みちしるべ)」の歌詞を思いました。
わたしは、その手が好きです。
ただ毎日をまっすぐ生きて
わたしたちを育て旅立たせてくれた
あなのその手が好きです。

柳さんは道徳、福山さんは「まっすぐ生きて」と表現しています。 この手にこそ、新年の道標がありそうです。 仕事も大切ですが、衣食住の生活は基本であり、生活があってこその仕事です。 女性の社会進出が叫ばれますが、それはいつしか仕事が強調されがちです。 かたや、男性にとっても、同じく仕事の基本は生活です。 2015年、新たな年を迎えて、手を見つめ直してみて下さい。 お料理の手は、幸せの手。本年もよろしくお願いいたします。

平成27年睦月



プライズメント 高井 龍雄さん


実店舗隣りの店舗には、「はなまる ポイントカード」のオレンジ色のノボリが立っています。 はなまるとは、2001年創刊のわが故郷東三河のフリーペーパー。 この情報誌を発行して、カード会員を呼び掛けながら、街作りに取り組んでいるのが、 株式会社プライズメントの高井さんです。 その失効したカードのポイントは社会貢献事業に還元できるのが特徴です。 高井さんを含めて4人で創刊した月刊はなまるは、全36ページ3万冊から始動。 まだ、フリーペーパーが認知されていない時代に、 広告主募集のお願いにあがるばかりか、情報誌を置いてくれるところを8本の足で開拓します。 そして、10周年を迎えた時に、高井さんは語っています。 「ここまでの成長は、『継続』という信念の下、 一生懸命頑張って来た結果だと自負する部分もありますが、 それ以上に大切な要因は、はなまるを支えて下さるクライアントの皆様、 優秀な内外のスタッフ、はなまるに関わる全ての人達との『出逢い』なのではないでしょうか。 はなまるという一つの媒体を介して集まったこの『ご縁』こそ、 10年かけて手に入れた最大の宝ものだと思っております。」 高井さんは、私とほぼ同世代なのですが、その柔らかな物腰には、 経験を積み重ねて来た人の重厚な雰囲気が漂います。 今日のはなまるは、300ページの内容となり、12万冊発行に至っています。

この地域で、このような情報誌に成長できたのも、ひとつにはわが故郷の豊かな食文化が 背景にあったところも一因のようです。 わが故郷は、飲食店を経営する自営業者が多いため、そのお店の人たちが、 はなまるを支えて来たとも言えるでしょう。 そこで、高井さんは、「TOYOはしごナイト」というイベントを企画します。 チケット1枚で「自慢の料理1品とドリンク1杯」に交換できる。 このチケット5枚分で3500円。一晩のみ有効ですが5軒をはしごすることができます。 今度は高井さんが、はなまるのクライアントさんを支えているようです。 もともと、このイベントは、「LOVE PORT TOWN実行委員会」という 高井さんが中心となる集まりが主催しています。 LOVE PORTである豊橋港は、日本一の自動車の積み下ろしの貿易拠点となっています。 そんな港を、産業面だけではなく、市民目線の楽しめるところにしたいと活動されています。 今年の夏からは、さらに当社実店舗隣りの豊橋駅前に出店されて、 街中での情報発信の拠点になる取組みをされています。 その一つが「大人のライフスタイルマガジンQUATRO」フリーの雑誌です。 そこには、街中で活躍する人たちが紹介されています。 きっと街作りとは、人作りなのでしょう。

はなまるを支えたのが、ご自身の言葉の通り、出逢った人たちであれば、 そのつながりを作れるのは、やはり高井さんの人柄ゆえとも言えるでしょう。 高井さんの会社名はプライズメントですが、これは造語で「価値ある結果」を意味するそうです。 高井さんの蒔いた種が、しだいに育って花開き、名前のごとくになる日が近づいているようです。

平成26年霜月



丸文岩瀬商店 岩瀬 智さん


わが故郷には、豊橋うどんの名のもとに数多くのうどん店が立ち並びます。 最近は、豊橋カレーうどんで売り出していますが、その加盟店は現在51店舗にのぼります。 しかし、うどん汁の本道は、カレーと言うよりも、鰹節薫る出汁ベースのめんつゆでしょう。 その鰹節を脈々と提供して来たのが、創業100周年を迎えた 丸文(まるぶん)岩瀬商店です。 ひたすらに出汁の文化を継承して参りました。 只今は4代目の岩瀬 智(さとし)さんがお店を切り盛りしています。 初代の文吉さんが提案して開発したと言われる宗田かつお厚削りは、80年近くずっと販売して来た歴史を誇ります。 濃厚でコクがあり、魚臭くないのが特徴。わが故郷のうどん汁の味が此処にあります。 もちろん、うどん汁だけではなく、味噌汁、お吸い物、煮物の味付けのベースとなっています。 今日すっかり故郷の味に定着しています。

そんな岩瀬さんは、お店を継承してから、厚削りひとつにも、 いろんな人たちの苦労が詰まっていることを肌で感じて参りました。 漁師さんから始まり、いぶして作る鰹節職人、それを自店の技術で削ってパッケージに詰める。 何よりも、ご先祖たちの苦労があって、今のお店とご自身がある。 ですから、授かったお子さんには、文成(ふみなり)と名付けます。 それは、店名の丸文にもありますが、初代の文吉さん、二代目の文一さんへの敬意もあるのでしょう。 「文」という字に、特別の思いが込められています。 毎月発行している店舗新聞には、息子さんの視点で書かれた内容が続きます。 「子供のために」そんな視点で、お店を経営されています。 この時代、出汁ひとつも、簡単に化学調味料で済ませることもできますが、 子供のことを思うと、手間暇もいとわなくなる。 お子さんを授かった時こそ、食生活を見直す好機とも言われていました。 出汁の文化も、子供の存在が下支えしてくれているのかもしれません。 そして、お店も子供に継承して行きたいと望んでおられました。 先祖から受け継いだものを、未来に繋げて行く。それがご自分の務めのようです。

今回取材に伺った時に、お母様が、厚削りの出汁をお茶代わりに湯呑に入れてくれました。 ほっとする味わいです。岩瀬さんも、このお母様があってこそと思いました。 お母様のお料理は、薄味であり、素材そのものの味を生かす、しっかりとベースの部分で出汁が効いています。そんなお料理に育てられた岩瀬さんは、豊かな味覚をお持ちなのでしょう。 そこにも、親から子へ、きちんと継承されている姿を見るようでした。 そして、その豊かな味覚を生みだす出汁の文化を、さらに広く地域社会へ。 今日では、出汁入りせんべいを開発されたり、出汁教室などを開催されたりしています。 当店にご来店の節は、すぐ近くですので、鰹節もそうですが文化薫る岩瀬さんのお店にも ぶらりお立ち寄り下さい。

平成26年長月



アヅマエンタープライズ 伊藤 篤哉さん


わが故郷の小渕志ちさんの生涯を舞台劇の脚本にまとめた 南山国際中学校・高校の国語教師である馬場豊さんの出版記念パーティーが開催されました。 その席上で挨拶をされた一人が、地元の市議会議員でもある伊藤篤哉(とくや)さんでした。 伊藤さんは、ご自分と製糸業とのつながりを紹介されていましたが、 郷土の歴史をよく学ばれていて、わが故郷が生活文化都市になることを目指しています。

パーティーの終了後、馬場さんのサイン会が開かれました。 伊藤さんは、ご自分の名前「篤哉」を著書に添えていただくように、嬉々としてサインをお願いしていました。 その姿は、野球少年が、あこがれの野球選手からサインをいただくような表情でした。 伊藤さんには、少年の心があるようです。 かたや、ご自身は調理師でもあり、ソムリエでもあり、フランス料理店等を事業展開しています。 そして、わが故郷を先導いただく存在でもあり、市議会議員として街作りにも取り組まれています。 そこで、今回は、フライパン倶楽部リニューアル記念もこめて、伊藤さんとの対談特集を組んでみました。 こちらのページからご覧になれます。

平成26年葉月



荒徳屋 荒島 一美さん


わが故郷の愛知県と言えば、調味料の生産地が集積しています。 食を大切にした徳川家康のお膝元ゆえでしょうか。 味噌、醤油、味醂、酢、食用油が昔から製造されて来ました。 酒屋でよく登場する「三河屋」という呼び名も、そのような歴史を背景にもつゆえかもしれません。 そんな調味料の卸問屋を地元三河で手掛けているのが荒徳屋さんです。 当社で販売している竹本油脂マルホン胡麻油の代理店でもあります。 先代は、戦後の食糧難の時代に、食糧品配給所の所長を務めて、采配を振るいます。 その後は、それまでのつながりを生かして、家業の荒物屋を引き継ぎつつも、食糧品を扱う会社に移行。 やがて、御油(ごゆ)町の創業1772年の歴史をもつ大津屋(現イチビキ)の味噌を販売することに至ります。 時代は、食品スーパーの時代となり、いち早くスーパーでの調味料販売に取組む。 今日も地元の良質な調味料を中心に、自信と誇りをもって販売しています。

その荒徳屋の3代目である荒島さんは、先代の今は亡きお父様の教えを忠実に継承されています。 教えてと言っても、教えない教えと言えば良いでしょうか。 自分で体験して自分で気付くことに骨を折ってくれたと回顧されます。 戦地から帰られ、戦後の厳しい時代を経たゆえに、その経験が会社経営に脈付いていました。 今回取材に伺うと、何回ともなく登場する言葉が「ありのままでよい」でした。 会社を大きくしないでよい。大きくなると、うそをつくようになる。 身のほどをわきまえよ。自分自身を知れ。そして、等身大で生きよ。ごまかしてはならない。 そんな言葉が繰り出されます。それは、調味料と言う食品を扱う上でも 大切なことなのでしょう。きっと、調味料がその姿勢を教えてくれていたのかもしれません。 すると、苦境の時にも呑気でいられる。馬鹿にされても落ち込まない。 そこには、現実世界を肯定する信仰が伺えます。 「うまいものは、うまい。まずいものは、まずい。」そして、うまいものは、必ず喜ばれる。 そんな誠実さは、往時の三河屋の看板を彷彿とさせる、三河商人の心意気なのでしょう。

平成26年文月



豊橋ワンダーテーブル 岩本 泰輔さん


当店のお隣には、「ああ素晴らしかな食卓」を意味する料理教室があります。 その豊橋ワンダーテーブルを運営するのが岩本泰輔(たいすけ)さんです。 もともと東京で通信関連の会社を起業していて、今日は東京と豊橋を往復する毎日です。 やはり、故郷の豊橋に戻る時は、ほっとするとのこと。 主に豊橋の料理教室の方は、岩本さんのお母様が切り盛りしてしています。 そんな時、母親が作るお料理、そのお料理あっての岩本さんだなあと感じてしまいます。 そのお母様が「お料理は愛と勢いよ!」と口にされると、妙に納得、頷いてしまいます。 お母様は、豊かな食文化と喫茶文化のあるこの街で、以前喫茶店を開いていました。 そのため、お料理の感性も鋭いばかりか、お料理経験とその筋の人脈も豊富です。 岩本さんは冗談ながらに「母親の働き場所を提供してあげているのです。」 そんな和気あいあいとした温かな雰囲気が、この教室には漂っています。

岩本さんが「食卓を囲む」というメッセージを こちらに掲載しています。 この文章からも、母親の情愛なるものがひしひしと伝わって参りますが、 この時代が忘れているものに気付かせてくれます。 家庭料理を「自分のために自分を良く知っている者が作ってくれた料理」と表現されていますが、 岩本さんはご自分が受けたものを、そのまま言葉にしただけなのだと思います。 食卓を囲むこと、そしてお料理を作ることは、単にお腹を満たすだけのことではないのでしょう。 食べる人は、体だけではなく、心も養われている。 そこには、「愛されている」という、根源的な魂の充足あるいは平安が宿っているのだと思います。 それが、信じること、望むこと、さらに愛することにつながって行く。 ところが、この時代は、便利なものに依存するばかりで、 いつしか、そこに生まれて深められていくはずの大切なものが置き去りにされてしまったようです。 もう一度、なぜ食卓を囲むのか。なぜお料理を作るのか。深く考えてみたいです。 ああ素晴らしきかな故郷、ああ素晴らしかな母、ああ素晴らしきかな食卓・・・ 豊橋ワンダーテーブルを体験されてみてはいかがでしょうか。

平成26年水無月



フォノンデザイン 谷野大輔さん


モノクロ調のフライパンの写真の看板は当社の顔となっています。 こちらのデザインをして下さったのが谷野大輔(だいすけ)さんです。 また、昨年は紙袋やダイレクトメールのような細かなお仕事もしていただきました。 今回は、引き続いてホームページのリニューアルで、デザインを担当して下さっています。 桜の開花する4月を目指して、只今制作中です。

谷野さんは、デザイナーであり建築家であり、カフェの経営者でもあります。 豊橋市の佐藤町にお洒落な 「フォノンカフェルーム豊橋本店」を 構えているのですが、そこでじっくりと思索にふけることができます。 単行本などを手にして、コーヒーの香りとともに豊かな時間を過ごすことができます。 落ち着いて読書するには、おすすめの空間です。

また、カフェは、もともとサロンとも呼ばれる交流の場であり、 そこで人と人が出会い議論して思索を深めることもできます。 文化創造の拠点とも呼べるでしょうか。 最近では、議論をすることが少なくなっているのが寂しいのですが、さすがに谷野さんとの議論は面白い。 そこで、今回は谷野さんとの対談特集を組んでみました。

もともとは、カフェを開店される時に、ぶらりと実店舗に寄っていただき、 柳宗理のシリーズや、イッタラの商品などをご購入いただいた記憶があります。 物づくりに込められた制作者の思いを、分かりやすい言葉で表現して下さる。 物を販売する私としては大いに参考になります。 今回の対談も楽しませいただきました。

平成26年如月



創業の原点に返る 「お料理上手は幸せ上手」


きちんとお料理する、きちんと食べることの価値を信じて販売いたします



 太平洋上に広がる大空から昇る、故郷の初日の出

明けましておめでとうございます。 新年を迎えて、ひとりひとりの皆さんを大切にして参りたいです。 「ユーザーの声」というコーナーでは、いただいたお声に対しての返答をさせていただいています。 こちらのコーナーは使用後の感想が主なのですが、質問やお問合せを含めたコーナーも あわせてご提案できればと考えています。 「きちんとお料理する、きちんと食べること」の価値はきっと、 そのような仕事ぶりを通じて伝わって行くのでしょう。 そんな丁寧で真摯な仕事ができるように、スタッフ一同自らを磨いて参りたいです。

スタッフがお料理を楽しんでこそ、周りの皆さんにもお料理を楽しんでいただけるのだと思います。 スタッフひとりひとりも自分の生活を見つめ直して、お料理を楽しんで行けるように努力して参りたいです。 いつしか、仕事を忙しくしてしまうと、暮らしにもゆとりがなくなることを感じます。 仕事と生活が分離してしまうことを反省いたします。 良い仕事は、良い生活から。良い生活は、良い仕事から。 スタッフ同士でも、お互いに注意し合って参りたいです。 そんなスタッフの日々の暮らしぶりなどもご紹介できればと考えています。

業界の皆さんおよび街の皆さんとの連携をはかりたいです。 「きちんとお料理する、きちんと食べること」は、便利な物やサービスが溢れる時代には、至難なことかもしれません。 しかし、同じ志をもっている皆さんと力を合わせて行くことで可能となるのでしょう。 わが業界は、家庭用品とくにお料理道具の業界ですから、 根っこのところでは同じ志をお持ちの方が多いと思います。 また、わが街は豊かな食文化をもつ街であり、同じ志をもっている方も多いのです。 具体的には、メーカー担当者との座談コーナーや街のお店を紹介することなどを考えています。

癌が生活習慣にも起因すると言われて久しいですが、身近なところで闘病されている方を目にする今日です。 道具という存在は、良い生活習慣を作ってくれる、サポートしてくれる相棒なのだと思います。 いつしか、安価で使い捨ててしまう道具が溢れて、良い生活習慣までも損なわれている事態を招いているようです。 今一度、「きちんとお料理すること、きちんと食べること」を通じて、 生活習慣病を予防克服する貢献をして参りたいです。 そして、周りの皆さんに幸せをお届けできるお店に成長して参りたいです。 本年もよろしくお願いいたします。

平成26年睦月



豊橋・生と死を考える会 田中史佳さん・小栗節子さん


ああ素晴らしきかな、ともに喜び、ともに悲しみ、ともに助け合う隣人たちの街


豊橋駅の西側にある羽田八幡宮そばにある静かな住宅街。 通りから少し奥まったところに、以前は診療所であった古い家屋が建ちます。 そこの扉を開くと、落ち着いた喫茶店のような空間が広がっていました。 その真ん中には大きなテーブル。その向こうにはカウンター。 定刻になると柱時計の時報が響きます。 玄関そばには暖炉があり、2階まで吹き抜けになっていて、天井からは古風な電燈が垂れています。 窓はステンドグラスで、穏やかな光が差し込みます。 下界をしばし忘れるほどの、ゆったりとした時間が流れていました。 ここ「豊橋・生と死を考える会」の皆さんの交流の場に、木枯らし吹く晩秋の午後にお邪魔いたしました。 「コーヒー、紅茶、それとも日本茶」と尋ねられ、「日本茶をお願いします。」 そのカウンター奥のキッチンでお茶を用意してくれていたのが小栗節子さん。 高校時代の後輩のお母様であり、久し振りにお会いしました。 風の便りで闘病中と伺っていましたが、元気なご様子に驚きました。


 こちらの家で心温まる交流の輪が広がっています

キッチンをのぞくと、小栗さんの前でケトルから湯気が出ていました。 そこで、しばしの立ち話。 ご自分が病気の宣告を受けた瞬間に「当たりくじをひきました。」 私は耳を疑い、聞き直しました。「当たりくじですか。」 それも満面の笑顔で「当たりくじです。」 それは心の深いところから出てきている言葉だと感じました。 多くの場合、がんを宣告されたのであれば、「どうして自分が?」と思い悩んでしまうものです。 小栗さんは全く違ったのです。 私なりに、この勇ましくも明るい言葉が出てくる理由を考えました。 小栗さんという人は、日ごろから人のために生きてきた。 その延長線上にある言葉なのだと思い至りました。 以前小栗さんにお会いした時に、お父様がモルヒネを使い、安らかに最後を迎えた話を伺いました。 その時、お世話になった浜松市の聖隷(せいれい)病院の看護師さんたちの態度に感銘を受けます。 そこで、看護師さんに、自分の思いを伝えてみると、名札の裏側を見せてくれた。 そこには、「隣人愛」と記された3文字。 その病院では、すべてのスタッフの名札の裏に、この3文字が刻まれているのだと。 それが小栗さんにも伝染したようです。まさしく、小栗さんの原点が、この隣人愛。 そして、それを体現していた一つが、ここを拠点とする「豊橋・生と死を考える会」の活動だったのでしょう。

この会の由来をお尋ねすると、1994年にさかのぼりました。 島津禎久(よしひさ)さんの英国ホスピス写真展が名古屋で開催されていました。 その写真に感銘を受けた小栗さんの盟友である主婦の田中史佳(ふみか)さんが、 皇族とつながりのある島津さんに近づいて直訴します。 「豊橋でも写真展をお願いします。」 この田中さんの熱意が実り、その写真展はわが故郷でも開催される。 そこから「豊橋ホスピスを考える会」が立ち上がります。 まずは、わが故郷にホスピスを設置する活動が始まったのです。 なお、ホスピスとは、死期の近い人たちのために、身体的苦痛を和らげ、精神的援助をする医療施設。 その結果、わが故郷にもホスピス病棟が設けられました。 そして、さらに活動を広げるために、上智大学名誉教授のアルフォンス・デーケンさんを 名誉顧問にお招きして、今日の「豊橋・生と死を考える会」が2002年に発足します。 その後も田中さんは、島津さん同様に積極的に声を掛けて行きます。 佐藤初女(はつめ)さん、渡辺和子さん、柳田邦男さん、山崎章郎(ふみお)さん、谷川俊太郎さん、 鎌田實(みのる)さん、柏木哲夫さん、曽野綾子さんなどなどの著名な方々をお招きして、 年に1回のペースで講演会を開催して参りました。 そこには、田中さんの行動力が光ります。

会の2年目から加わった小栗さんは、活動を通じて人の生と死を深く考えて来られたのだと思います。 その時、いつも小栗さんの心に響いていたのが、隣人愛という「人のために生きる」ことであったのでしょう。 やがて、あの名札のごとく、ご自身に隣人愛が身についてしまったようです。 そんな小栗さんが、ある日突然、急性リンパ性白血病の宣告を受ける。 「当たりくじ」とは、「今度は、がんで苦悩する人たちの隣人となれる。」 そんなお気持ちがあったのでしょう。 小栗さんは、その宣告をご自分でも驚くほど冷静に受け止めることができた。 そして、抗がん剤治療にも果敢に挑まれる。 現在では、94%あった白血病細胞が0.1%以下になり、抗がん剤の副作用を抱えながらも意欲的に生活されています。 ここに至り、市民レベルで、がんを語り合いたいとの思いが強くなり、 がんになった当事者と関係者の人たちが体験と思いを語り合う 「がんを語り合う会」を開催します。 小栗さんにとっての市民とは、自分で考え自分で行動し、自分のとった行動に責任を持つことでした。 そんな話に及ぶと、「若い人たちにもっと頑張っていただきたいね。」 病人とは思えないほど熱く語りはじめてくれました。 ついつい私の口から、「小栗さん、ボルテージが上がっていますね。」 すると、笑いながら「私は何回も輸血したから、武闘派の血も流れているのよ。」 そんなユーモアは、デーケンさん譲りでしょうか。

他人と隣人とでは語感が違います。 他人という言葉は、どことなく冷たく、自分とは関係がないという無関心が含まれているようです。 かたや、隣人という言葉は、隣にいるという物理的なつながりだけではなく、 「あなたのそばにいつでもいます」という温かさを感じます。 お二人の活動は、周りにいる人を他人ではなく、隣人とすることだと思えて参りました。 そして、その隣人愛は、伝染する。そこに、明日の明るいわが街があります。

平成25年師走



とよはしまちなかスロータウン映画祭 石川誠さん


映画のもとに、若者、よそ者、馬鹿者を巻き込んで大いに楽しんでいます


建築家の先輩に誘われて、地元豊橋での映画祭の懇親会に参加しました。 私のような地元の商店主はじめ、企業経営者、弁護士、税理士、新聞記者、教師、公務員、学生、主婦・・・・ いろんな方が集まっていました。 その会の進行役を務めていたのが石川誠さん。 和やかな雰囲気の中で、ご馳走とともに映画を肴(さかな)に会が進行して行きます。 突然、園子温(そのしおん)さんという地元出身の映画監督も駆けつけて、みんなで記念撮影をしました。


 映画祭懇親会での集合写真、左端が石川さん

かつて豊橋のまちなかには、10を越える映画館がありました。 しかし、時の流れとともに、閉館が絶えず、2001年には最後の灯であったスカラ座が消えてしまいました。 その翌年に、豊橋青年会議所の事業として、閉館となった映画館で映画祭を開催。 果たして、人は集まるのか? この映画祭を最初に呼び掛けた石川さんは、誰よりも不安な気持ちでいたことでしょう。 そして、当日を迎えます。閉館したスカラ座には、立ち見が出るほどの観客が集まります。 思わず、石川さんは、トイレに駆け込む。感極まっての男泣き。 この経験が映画祭への原点になったようです。 継続への声は大きくなり、市民有志の実行委員会が立ち上がります。 それから、2011年には10周年を迎えて、今年も11月2日(土)より開催されます。 話題の映画をはじめ、映画をこよなく愛する玄人肌の委員たちの目で選び抜かれた作品が、 1本前売券500円で観賞できます。 今年の詳細はこちらのページをご覧下さい。 まちなかの活性化事業は、単発で終わってしまうものが多い中で、10年以上継続している取り組みには 頭が下がります。 石川さんの持論である「胸ときめかせることには、放っておいても人は集まってくる」 そんな魅力がこの映画祭には秘められているのでしょう。

豊橋にはゆったりとした空気が流れている。 それはこのまちが住み易く、居心地の良い場所であることの証しでもある。 温暖な気候、豊かな自然、良質で潤沢な食材、心開けば暖かい人々・・・。 かつて商業や交通、生活、文化、娯楽の中心であった"まちなか"。 今そこに往時の賑わいは無い。 が、"まちなか"はこのまちの個性を醸成する上で欠くべからざるものである。 私たちは、そんな"まちなか"を「スロータウン」と呼ぼう。 そしてその個性を詳(つまび)らかにしていこう。(設立趣意書を抜粋)

この映画祭の設立趣旨書には、わが街の魅力もちりばめられています。 そして、この映画祭の特色は、市民主体の自立した映画祭という点。 行政の補助金には頼らず運営されています。 映画のフィルムは一本で、約20万円前後かかる。 そこで、一本の映画を一つの会社が提供する「フィルム・スポンサー」という協賛システムを採用。 その先駆けが、ヤマサちくわさんで、ヤマサ本店で撮影した小林旭の「風に逆らう流れ者」でした。 その輪はしだいに広がって行き、そうそうたる地元企業が顔を並べるに至っています。 これも石川さんはじめ関係者の皆さんの努力の賜物。 かたや、わが街には、何かを本気で取り組む人たちを支援する気風があるのだと裏づけてくれます。 家康の時代から今日のトヨタ自動車に至るまで、三河には一致団結して取り組む気風があるのです。 これぞ、わが故郷の誇り。 そして、運営を支える人たちをボランティアで募り、今年は私もお手伝いさせていただきます。 冒頭の懇親会は、新しい参加者を募る場でもあり、映画祭に取り組む仲間たちの雰囲気を伝える場でもあります。 そこに集う老若男女は、映画という文化を媒介として、一つの目標に向かって邁進して行くのです。 これから何かが起こりそうな予感が漂います。

石川さんは、商業中心ではなく、文化娯楽を媒介に市民の交流を中心とした活性化こそ、 この時代の持続可能な活動と位置付けています。 商店主としては、一抹の寂しさを感じるものの、新たな時代の指標に思えて大いに共感できます。 そんな石川さんの好きな言葉は、「若者、よそ者、馬鹿者。」 私もその一人かも。そのような人たちを巻き込む懐の広さこそ、実は石川さんの個性。 人は人にときめきます。そこに、明日の街は作られるのでしょう。

平成25年神無月



岩屋緑地に親しむ会 西川収示さん


住民が自らの足で立ち上がり、互いに助け合える美しい街を目指しています


朝のマイカー通勤時に、反対車線の向こう側で、黙々と草を刈っている作業着姿の西川さんが目に入りました。 近くにはバス停があり、子供たちの通学路でもあります。 その道を安全に通行できるのは、街の人たちの労苦が伴っている。 そんなことを想起させる後姿に心温められて、そのまま車を走らせました。


 散策路に侵入したササを刈り払う西川さん

豊橋市の東部に位置する岩屋緑地は、わが故郷の里山と呼ぶに相応しい地であり、 市街地からほど近く、身近に自然と触れあえるスポットでもあります。 二つの小高い山をいただき、山頂に観音像がある岩屋山、その隣の大倉山の頂上には 展望台があり豊橋の街を一望することができます。 標高は100メートルですから、小さな子供でも楽しく頂上まで歩いて登れます。 途中にあるフィールドアスレチックの遊具などで楽しむこともできます。 また、南の麓にはプラネタリュームのある豊橋市視聴覚教育センターがあり、 少し足をのばせば、豊橋動植物公園や二川宿本陣資料館にも至ります。 この界隈は、教育環境にも恵まれています。 ただ、里山を管理維持することは行政だけでは難しく、 紆余曲折がありつつも、最終的には市民が立ち上がった経緯がありました。 その集まりが、「岩屋緑地に親しむ会」です。 現会長の西川収示さんは、平成13年の発会時から関わっておられます。 もともとは、豊橋市の「里山管理ボランティア養成講座」が出発点。 この講座を通じて、地元住民が主体となって取り組む活動が始まり、会則が規定されるに至りました。 「この会は、岩屋緑地を中心として、多様性のある森づくり・環境づくりなどの フィールドワークを行うとともに、これらの活動を通して 人間と自然の新たな共生関係を模索するとともに、環境教育の場を提供することを目的とする。」 地元を愛する熱い思いが、このような形で結実したとも言えるのでしょう。

その西川さんを中心に、今年の夏「灯籠で飾ろう二川宿」が開催されました。 岩屋緑地は、豊橋方面から二川に入る玄関に位置しています。 その二川は東海道の宿場町で、古い街並みが残ります。 地元の園児・小中学生たちの製作した灯籠などが、JR二川駅から旧東海道の通りに並ぶと幽玄な光が漂います。 日没の頃から午後9時までは、歩行者天国となり子供たちが友達や家族とともに練り歩きます。 通りにある氷屋さんには、赤い提灯がぶら下がり、長蛇の行列ができていました。 同じく通りにある二川宿本陣資料館の駐車場では、太鼓の音とともに盆踊りが行われています。 深編み笠をかぶり尺八を吹いている人も、この通りにはお似合いです。 西川さんは、街の子供たちのことを心に掛けて、「子供たちが自分たちの街に出てきて欲しい」 そんな願いが実現した日となりました。 このような催事を通じて、街への愛着や誇りは生まれるのでしょう。 また、この催事は、行政主体ではなく市民主体で行われたところにも価値があります。 私もお手伝いさせていただきましたが、 「自分たちの街は、自分たちで作る」という気概を感じることができました。 それは、子供たちへの最高のお手本です。 西川さんと初めてお会いした時に、「お宅の店の前にある池は、僕が作ったんだよ。」 当店のある広小路通りでは、電線を地中化する時に歩道を広くしました。 その時に、水の流れるモニュメントを作ったのですが、建設会社を経営する西川さんが施工担当だったのです。

西川さんは、優しい笑みをたたえている好好爺なのですが、 ここ一番の大切な時には、仕事人の顔つきになるのが印象的です。 「誠意をもって事に当たれば、何事も道は開かれる。」 若いころは、中堅建設会社で全国の現場を巡り歩いて来たゆえに、仕事の進め方を心得ておられます。 それらが生かされて、今日は住民が主体となる街作りに取り組まれています。 最近は人作りに重心が移られて、「私は、若い人と年寄りの橋渡し役だよ。」 それを聞きながら、ふと考えれば、私も橋渡しをしてもらっている一人だと気が付きました。

平成25年長月



賛同人建築研究所 大澤 稔さん


街のレベルは、そこに住む人のレベル以上にも以下にもならない



 大澤さんの作品である浜松地ビール工房にて

当社店舗とオフィスのある「キャンファーローレルタワー豊橋」は、 豊橋駅前再開発のもとに建設されました。 1階部分は店舗ですが、2階から18階は住宅マンションとなっています。 もともと7件の店舗および病院等があったところでしたが、当社も含めた地権者が協力して 一つのビルとなりました。しかし、そこに至るまでは、紆余曲折がありました。 何度も行き詰まりそうになったこともありましたが、常に前を向いて進んで行けました。 そこには、お隣り浜松市の建築士である大澤稔(みのる)さんという大きな存在がありました。

大澤さんは、私たち地権者一同に、再開発の意義や内容を 納得の行くまで分かりやすく丁寧に教えて下さいました。 また、地権者それぞれの固有の問題にも、丁寧に耳を傾けて、共にその解決に向けてご尽力いただきました。 傍で見ていた私は、物事をすすめていく上でのお手本を見ているようでした。 そんな大澤さんは、浜松市をはじめ多くの街づくりを手掛けてきて、 今日は私の背中までさりげなく押してくれます。 「豊橋駅前を東三河地域全体の顔たる玄関にしなさいよ。」 大澤さんは、もともと生まれは東京本郷ですが、お父様のお仕事で戦時中に豊橋にやって来られました。 お父様は土木技師で、豊橋にある海軍最後の航空基地の橋を作っていました。 今は交差点標識のみ残る伝説の海軍橋です。こちらの記事も参照下さい。 時の戦争には反対する態度をとっていたため常に特高が付いていたそうです。 その後、浜松に移り住みます。 トンネルを掘ったり、ダムを造ったりとお父様の仕事を若かりし頃は手伝っていたそうです。 しかし、人里離れた山の中で仕事をするよりも、 家族が一緒に過ごせる街の中で仕事がしたいと思うようになり、今日の道を選んだのだそうです。

大澤さんは、コミュニケーションをとても大事なものと考えています。 「住宅を設計する時には、そこに住む人とよく話しをして、よく理解し合わないと、よい建物は造れません。」私をそんな大澤さんの姿を間近に見て参りました。 「住民こそ地域の建築家であり、地域のことを考えるのは地域の住民である。 都市というのはそこに住んでいる市民以上にも以下にもならない。市民のレベル、それが都市だ。」 一住民として非常に心痛いところですが、ズバリ真理を言い当てています。 大澤さんの口癖は、「一人では何もできない」 私たちのビルでもそうですが、一人ではできることが限られています。 しかし、みんなで力を合わせれば、地域にまで大きく貢献できるようになります。 そんな思いのもとに、「賛同人建築研究所」と言う名称をつけたのだそうです。 確かに、賛同人の集まりから街づくりは始まるのだと思います。 暑さ残る日に、浜松駅に大澤さんを訪ねると、大澤さんが手掛けた作品を幾つかご紹介いただきました。 駅前にあるアクトタワーの展望レストランからは、浜松駅前が眺望できます。 駅前とは、その街の歴史や文化などのアートの集積地であり、 その街のアイデンティティが表出しているところだと教えてくれました。 「歴史や文化を掘り起こせば、浜松よりも豊橋の方が魅力はあるかもしれないね。」 微笑みの向こうで、もっと自分を磨きなさいと優しく諭してくれているようでした。

平成25年葉月



豊橋市立大崎小学校校長 杉浦博人さん


自分で考えて自分で行動できる良き市民の校長先生



 グリーンカーテンと子供の成長を見守る杉浦先生

わが広小路商店街の歩道の一角にネットを張り、その下にあるプランターの苗木が 日増しに成長しています。 やがて、暑さの峠を迎える頃には、グリーンカーテンが出現して、涼しげなスポットとなるのです。 これは、わが街に住む人たちが自ら取り組んで、当社スタッフも朝に夕にと水を注いで協力しています。 その中心的な役割を果たしてくれているのが、小学校の校長でもある杉浦博人先生です。 平日の日中は子供たちに向き合い、帰宅後や土日は、良き市民ともなる。 この時代、仕事だけに明け暮れてしまう方が多い中で、良いお手本を示してくれています。

杉浦先生は、子供たちが「自分で考えて、自分で話して、自分で行動できる」教育を目指しています。 現状の公教育では、考えて話すまでは出来ても、行動することに至れない。 そんな問題意識をお持ちです。どうしたら、自分で行動を起こすことができるのか。 そのひとつが、東京オリンピックを招致する活動でした。 その活動は、昨年の六年生の総合的な学習に由来します。 子供たちがオリンピックのことを調べて、「震災後の沈みがちな日本を元気にするのは東京五輪だ!」 東京オリンピックの招致を応援することになります。 通常はそこまでの学習となりますが、そこから実際的な行動に踏み込んだのです。 どのように応援できるのか。その話し合ったことを行動に移します。 修学旅行先の奈良・京都では、招致の願いをこめた全員お揃いのオリジナルTシャツを着て、 しかも署名活動を現地で敢行。 その結果、東京都の招致委員会から御礼の手紙と、関連グッズなどが子供たちに贈られて参ります。 喜んだ子供たちは、今年9月の開催地決定の日を心待ちしています。 実現すれば、彼らが20歳を迎えた時に、東京でオリンピックが開催されることになります。 行動を起こして、主体的に関わったことで、喜びもひとしおでしょう。 もしかしたら、選手として出場する子供も現れるのかもしれません。

そして、杉浦先生の小学校で今年取り組んでいるのが、「空とぶグリーンカーテン」プロジェクトです。 昨年の秋から、全校児童で、暑さに強く成長ぶりの良いパッションフルーツの苗を150本育てて来ました。 このうち80本を校舎前に植え付けて、3階建ての校舎で全教室覆う巨大な グリーンカーテン(高さ12m、長さ48m)が出現予定です。 残りの70本は、グリーンカーテンを地域に広げるために、家庭や事業所に配布しました。 校舎屋上まで張り巡らされたネットは壮観で、時期を迎えれば、 まさに空を飛ぶようなグリーンカーテンがお目見えしそうです。 きっと子供たちも、このグリーンカーテンに胸を張れるばかりか、電気を使わずとも工夫次第で涼しくなる 自然の摂理やその力を悟ることでしょう。 しかも、パッションフルーツの実を食べて楽しめる。パッションを持ったご褒美のようです。 このような教育活動は、杉浦先生の生き様と重なるようにも感じます。 街づくりに関わることは、仕事にも豊かな実を結ばせるのでしょう。 そして、子供たちも大人になった時に、自分だけではなく、みんなのことを考えて、 自分から進んで行動できる良き市民に成長していけるのだと思います。 まずは、校長先生が良き市民なのです。そんな市民が身近にいることこそ、わが街の誇りでもあります。

平成25年文月



豊橋市役所 環境部環境政策課 若子尚弘さん


何もない南三陸で、子供たちを通じて、明日への覚悟が決まりました



 単身赴任先近くで開催されたマラソン大会で

中学校時代の同級生の一人は、豊橋市役所に勤める行政マン若子尚弘(わかこなおひろ)君です。 建て替え前の当店は3階建てのビルでしたが、その3階部分ではお料理教室を開いていました。 当時としては、お料理教室の先駆けであり、未だご年配者の方から 「お宅の料理教室に通っていたんだよ。」と声を掛けていただくことがあります。 私が生まれた頃には、そのお料理教室は、地元の中日新聞が運営する中日文化センターと 統合するに至ります。 それ以来、その場所は、空き状態となっていました。 ただ、お料理教室の面影は残されており、「味の素」の名前が入る黒板があったり、 食器棚には数多くの料理道具が置かれていました。 そんな時、私が卓球に興味を持つと、祖父が卓球台を購入してくれて、その場所が卓球場となったのです。 私が中学生のころは、卓球部に所属していた若子君と卓球をしたのが懐かしい思い出です。 その彼が、被災地の南三陸町に1年間派遣されていたことを地方新聞で知り、 早速彼のもとに駆けつけて、被災地で考えたことを伺いました。 歳月は流れて彼も私も、四十代の半ばとなり、今や中学生の子供をもつ父親に。 今度は私の息子が、卓球部に所属する卓球少年です。 彼にも二人のお子さんがいるのですが、今回は単身赴任での出張となりました。 そんな彼がまず語ってくれたことは、「中学生たちの愛郷心に心打たれた」

最後まで避難を呼び掛けて流された防災対策庁舎は、 その鉄筋の骨組みだけが残る南三陸のシンボリックな建物となってしまいました。 その周囲は見渡す限り基礎部分のみ。それは赴任した昨年4月も、そして今日も変わらないそうです。 そんな何もない、生活感の全くない街を前にしても、 子供たちは南三陸に住み続けたいと思っていた。彼にとってそれが驚きでした。 そこに彼は、子供たちの覚悟を感じたそうです。 ここ豊橋でも、今月の毎週末は、大正時代から続いている夜店が近くの豊橋公園で開催されています。 子供たちが、友達と一緒に浴衣姿で楽しげに歩いている姿は、この街の風物詩でもあります。 ところが、南三陸では、日常子供たちを見かけることがほとんどない。 しばし「子供たちはどこにいるのか?」 そんなある夏の夜に、仮設商店街の一角で納涼祭が行われました。 そこには、子供たちが集まって来て、この街に子供たちがいることを再確認できたそうです。 打ち上げ花火が上がる中で、舞台の司会進行は中学生の女の子の二人組。 そんな子供たちを見た時に、安堵とともに、子供たちが街に果たす役割の大きさを実感したのだと。 話を伺った私も、子供たちのありふれた光景は、大人たちの明日への力となっているのだと 今更ながら気づかされました。 そして、子供たちの多くが、この街で多くの人の力になりたいと言っている。 そんな子供たちの生き様に、大人たちこそ、その覚悟を持って生きる時だと考えたそうです。 彼の16号にわたるレポート『南三陸だより』の最後には、 「それがこの国に生きる者の使命だ」まさしく、その通りだと思いました。

平成25年水無月



広小路三丁目女性の会 花倶楽部


明日の街づくりは、花に水を注ぐことからはじまります



 豊橋市美術博物館前に展示されていました。

百花繚乱(ひゃっかりょうらん)の季節を迎えています。 花王国あいち、農業王国とも呼ばれるわが故郷では、花の生産も盛んです。 温暖な気候で花が育つ環境にも恵まれており、農園だけではなく、 この季節は公園にも街にも花が溢れます。 そして、わが街広小路三丁目には、花を育てる女性の会があります。 「街を花いっぱいに」の願いを込めて、商店街の歩道を美しい鉢花で飾ってくれています。 幸い広小路の歩道は、歩いて街を楽しんいただくために広くなっています。 そこに花々があると、いっそう歩道は引き立ち、街の品格が漂います。 加えて、花があると、どんな人がいるのかが見えてくるようです。 そこで生活を営む人たちの思いやりや優しさまで伝わってくるようです。 花を植えることは、植えて終わりではなく、毎日手をかけることが必要となります。 そこには、必ず人の手があるのです。これは、お料理にも通じるのでしょう。 その手には愛情を感じることができます。 実は、花と言うよりも、街を愛する思いが伝わってくるのです。 この街を愛する思いは、子供たち世代にまで伝わって行くものでしょう。 それが開花するには、花を育てるように、しばし待つことも必要です。

全国的に駅前商店街の再開発や活性化が喫緊の課題となっています。 わが街も、街中に住む「都心居住」をコンセプトにマンションを建設するなど 今日に至るまでに紆余曲折がありました。 各商店主の意識や意見の違いなどで思ったように進んで行きません。 そんな時に、女性の皆さんたちが、まず花を植えることを始めたのです。 植え付け作業等は、お店を閉じてからの夜の作業となります。 しだいに、人と人とのつながりが作られ深められて参ります。 花に関しては素人の集まりであっても、サポートしてくれる人たちが現れます。 ここ豊橋には、市民たちが花を植える活動をサポートする豊橋みどりの協会があるのです。 毎年5月3日〜5日は、この協会が主催する「花交流フェスタ」という催しが 近くの豊橋公園で実施されます。 市民の手作り花壇が展示されており、市民たちが花を通じて交流を楽しみます。 わが街の女性の会も設立当初の平成12年から参加。上の写真は今年の展示の様子です。 このように花を育てることは、花そのものを楽しむだけではなく、 街づくりにつながっていくのです。 そこには、自分たちの街は、自分たちで作っていくのだと言う意志が感じられます。 行く手に暗雲が垂れ込めても、「明日はきっと明るくなる」 祈りを込めながら女性の皆さんが花に水を注いでいる。 そのような花がある限り、わが街の明日は明るいのです。

平成25年皐月



お好み焼き店 伊勢路 堀 米治さん


子供たちに前を向かせ、善意に満ちたお好み焼きは、最高の芸術作品です



 お好み焼きに向き合うと堀さんの顔が変わります

刻んだキャベツをふんだんにまぶして焼き上げるのが、わが故郷のお好み焼き。 その日は、近くの農家の方から、キャベツが無償で届きます。 そこには、いろんな人たちの善意が結集していました。ボランティアの数は20名を越えます。 「美味しいなあ。美味しいね。」 店内は、子供たちであふれて、そこかしこに笑顔が飛び交います。 朝から晩まで終日、お好み焼きが、養護施設の子供たちに振る舞われるのです。 その数は、440人。 店内にある椅子は、ざっと見積もって20数脚ですから、約20回転することになります。 春休みの一日を使った恒例の行事は、今年44回目を迎えることになりました。 ふと省みれば、私の年齢と同じです。

お好み焼き店「伊勢路(いせじ)」の店主、堀米治(よねじ)さんが お店を開いたのが昭和44年11月でした。 開店まもない雪降るクリスマス・イブの夜に物語は生まれます。 お店に子供連れの3人のお客さんがやって来ました。 「入っても良いですか。」何か躊躇する様子。 それは、大変みすぼらしい服装をした人たちだったのです。 「どうぞ、お入りください。」 天かすだけの安いお好み焼きを、男の子にはエビ入りのお好み焼きを注文されたそうです。 そして、両親らしき二人は、「いっぱい食べろ!」と自分たちの分まで、その子に分けていました。 堀さんには、ひしひしと親心なるものが伝わって来たそうです。 せめてクリスマスには、美味しいものを食べさせてあげたい。 満足そうに、嬉しそうに食べている子供の様子を見て、堀さんの胸は一杯になりました。 勘定の時に「お金はいりません。」と喉のところまで出かかったそうです。 しかし、他のお客さんの手前それができなかった。 雪の中に消えて行った親子を思うと、堀さんの心には、後悔の念のみが残りました。 「お金はいただくべきではなかった。」 その日がクリスマス・イブであったことも、かえって堀さんを苦しませたのかもしれません。 天が与えてくれた贈物、善意のチャンスを逃してしまったような心持ちでしょうか。 ほろ苦い思い出となります。

堀さんという人は、決して後悔だけでは終わらせない人で、 早速市役所などに足を運んで相談を持ちかけます。 そこで、養護施設の子供たちに無償でお好み焼きを振る舞うことが、 明くる年の春からはじまったそうです。 あの日のことを思い浮かべながら、施設の子供たちに 自分ができる精一杯のことをしようとしたのです。 堀さんは、いつも溌剌として快活な方なのですが、お好み焼きを焼く姿は真剣そのものです。 蝶ネクタイがお似合いで、鉄板を前に、汗をかきかき、ひたすらお好み焼きと取り組む。 誰かのために懸命になっている姿を目の当たりにして、子供たちは何を思うのでしょうか。 いろんな大人たちがいる中で、こんな大人もいるのだと気づいて、 救われた気持ちになれるのでしょう。 毎年ですから、堀さんは子供たちの成長ぶりを楽しみます。 子供たちも、春休みのその日が楽しみとなります。 やがて、施設を卒業して、子連れでお店にやって来る人もいるそうです。 そんな交流を通じて、多くの子供たちが前を向くことができたことでしょう。 今日44回続いてきたことを思うと、あのクリスマス・イブの出来事は、 やはり天からの贈物だったと思えて参ります。 そして、堀さんだけではなく、街の人たちにも善意の心を呼び起こしていただいた おまけも付いて来たように思えます。

そんな堀さんのお好み焼きは、善意のかたまりのようです。 ですから、それを食べた人まで優しくなれる。 お好み焼きを通じて、善意とは街全体に広がっていくようです。 ちょうど、今月30日堀さんのお店に程近い、 豊橋駅南側に「穂の国とよはし芸術劇場プラット」がオープンいたします。 堀さんは、今年6度目の年男となり、「80までは現役で働きます。」 芸術の究極とは善意であり、芸術とはその善意を表現することのように思います。 堀さんのお好み焼きこそ、最高の芸術作品に思えてしまうのは、私だけではないでしょう。

平成25年卯月



ロシヤ料理店 バイカル 内藤 享さん


手間暇かけて創られたロールキャベツは、人の憎悪をも溶かしてくれます



 このロールキャベツが出来るまでを想像します

実店舗のある広小路通りのお隣に位置する花園通りの入口に、 ロシア料理店「バイカル」さんがあります。 1979年(昭和54年)の開店ですので、かれこれ34年を迎えています。 わが故郷のような地方都市で、西洋料理のお店を経営し続けるのは難しいことだと思います。 しかも、メジャーなフランスやイタリアではなく、ロシア料理です。 まだ商店街に活気が残っていた時代から今日まで商い続けているのは、 マスターの内藤享(とおる)さんの人柄と料理に対する真摯な姿勢が地元の人たちに 支持されて来たゆえだと思います。 その看板メニューであるロールキャベツには、それが表れています。 ロールキャベツの中の具は、牛肉、玉ねぎ、お米と伺いましたが、 この玉ねぎは下処理で、フライパンを使って1時間30分炒めます。 そして、茹でたキャベツに具をはさみ、ソースに浸してオーブンで6時間。 その後、味を染み込ませるため24時間寝かせる。改めて鍋で温めて出来上がり。 職人気質のマスターは、34年間変わることなく、このロールキャベツを創り続けているのです。

今回は、わが故郷とロシアのつながりについてご紹介します。 わが故郷には、ロシアに本部があるハリストス正教会があります。 その聖堂は、国の重要文化財に指定されていて、わが故郷の顔の一つとも言えるでしょう。 市内電車の市役所前駅からほど近く、その一帯は静かな佇まいを醸し出しています。 その教会は、1879年(明治12年)に最初の会堂が建てられていますので、 1904年(明治37年)の日露戦争を経ています。 そこには、いろいろな悲喜劇が生まれたと想像しますが、 軍都でもあったわが故郷には、ロシア人捕虜の収容所もありました。 関屋(せきや)町の悟真寺(ごしんじ)と今日の高師(たかし)緑地公園あたりの2箇所です。 そして、ロシア人捕虜たちは、この教会に来て礼拝することが許されたようで、 その中の一人が描いたイコン(宗教画)が今日まで残されています。 どのようなやりとりが当時あったのか分かりませんが、 教会の人たちは、きっと捕虜たちを温かく迎えたのでしょう。 そして、故郷のガルブツィと呼ばれるロールキャベツでもてなしたのかもしれません。 そのプレゼントされたイコンからは、戦争の憎悪から癒された心を感じとることもできます。 そんな歴史のあったわが故郷だからこそ、やがてキャベツの産地となり、 ロシア料理店が生まれたとも言えるでしょうか。

先日「レ・ミゼラブル」の映画を観ましたが、放浪していたジャン・バルジャンが教会で ご馳走をいただきました。その場面の雰囲気と、内藤さんのお店が重なります。 そして、その料理は、ジャン・バルジャン改心への導火線だったように思います。 内藤さんのロールキャベツのようなご馳走をいただけば、自然と憎しみは溶けてしまい、 人を赦せる心が生まれるのでしょう。 雄弁な説教よりも、お料理には人を変える力があるのだと思います。 そんなことを感じさせる、わが故郷のロールキャベツです。

平成25年弥生



キャベツ農家 伊藤 孝浩さん


わが故郷の誇りは、太平洋の潮風と穏やかな陽光で育まれた寒玉です


フライパン倶楽部が、愛知県の東三河で生まれたのは偶然ではありません。 それは、わが故郷の豊かな食文化を知っていただくとよく分かります。 豊橋市から田原市におよぶ渥美半島は、全国ナンバーワンの粗生産額を誇る農業地帯。 そこで生産される代表的な作物が、この時期に旬を迎える寒玉(かんだま)こと冬キャベツです。 キャベツは、野菜炒め、焼きそば、お好み焼き、餃子などなど フライパンを通じて美味しい料理に様変わりします。 フライパン一つでキャベツを美味しくできる。 フライパンとキャベツは密接につながっているのです。 そこで、今年の実店舗便りでは、わが故郷のキャベツを愛する仲間たちをご紹介して参ります。


 伊藤さんに抱かれたキャベツは嬉しそうです。

まずは、キャベツを丹精込めて育てている生産者の伊藤孝浩(たかひろ)さんです。 もともと、伊藤さんとは、子供たちのお世話になった小学校のPTAを通じて知り合いました。 数年前までは、JA豊橋のキャベツ部会の会長も務めておられました。 日焼けした顔で、姿勢正しく、その穏やかな言葉が印象的です。 また、率直な方で、自然の不思議に対しても無理に理屈で通そうとせず、 「分かりません」との謙虚さが清々しい。 私がPTAデビューの会合で挨拶をすると、後でさりげなく声を掛けてくれたことも印象的でした。 適切な声掛けは、大変励まされるものです。 きっと伊藤さんは、キャベツだけではなく、人を育てるのも上手なのだと思います。 それは、キャベツから日々学ばれているゆえでしょう。

この時期、キャベツの収穫を迎えて、伊藤さんの畑を訪れました。 その日はご両親と三人で、キャベツの箱詰めを行っていました。 品定めをしながら、3種類の大きさに選別して、段ボール箱に詰めて行きます。 自分の娘を嫁に出すような心境で、立派な箱入り娘たちの身なりを整えてあげているようでした。 その箱には、豊橋の名称ととともに、伊藤さんの名前も明記されています。 私が育てた娘たちだから、どこに行っても大丈夫との自負も漂います。 伊藤さんのキャベツは、9月に苗を植えて、2月前後に収穫を迎えるので、 約6カ月間育てることになります。 他の季節のキャベツと比べると、この期間は長く、ゆっくりと育てることになります。 そのため、糖分ができて甘くなるとのことでした。 話を伺いながら、お料理の加熱にも通じると思いました。 石焼き芋では、石焼きでゆっくりと加熱すると甘みが出ます。 促成栽培ではなく、時間をかけてじっくり育てると、甘みだけではなく、栄養も愛情もこもるのでしょう。 この冬キャベツは、寒冷地では、霜がおりる等で作りにくく、 かといって温暖すぎる土地では、早く生育してしまう。 日本の真ん中のこの土地ならではの野菜とも言えるのでしょう。

その日の晩、伊藤さんのことを思いつつ、回鍋肉(ほいこうろう)を家族に振る舞いました。 我ながら、会心の出来映えでしたが、やはり素材に尽きます。 すると、伊藤さんのお子さんと同級生の息子は 「キャベツの芯が甘いのを初めて知った」と独り感激していました。

平成25年如月



日暮れても 日はまた昇る 三丁目


あけましておめでとうございます。 今冬は空が澄み切っているため、わが街の向こうに広がる山並みがひときわ美しく輝きます。 そして、わが故郷の郊外からは、日が昇る東の空に、富士の山を仰ぐことができるのです。 私の子供たちがお世話になった二川南小学校の校歌にも、「富士が見えます青い空」という一節があります。 また、私の母校である豊橋南高校の校歌では、「東嶺(とうれい)はるか朱(あけ)にそめ」と 富士山に朝日が昇る情景を彷彿させて始まります。 そこで、わが故郷では、東の空に仰げる富士のゆえに、 「朝日を仰げ!」という先人たちの教えが息づいているように思います。 そのため、映画「三丁目の夕日」が話題になりましたが、 当社の店舗と事務所のある広小路(ひろこうじ)三丁目に相応しい光景は「三丁目の朝日」です。 先人たちは、お正月を迎えて、輝く朝日を仰いだのでしょう。 昇る朝日の力強さに希望を抱き、悠然と構える富士に励まされて、 幾多の困難を乗り越えて来たのだと想像します。 そして、時代は変われど、富士も朝日も変わりません。


 わが街をてらす朝日(豊橋駅東口広場から)

映画「三丁目の夕日」に、合衆国の古き良き時代を舞台にしたテレビドラマ 「大草原の小さな家」が重なります。 この二つに共通するのは、人と人との温かなつながりです。 いつしか、私たちの街も、個人主義に陥ってしまい、 隣人たちとの関係が希薄になったことを反省いたします。 もう一度、あの温かい人と人との関係を取り戻すことこそ、この時代に求められていることでしょう。 その指針とは、創業当時の自営業者たちがもっていた官に頼らず自己責任で行う独立の気概と、 一人ではなくみんなのためにという公の精神を奪還することだと考えます。 「こうして夕があり、朝があった」この聖書の言葉は、普遍的な言葉、すなわち真理です。 同じく、その街に生きる人たちの生き方いかんによって、夜長くとも再び朝はやって来ます。 独立の気概と公の精神。そんな思いを胸に、この新しい年に挑んで参ります。 どうぞ、本年もよろしくお願いいたします。

平成25年睦月



春のぞみ 任をはたして 枯れ葉落つ


国道一号線沿いの豊橋警察署のそばに、春夏秋冬の草木が植えられた小さな憩いの場があります。 そこは、国道を往来する自動車の喧騒からしばし離れて、 故郷の代議士であった上村千一郎(うえむらせんいちろう)さんの銅像が東の空を見つめています。 銅像のそばにある記念碑には、上村さんのモットーであった 「五十年先を考えて木を植え、百年先を考えて人を育てる」の言葉が刻まれています。

私が高校卒業時に、祖父秀太郎(ひでたろう)の葬儀がありましたが、 この上村さんが「高津さんへ」と親しく呼びかけて、生前の祖父のことを しみじみと語っていたことが今でも記憶に残っています。 祖父と上村さんは、出身が同じ田原市で、成章(せいしょう)中学校では先輩と後輩の関係でした。 やがて、私の大学卒業時には、上村さんは不慮の事故で亡くなります。 そして、この両人の大先輩にあたるのが、故郷の豊川用水を着想して 完成に至らしめた近藤寿市郎(じゅいちろう)さんです。 この三人は、名前に「郎」がつくことより、私なりに「田原の三郎」と呼んでいます。 田原の三郎は、幾多の困難を乗り越えて、今の故郷を切り拓いて来たのだと思います。

この三郎を育てたのが、藩校成章館に由来する、成章中学校、現在の成章高校の気風だったのでしょう。 そして、この成章館を振興したのが、田原藩士であった渡辺崋山(かざん)です。 崋山は、当時の著名な儒学者であった伊藤鳳山(ほうざん)を江戸から召喚するなど 故郷の教育に尽力しました。 上村さんのモットーも、この崋山に由来するのだと想像します。 崋山が国家老に宛てた書簡では、内憂外患の世情を説明した後に、藩政の心構えを説いています。 「右の通りの世の中故(ゆえ)、田原は武を搆(こう)じ徳を敷(し)き、天地の間に独立致(いた)し、 掌大(しょうだい-手のひら程の大きさ)の地を百世に存し候(そうろう)様、御工夫第一也。 何でも徳にこれなくては危(あやう)し。」 キーワードは、「徳」であり、もう一つは「百」です。 崋山の八勿(はちぶつ)の訓戒には、 「眼前(がんぜん)の繰(く)り廻(まわ)しに、百年の計を忘する勿(なか)れ」とあります。 当社も創業より百年を迎えていますが、祖父の代には、当社事務所には崋山の「商人八訓」が掲げられていました。

一.先ず朝は、召使いより早く起きよ
ニ.十両の客より百文の客を大事にせよ
三.買手が気に入らず、返しにきたならば、売る時より丁寧にせよ
四.繁盛するに従って、ますます倹約せよ
五.小遣いは一文より記せ
六.開店のときを忘れるな
七.同商売が近所にできたら懇意を厚くして互いにつとめよ
八.出店を開いたら、三年は食糧を送れ


 東の空をじっと見つめる上村千一郎さんの銅像

崋山は、好奇心が大変旺盛で、身分に関係なく一般庶民をはじめ、 さまざまな人に会っては見聞を広めて、崋山メモなるものに書き留めます。 そのメモは、積み上げると背丈に達するほどだったと言われています。 時には、人を自然をじっくり観察しては素描(そびょう)します。 もともとは、画家志望で、その筆は、 肖像画の「鷹見泉石(たかみせんせき)像」など国宝ともなる画を残しています。 そして、当時の国際情勢を学ぶため、蘭学者を召し抱えて、蘭学書を翻訳させます。 鎖国化の中でも、当時の海外の状況を冷静に客観的に分析して、 明日の日本のことを考察していました。

今のままでは、日本も植民地にされてしまう。 そのような危機感から、国防に並々ならぬ関心を持ち、西洋から学ぶ必要を感じていました。 ところが、その言説が時代の先を行き過ぎてしまったのか、 時の政変にも巻き込まれて、自宅蟄居(ちっきょ)を命ぜられます。 さらに、自分が生きていることで、藩主に責任が及ぶことを危惧して、 自らの命を絶つ道を選びます。 今日の成章高校そばの池ノ原屋敷の納屋で、崋山は自刃に至ります。 長男には遺書をしたためていました。 「餓死(うえしぬ)るとも二君に仕ふべからず」 その差出人欄の一筆は、通称の登(のぼり)より「不忠不孝之父 登」 崋山は、百年先を考えて事にのぞんでいたことを思うと、 崋山の最後の結末は、その子々孫々の我らに「道」を示すことも意図していたように思えて参ります。

豊川用水が完成した年に、私は生を受けました。その年は、ちょうど明治元年から百年に当たります。 崋山からバトンを受け継いだ明治生まれの三郎から、 今まさに我ら世代にバトンが引き継がれています。 そして、我ら世代は、そのバトンを次の世代に引き継ぐ義務があります。

平成24年師走



舞える蝶 明日を見つめる 伊豆の守(かみ)


この季節、わが故郷の二川にある豊橋動植物園には、アサギマダラという蝶が、 秋の七草のフジバカマを求めて、ひらひらと飛来して参ります。 その舞いは、悠然としていて、近くに来る人間を恐れようともしません。 そして、この蝶は、渡り蝶でもあり、海を越えて何千キロも飛んで行く力を秘めているのです。 同じく蝶を家紋にもつのが、わが故郷の吉田藩主であった大河内松平(おおこうちまつだいら)家。 当社の校区にある松山小学校の校章は、この大河内松平家の蝶が図案化されています。 そして、この大河内松平家は、名君の誉れ高い松平信綱(のぶつな)を輩出。 島原の乱を平定させた功績をはじめ、江戸幕府の礎を据えた人物とも言われます。 その大河内松平家第4代吉田藩主の松平信明(のぶあきら)は、 寛政の改革にあたった松平定信(さだのぶ)とともに緊縮財政や風紀の取り締まりを断行。 そして、定信の失脚後は、信明が老中首座となって、その改革を継承。 この時期は、折しも、北方の蝦夷地(北海道周辺)でロシアとの対外危機が引き起こされます。 いかにして、日本を守るか。まず、蝦夷地の地形を正確に知る必要があると考えます。 そこで、近藤重蔵、伊能忠敬(いのうただたか)、間宮林蔵(まみやりんぞう)らを派遣。 そして、1804年には、ロシアのレザノフが皇帝の親書を携えて長崎に来航しますが、 幕府は要求してきた通商を拒絶。 すると、ロシア人は樺太(からふと)・択捉(えとろふ)島に上陸して、幕府施設を襲撃する 露寇(ろこう)事件が勃発。 そのため、幕府は蝦夷地沿岸の警備を強化して、蝦夷地全域を幕府直轄地とします。 1808年には、イギリスの軍艦が長崎に入港して薪水・食料を強要するフェートン号事件も起こります。 ますます国際状況が緊迫化する中で、1811年には、 国後(くなしり)島でロシア軍艦の艦長であるゴローニンを抑留するに至ります。 その後、ロシアに捕縛された廻船商人の高田屋嘉兵衛(かへえ)とゴローニンとの捕虜交換が行われる。 これらの対外問題で、幕府を指揮していたのが、わが故郷の藩主・信明でした。 結果、ロシアとの軍事衝突は回避されました。


 大名行列が歩く二川本陣資料館前の旧東海道

蒙古襲来以来の対外危機の渦中にあった信明は、 わが故郷の吉田藩に戻ることも少なかったようです。 それでも、江戸から帰藩する時は、その緊張も一時的に解けて、ほっと息をなでおろしたことでしょう。 その信明の大名行列を再現したお祭りが、二川本陣まつりです。 今年は11月18日(日)に実施予定です。 二川本陣資料館前の旧東海道を、当時の衣装に扮したわが故郷の人たちがゆっくりと練り歩きます。 時代物を彷彿させるその光景に、籠にゆらゆらと揺られつつ沈思黙考していた信明を想像できます。 そして、あの時代も、此処二川にアサギマダラは舞っていたのかもしれません。 信明は、アサギマダラの舞いに、松平伊豆守系・初代当主の信綱を思い出したことでしょう。 すると、その蝶が飛んで行く海の向こうに思いを馳せます。果たして、日本はこのままで良いのか。 信明の地元での事績は、藩校の時習館(じしゅうかん)を拡張したことだと伝えられています。 この藩校を設立したのが、祖父に当たる松平信復(のぶなお)でした。 国防の最前線に身を置いて、教育こそが最重要だと考えたのでしょう。 著名な儒学者であった大田錦城(きんじょう)を召喚します。 この時習館は、愛知県立時習館高等学校として今日に至っています。 信綱が知恵伊豆と呼ばれる一方で、信明は小知恵伊豆とも呼ばれました。 小という字があてられているところにも人柄が表れているようです。 当時の幕臣たちは、時の将軍を支えて、自分たちを表に出すことをしなかったようです。 北方の領土を守り、対外危機を回避した信明ですが、その名はあまり知られていません。 自分の事績は、時の将軍にすべてを譲る。 それは、立つ鳥跡を濁さずならぬ、立つ蝶跡を濁さずのごとくで、 人の記憶からも跡かたもなく消えてしまうのかもしれません。 しかし、隣国との領土問題に揺れるこの時代こそ、改めて、ありし日の信明を思い出すべきでしょう。 二川本陣前で籠に揺られながら、遠くを見つめる信明の眼差しに、 われら世代へのメッセージが聞こえてくるようです。 アサギマダラのごとく恐れず悠然と構えるべし。 他に身を任すことなく、毅然と自らの力で高く高く飛ぶべし。

平成24年霜月



象助け 情け巡って マーラあり


わが故郷の豊橋動植物公園で、アジアゾウのマーラが1歳の誕生日を迎えました。 アジアゾウの繁殖成功は、国内では大変稀少で、今回は4例目となります。 そのため、誕生までには、群馬サファリパークや上野動物園の支援をいただくなど、 関係者の皆さんには多大なご苦労があったようです。 現在マーラは、午前11時と午後14時からの2回、各1時間ほど観覧できます。 もともと、わが故郷の動物園は、1899年(明治32年)に安藤政次郎さんが安藤動物園として開園します。 その出発が民間の個人であったことは、わが故郷の誇りでもあります。 当時は、当店のある豊橋駅前の広小路にありました。 正確には、広小路の玄関口にある現在の精文館(せいぶんかん)書店の界隈で、 そこには「安藤動物園跡」と記された標柱が今日も立てられています。 駅前にある動物園ということで地の利も良く、遠くから訪れる人も多かったようです。 しかし、個人の力で動物園を維持して行くことは至難であり、 安藤さんは、何度も閉鎖の危機に追い込まれます。 安藤さんが亡くなる直前には、餌代にも事欠いて餓死する動物も出てしまうほどでした。 それでも、安藤さんの生前は、個人経営の動物園として持ちこたえました。 そして、安藤さんが亡くなった翌年の1931年(昭和6年)には、豊橋市が助け船を出します。 市民に親しまれた故でしょう。今度は豊橋市立動物園として新しいスタートを切るのです。 安藤さんは、31年もの長きにわたり、動物園を個人で経営しました。 そのため、昭和3年の昭和天皇の即位式では、社会教育に功労があったとして表彰されています。


 「安藤動物園跡」の標柱、その向こうは豊橋駅

やがて、戦争を迎えた1945年(昭和20年)のことですが、豊橋市立動物園は閉園となります。 また、戦況悪化のため、全国の動物園では猛獣の射殺が実施されました。 同じ県下の名古屋市にある東山(ひがしやま)動物園は、北王英一(きたおうえいいち)園長が最後まで抵抗して、 動物たちを守っていました。 それでも、軍の命令には抵抗できず、射殺が行われます。 ところが、象のマカニーとエルドに対して、北王園長は懇願したそうです。 「この象たちは、よく仕込んであり、どんな芸でもするし、おとなしい象だから決して人間に 危害を加えるようなことはしない。この象たちだけは殺さないで欲しい。万一の時には私が責任をもつから。」 立会いの警察官もホロリとして、象の射殺は見逃しました。この物語には、後日談があります。 終戦となり、戦後復興が進行します。 わが故郷では、1954年(昭和29年)に豊橋産業文化大博覧会が開催されることになります。 この時、博覧会の会場の一角に動物園を設ける、動物園再園の計画が持ち上がりました。 時の豊橋市長は、豊橋警察署長だった大野佐長(さちょう)さん。 戦時中は、東山動物園を管内にもつ千種警察署の署長でもあった人物です。 すなわち、あの時、マカニーとエルドを見逃した警察官こそ、大野さんだったのです。 そして、再園する豊橋動物園を全面的に支援してくれたのは、東山動物園の北王園長だったのです。 情けは人のためならず。博覧会は大成功のうちに終わり、豊橋動物園は、順風満帆で 再出発を果たします。 象を助けて、今度は象に助けられたと言えるかもしれません。 また、今日では、母象のアーシャの妊娠を助けて、マーラの誕生で来園者は増えています。 その時、稀少な子象が、わが故郷で誕生したのは、偶然とは思えません。 情けあるところ、愛のあるところに、希望は生まれます。 それは、安藤さんが忍びて忍んで蒔いた種が、花開いた瞬間でもありました。 マーラの周りで目を輝かせる子供たちに、安藤さんは満足そうな笑みを浮かべて 眺めていることでしょう。

平成24年神無月 



夜長し 学に打ち込む 技大生


「豊橋に決めましょう。」 昭和48年12月27日は、わが故郷の悲願が果たされた日となりました。 霞が関の文部省(現在の文部科学省)の応接室に、文部次官の声が響いたのです。 それは、新構想大学であった「技術科学大学院」の設置が、豊橋に決まった瞬間でもありました。 この大学は、全国に設置された 国立高等専門学校(高専)の卒業生の受皿となるものです。 高専の修学年数は、通常の高等学校の3年間とは違い、5年間となります。 そのため、大学への進学は、3年からの編入となってしまい、履修科目や単位問題が障害となって 受け入れ枠が制約されていました。そこで、新しい大学院大学の創設に至るのです。 わが故郷は、民間主導で、理工系大学の設立に早い時期から動いていました。 東京オリンピックのあった昭和39年には、民間の経済人の集まりである豊橋青年会議所が、 産業都市を建設していくためには工科系大学が必要であることを提言しています。 また、並行して官側でも河合睦郎(ろくろう)市長と組んでいた青木茂(しげる)助役が中心となって 内密で事を進めており、時に周囲に漏らしていたそうです。 「戦後横一線でスタートした豊橋と浜松に大きな開きができた。 ヤマハ、カワイ、ホンダ、スズキなど、工業力の違いだ。 その根底にある浜松工専(現静岡大学工学部)の力が大きい。」 戦前までは、製糸業を中心に、お隣の浜松に産業面でも先を走っていた印象がありましたが、 いつの間にか大きく水を開けられた状態となっていました。 そこで、明日のわが故郷を見据えた場合、この工科系大学の設立が、 官民どちらの立場からも悲願でありました。

豊橋青年会議所では、アンケートを行って世論を高め、勉強会や講演会を行い 提言書「東三河の新しい頭脳」を発行するなど積極的に誘致活動を展開します。 折しも、大学紛争の吹き荒れる時代と重なり、大学不要論が広まっていたため、 陳情のため文部省に行っても一蹴される状況だったようです。 それでも、活動は継続されます。 この地元民の熱意が、国立高等専門学校協会や文部省の人たちを次第に動かして行き、 時の田中角栄首相が動きました。 昭和48年度予算には、技術科学大学院の調査費がついに計上されます。 その時、田中首相の選挙区である新潟県長岡市に設置されるのは確実とされ、 もう一箇所を全国で争う状況となったようです。 しかし、大蔵省(現財務省)の査定で、長岡市だけの予算になってしまいます。 そこで、河合睦郎市長が最後の一手に出ます。 年末の予算復活折衝にかけるのです。 その時のことを、豊橋青年会議所出身の神野信郎(のぶお)さんが述懐しています。 「河合市長から呼ばれ、出向くと、青木助役が一緒でした。 私は行かない。2人で行ってくれと言われ、最後の切り札にせよと言って指示されたのが、 天伯(てんぱく)の用地話でした。すでにもう買ってある。準備万端整っている。 そう言って説得するんだ。そんな趣旨でした。最後まで秘密にし、最後の切り札だぞ、と 言って念押しされました。」実は、用地取得は途上であり、大芝居を打つことになります。 その大芝居は奏功して、冒頭の決定に至るのです。 その後も、用地内にあった墓地と豊川用水の移設の問題なども乗り越えて、 昭和51年10月に開学式を迎えます。 その席上で来賓の永井道雄文部大臣が挨拶しました。 「東大・京大・東工大・名大等が為さんとして為しえなかった新しい形の大学である。」 そして、わが故郷に花咲いた豊橋技術科学大学では、夜となく昼となく研究が行われています。 秋の夜長の今日も、技大生は研究に没頭して、灯りは消えません。 それは、この時代の闇夜を照らす存在であることを象徴しているようであり、わが故郷の誇りでもあるのです。

平成24年長月



岩砕き 汗血(かんけつ)ながれて 水ながる


この季節、農業王国とも呼ばれる、わが故郷の渥美半島や豊橋市南部地域では、 スイカやメロンが収穫を迎えています。 これらの地域は、もともと、小さな川しかなく、水不足に悩んでいました。 それが、昭和43年に開通した豊川用水によって、劇的な変貌を遂げます。 豊川用水は、長篠の合戦で有名な新城市鳳来町にある宇連(うれ)ダムから、 渥美半島先端の初立(はつたち)池に至る約100kmに及ぶ人造の川です。 この豊川用水なくして、今日の農業王国はありません。 大正10年に、わが故郷の政治家・近藤寿市郎(じゅいちろう)さんが構想してから、 47年の歳月を経て完成するに至ります。 その構想は、夢のまた夢として当時は一笑に付されました。 近藤さんは自伝で語っています。 「(豊川用水の)問題は、前にも述べた如く私が提唱した時には駄(だ)ボラだとか (中略)茶からして県としても地元としても陳情書も請願書も出したことはなかったのだが、 僕は(中略)駄ボラ吹きと言われようが三、四十年終始一貫を尽くしてきた。 ようやく戦後に横田くん(第14代豊橋市長・横田忍氏)や大竹くん(第15代豊橋市長・大竹藤知氏)が 市長時代に鑑(かんが)み地方で始めて期成同盟会を組織し、それから地方に大いに熱が上がり 今日の状況になってきたのだから(中略)宇連ダムの事業が完成して皆様の御役に立つ時が きたならば多年皆様より蒙(こうむ)りたる御恩の万分の一にもと存じますのと、 一面には東三地方は勿論(もちろん)国家の食料増産に対しての死に土産と存じている位ですから、 一日も早く完成せしめ、水をみて死にたいと存じます。」 水をみて死にたいとの熱き思い。ところが、近藤さんは昭和35年に、 豊川用水の完成をみることなく、89歳で逝去されます。

その後を引き継いだのが、同じく政治家の八木一郎さんと河合睦郎(ろくろう)さんでした。 近藤さんが、豊川用水の生みの親であれば、八木さんと河合さんが育ての親とも言われています。 国に訴えて予算折衝に当たります。利害が複雑に絡む地元の人たちとの交渉に当たります。 そのご苦労は並々ならぬものがあったと思われます。 今は亡き河合さんを知る方から、河合さんの一面を伺ったことがありました。 ありし日に河合さんは言われていたそうです。 「トイレにいる時だけ、唯一解放されるよ。」 常に緊張感のある日々を過ごされていたのだと想像できます。 そして、豊川用水の一番の難関は、二川サイホンの工事だったと言われています。 二川地区には、国道一号線、JR東海道本線、東海道新幹線の国の大動脈が通っているため、 用水は地下を通ることになります。 立岩(たていわ)という岩山の山頂ちかくから一気に44メートル落下して(右上写真)、 地下水路は約3キロに及んで再び地上に表れます。 始点より終点の水位が低ければ、その間がいくら低い場所を通っても、 水圧で自然に終点方向へ流れて行くサイホンの原理を応用しています。 その難工事となった二川サイホンの始点である二川チェック広場には、記念碑が立っています。 そこには、豊川用水の工事で殉職された16人の方の実名が石碑に刻まれています。 その場所は、通常出入りが制限されていて、 近隣の人たちも、その石碑の存在すら知らないのではと思われます。 そのことは、豊川用水が主に郊外を通り、その半分近くが地中に埋もれて 目立たない存在であることとも重なります。 そのためか、人々は恩恵を受けるばかりで、そのために労した人たちのことを忘れがちです。 つい先日の昼下がり、管理者に許可をもらって、この石碑を訪れる機会がありました。 そこは、小高いところにあり、用水が流れていく豊橋市南部地域と渥美半島を一望できました。 石碑そばには、水しぶきからの涼風を受けた生花が手向(たむ)けられていました。 四十四年後の今日でも、あの人たちのことを忘れないでいることに、 ほっと胸をなでおろしました。

平成24年葉月



文(ふみ)薫る 学に勤(いそ)しむ 夏休み


今年で開館100周年を迎えた豊橋市図書館。 今月をなぜ文月と呼ぶのか。 個人的には、夏休みになると、現在の中央図書館で自習をしていたことが懐かしい思い出です。 よくクーラーが効いていて快適に勉強ができるのです。 そこの2階には、司(つかさ)文庫というコーナーがあります。 主に洋書が置かれていて、特徴的なのは、80カ国以上の海外の教科書が閲覧できます。 海外の多彩な絵本や図鑑も楽しめます。 この文庫は、司忠(つかさただし)さんの寄付から始まります。 司さんは、わが故郷出身で、洋書販売を手掛ける丸善の社長でした。 戦後の混乱期であった昭和22年から25年間も社長の職にあり、 戦後復興とともに歩んできた仕事一筋の企業経営者。 司さんは社長職を受ける時に、「万事独裁でやるがよろしいか。」と注文したそうです。 それに対して「よろしい。」という言葉をもらって引き受けた。 司さんは、以下のように述懐しています。 「すべてを失った丸善を再興するには、いちいち計画を会議にかけていたのでは、 議論百出して収拾がつかないと思ったし、また一番若くて末席の重役だった私としては、 先輩重役のなかでいろいろ仕事がやりにくいこともあろうと考え、 引き受ける以上は思いきったことができるようにと、生意気な念を押したわけである。」 独裁であるとは、すなわち責任は自分ですべて負うという覚悟であったと思います。 そこに、わが故郷の気風が垣間見えるようです。

この丸善は、わが国初の株式会社でした。 この会社の設立には、福沢諭吉も関わります。 福沢門下生の早矢仕有的(はやし ゆうてき)が創業者です。 そして、福沢諭吉が書いたとも言われる会社設立趣意書であった「丸屋商社之記」には、 実業への大きな志を読みとることができます。 現代語訳で以下の様なくだりがあります。 「しかし今この貿易・商売の権益を外国人に独占され、黙ってこれを傍観するのは 日本人である私の義務に背くと言わざるを得ない。 一度、貿易の権益を失い、それが外国人ににぎられると、外国人に依頼して元金を借り、 外国人の会社で働かされて、あるいは、わが国の会社に外国人を招聘してこれを尊重し仰ぎみて、 その指示の下に奔走するといった情勢に陥ることになる。 もしもそんな事態になったら、国家の災害としてこれ以上のものはない。」 その独立の気概のもとで、商品の販売だけではなく、外国為替銀行として 政府と民間の出資で発足した横浜正金(しょうきん)銀行の設立に参画します。 その初代頭取は、わが故郷出身の中村道太。 また、社員の福利厚生から生命保険会社を設立して、これが後の明治生命となります。 その設立に関わったのが、これまた、わが故郷出身の阿部泰蔵(たいぞう)。 丸善という会社は、単に洋書を販売する会社ではなく、日本の実業界を形作ってきた先駆的な会社だったのです。 そして、戦後にバトンを引き継いだのが司さんでした。 司さんは丸善の復興を果たして勇退しますが、自分の財産を故郷に捧げて司文庫が誕生するのです。 司さんは、ご自身の経験から「企業あっての社会ではなく、社会あっての企業」と言われていました。 その司さんの汗と涙の結晶である書籍からは、独特の薫りが漂います。 それは、中村道太や阿部泰蔵から継承していた独立の気風も含んでいるのでしょう。 私をはじめ、わが故郷の人たちは、この書の薫りの中で学に勤しむのです。

平成24年文月



土と水 大志は此処に 結実す


田圃に植えられた早苗が、初夏の風をうけて、そよいでいます。 豊橋の西の外れにある神野(じんの)新田は、この季節、田植えを迎えています。 この新田は干拓地であり、もともとは三河湾の海浜であったところです。 その歴史をひもとくと、明治20年にさかのぼります。 百十国立銀行の頭取であった旧長州藩重臣の毛利祥久(もうりよしひさ)が、 同じく長州出身の愛知県県令(知事)にすすめられて、この地の干拓事業に着手します。 一旦は堤防が完成したものの、津波によって堤防が破壊されて工事は振り出しに。 明治23年に至り、ようやく再度完成したものの、 翌年の濃尾大地震と翌々年の大暴風雨によって堤防が決壊してしまいます。 自然の猛威の前に、毛利さんは茫然自失となり、この事業から手を引きます。 すべては、ここで終わりかと思われました。 その時、この新田を買い取って、再びこの事業に挑んだ一民間人がいました。 それが、神野金之助(かみのきんのすけ)さんです。 神野さんは、毛利さんの失敗を検証します。 そして、当時堤防構築で実績をあげていた服部長七(はっとりちょうしち)さんからの協力を得ます。 服部さんは、人造石を使って堤防を作る土木請負業者。 人造石とは、花崗(かこう)岩の風化によってできた土に石灰と苦汁(にがり)を練り合わせたもので、 セメント発明以前に用いられたものでした。当時の最新技術を取り入れたのです。 ここに、一日当たり平均五千人の作業員を動員して、大堤防の再築工事が始まります。 それは、大自然との格闘でもありました。

神野さんは、自らも草鞋(わらじ)をはき塩水につかり、 その一族の巨万の財を惜しむことなく捧げます。 ついには、明治29年4月15日には、神野(じんの)新田成工式が挙行されて、右写真の紀徳碑が除幕されます。 そこには、「子々孫々(ししそんそん)克(よ)く念(おも)ひ篤(あつ)く信じて 父祖の艱難辛苦(かんなんしんく)を 忘るる勿(なか)れ」と刻まれています。 その後も、入植者たちによって、開墾が始まりますが、初期のころは 塩水を含んだ土のために、農作物は思ったように実らず、赤貧洗うかのごとくの生活が続きます。 多くの入植者が、この地を去りました。 そのような苦難を経て、明治42年に始まった耕地整理は、最も先進的とされて、 多くの名士が視察にやって来るほどに至ります。 その一人が、農業博士でもあった新渡戸稲造(にとべいなぞう)さんであり、 その写真が神野新田資料館に今日も残されています。 ここで着目したいのは、この神野新田は、国家のプロジェクトではないことです。 一民間人の責任のもとで事業を起こして成功させたのです。 ここに大きな意義とわが故郷の誇りがあります。 神野金之助さんを大叔父とするのが、豊橋の財界で活躍するSALAグループの相談役である神野信郎(のぶお)さんであり、 その精神を今日も脈々と受け継いでおられます。 わが故郷に流れる、国家に頼らず個人の責任で事業に取り組む独立の気風は、 この新田にこそ源流があるのです。

平成24年水無月



子のさちを 背後で祈る ハナミズキ


ここ豊橋の街中では、街路樹のハナミズキが美しく花を咲かせています。 もともと、このハナミズキは、1912年に東京市の尾崎行雄市長がワシントンD.C.に桜を贈った返礼として、 アメリカからやって来たと言われています。 その意味では、太平洋の架け橋となった花のようです。 開国前の江戸時代末期、そのアメリカ大陸に漂着したのが、小野浦(おのうら 現在の愛知県美浜市)出身の音吉(おときち)でした。 故国に帰ろうとして、アメリカの商船モリソン号に搭乗して、神奈川県の浦賀に入港しようとします。 しかし、異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)のもとで、砲撃を浴びてしまいます。 帰国はかないません。それからの音吉は、自分が捨て石になること覚悟したようです。 英語を身に付けていた彼は、自分と同じような漂流者を助ける働きに目覚めます。 開国の立役者であるアメリカのマシュー・ペリーが同行させた通訳者に日本語を指導したのは彼であったと言われます。 そして、英国海軍の通訳者として浦賀の地に足を踏み入れています。 しかし、その時は、自分の身を明かさず、故国を離れます。 自分の故郷近くの海を船で通った時に、何を思ったことでしょうか。 その後も、日英和親条約を締結する際にも、通訳者として長崎に。 その時も、故郷に戻ろうとはしません。 開国の後には、幕府の遣欧使節団であった福沢諭吉や森山栄之助にシンガポールで会い、 国際状況などを詳しく伝えて助言したと言われています。 日本が欧米諸国と対等な関係を築いていく上では、大きな役割を果たしたと言えます。 しかし、この世界では忘れられた存在となり、故郷に帰ることすらできませんでした。

そんな音吉の祈りであるかのように聞こえたのが、塾の後輩で台湾出身の一青 窈(ひととよう)さんが歌う「ハナミズキ」でした。 この歌は、アメリカの同時多発テロを通じて生まれたとのこと。 その歌詞は、平和な世界を願っていた音吉の祈りに聞こえてしまうのです。 当時の利害が絡む複雑な国際情勢の中で、故国の母に会う事を何よりも願っていたことでしょう。 五月晴れの同じ空のもとに母はいるはず。 水際まで来ているのに、会いたいけども会えない。 もし、会ってしまったら、助かる人が助からない。 夏の暑さのような重苦しい気持ちを背負いながらも、じっと耐える。 その重さは、自分の責任かもしれない。 蝶々を追った少年時代のことを思い出しながら、せめて母には自分のことを伝えたい。 異国の地で知った母の日。そして、青空のもとで美しく咲くハナミズキ。 子供たちには、夢をかなえて欲しい。母の日には思いを伝えて欲しい。 自分のことは知られなくても良い。 しかし、最後は、この我慢のゆえに実が結ばれて欲しい。 将来の子供たちが、自分の運命とは違って、生涯ずっと百年間、愛し合えるようになって欲しい。 時に、ハナミズキの花は、欧米で十字架に例えられることがあります。 ちょうどその花びらの先端が、十字架刑の釘跡であるかのように、茶褐色に染まっています。 日本で初めて聖書を翻訳することにも関わった音吉には、信仰があったと思われます。 そして、ハナミズキの花が、音吉を慰めてくれたことでしょう。 宮沢賢治の詩を思い出します。 「ホメラレモセズ、クニモサレズ、サウイフモノニ、ワタシハナリタイ」 人知れず黙って咲いているハナミズキを見つめていると、覚悟であり責任であり使命と言った、 この時代を生きる手がかりが聞こえて来るようです。

平成24年皐月



大崎の 空駆け巡る さくらかな


わが故郷には、海軍の航空基地がありました。 三河湾を埋め立て八角形の人工島「大崎島」が造成されます。 この大崎島に、三本の滑走路をもつ飛行場とその関連施設が戦争末期に急遽作られたのです。 わが故郷は、気候的にも地形的にも飛行機が離着陸しやすい。 ちょうど日本の真ん中に位置して海上輸送がしやすい。 しかも、航空機関連の産業が近隣にあり部品を調達しやすい。 このわが故郷に白羽の矢が立ち、海軍最後の大基地が作られて、昭和18年4月1日には豊橋海軍航空隊が開隊しました。 主に若き操縦者を養成する練習部隊だったようです。 この基地と縁のある一人が、坂井三郎さんです。 坂井さんは「大空のサムライ」を上梓しましたが、二百回以上の空戦で敵機を撃墜してきたエースパイロット。 その坂井さんの所属していた台南(たいなん)海軍航空隊は、ガダルカナル島で激戦を交えた後に一時日本に帰還します。 その帰還先が、豊橋のこの基地だったのです。 ここで部隊を再編成して再度敵地に向かう備えをします。 一方、坂井さんは、ガダルカナル島での激闘の末に、一命は取りとめたものの、 パイロットには致命傷である片目を負傷して、一足早く戦地から九州の実家に戻っていました。 そこに仲間からの手紙が届きます。 自分の部隊が豊橋にいることを知ると、単身で豊橋へ。 そこで、仲間との劇的な再会を果たします。 もちろん、再度仲間たちと敵地に飛んで行く覚悟だったのです。 ところが、軍医長の診断で、それを果たせず、悲痛な思いで豊橋を去るのです。

やがて、豊橋海軍航空隊は七〇一海軍航空隊と改称して練習航空隊から戦闘部隊となります。 昭和19年10月には、最初の神風特攻隊に加わり、フィリピンのレイテ湾に突入します。 昭和20年3月には、再び特攻隊出動命令が下ります。この時は、幸い作戦が途中変更されます。 また、豊橋の空で訓練された搭乗員たちは、各地の航空隊にも送り出されます。 そこから出撃して、大空に散った若い命は数知れないでしょう。 そして、終戦の日。最後の特攻隊となって沖縄の米軍基地に突入しようとした戦闘機がありました。 それは、七〇一海軍航空隊の中津留(なかつる)達雄大尉が操縦して、 宇垣纏(まとめ)中将が同乗した戦闘機他十機でした。 宇垣中将は、終戦を知りつつも、決死の覚悟で特攻命令を出します。 しかし、突入したのは、米軍基地を避けて崖であったと言われています。 憶測に過ぎませんが、終戦後の攻撃に疑問を抱いた中津留大尉が、 独断で明日の日本を守ろうとしたのかもしれません。 あるいは、宇垣中将が、最後の最後に翻意して、そのような命令を下したのかもしれません。 そこには、死を覚悟して、ぎりぎりまで考え抜いて、日本を守ろうとした決断があったと思われます。 その最後の特攻隊員が、豊橋の空を飛んでいた中津留大尉であったのです。 享年二十三で新婚の奥様と生まれたばかりの娘さんがいたそうです。 さて、歳月を重ねて、その基地は跡形もなく、今日は工場団地となっています。 トラックが間断なく行き交う中に、当時の面影を残す交差点標識がありました。 そこには、「海軍橋」と記されています。 それがなぜ海軍橋であるのか、知ろうとする人はほとんどいません。 ただ、この交差点近くにある百三十年以上の歴史をもつ大崎小学校では、 ちょうど桜が開花する時季を迎えています。 その桜は、当時もそこにあったのでしょうか。 花盛りの命が大空に散ったことを深く心に刻んでいるかのように、今年も美しく花を咲かせています。

平成24年卯月



つくし出(い)で 弦斎(げんさい)本を そばに置く


三寒四温を重ねて、しだいしだいに春の到来を感じる今日この頃です。 店舗近くを流れる豊川(とよがわ)の土手には、土筆(つくし)がひょっこりと顔を出して参ります。 春の息吹を感じるこの季節は、新しいことに挑戦する意欲もふつふつと湧いて来ます。 幸いに、美味しい食材もしだいしだいに増えて参ります。 この土筆さえも食べることができる。 やはり春は、お料理に取り組むには相応しい季節なのでしょう。 その時、そばに置いて役立つのが料理本です。 このお料理本の先駆けと言えば、わが故郷の村井弦斎が書いた「食道楽(しょくどうらく)」。 明治36年に報知新聞で新聞小説として一年間連載されて好評を博します。 春夏秋冬の四巻の単行本として刊行されると、軽く十万部は売れてしまったそうです。 今日でも岩波文庫で読むことができます。 小説のストーリーが展開される中で、並行して料理のレシピを折り込んでいく独特のスタイルをとります。 その料理のレシピは六百三十種に及びます。 ストーリーを楽しみながら、料理を学ぶことができる。 しかも、単なるレシピにとどまらず、 食生活の重視、家計の中の食費の見直し、台所と台所道具の改善、料理と食事の合理性の追求、 栄養学・生理学・衛生学等の科学知識の重要性にまで至っています。 啓蒙的な要素も色濃く、料理小説あるいはグルメ小説と呼ばれるよりも、 むしろ実用小説あるいは教訓小説と呼んだ方が相応しいでしょう。

そして、弦斎と言えば、今日叫ばれる「食育」という言葉を普及させた先駆者でもありました。 食道楽には以下のようなくだりがあります。 「今の世は頗(すこぶ)りに体育論と智育論との争そひがあるけれども、それは程と加減に依るので、 智育と体育と徳育の三つは、蛋白質と脂肪と澱粉の様に程や加減を測つて配合しなければならん、 然(しか)し先ず智育よりも体育よりも一番大切な食育の事を研究しないのは迂闊(うかつ)の至りだ、(中略) 体育の根源も食物にあるし、智育の根源も食物にある、して見ると体育よりも智育よりも 食育が大切ではないかとよく爾(しこ)う申します。」 当社の掲げる「お料理上手は、幸せ上手」という文章と通じるところがあります。 すなわち、弦斎の精神は、わが故郷において脈々と今日まで流れ続けてきたのです。 当社フライパン倶楽部が、わが故郷で生まれたのも必然であったようにも思えて参ります。 私の仕事も、弦斎と同じことをしているような錯覚すら覚えてしまいます。 このように、わが故郷の歴史や先人たちをたどっていくと、今自分が何をなすべきかが見えて来るようです。 フライパン倶楽部も、大先輩の弦斎に負けぬように仕事に励んで参りたいです。 また、この弦斎の功績に、わが故郷でいち早く目を留めたのが、 ボレロ吾妻家(あずまや)さんでした。 当社実店舗からも徒歩で行けるフランス料理のレストランです。 吾妻家さんでは、この弦斎が食道楽で紹介したレシピ通りに作った「弦斎カレー」を今日も提供しています。 地元の三河鶏が入ったチキンカレーです。当社ご来店の際には、こちらの「弦斎カレー」はいかがでしょうか。 あるいは、この春、弦斎本を片手に、お料理に挑んでみてはいかがでしょうか。

平成24年弥生



なさけうけ 蚕都(さんと)栄える 春を待つ


わが故郷には、こよなく愛されている一人の女性がいます。 小渕志ち(おぶちしち)さんは、もともと群馬県富士見村(現在は前橋市)の出身。 ところが、そのご主人には酒乱があり、度重なる暴力を振るわれます。 結婚生活4年間で3度の流産にあい、稼いだお金はすべて酒代に。 そして、ようやく授かった子供は盲目。 人生の嵐が吹きまくり、小渕さんは絶望の淵に立たされます。 そんな時、小渕さんを助ける人が現れました。それが、中島徳次郎さん。 その二人の逃亡先が、わが故郷の二川という宿場町だったのです。 小渕さんには、蚕の繭から糸を引きだす座繰(ざくり)の技術があり、それを街の人に教えていました。 ところが、当時コレラという伝染病が流行したため、戸籍のない人の居住は許されません。 すると、事情を理解した奇特な住職さんが、偽の戸籍を作って二人を助けます。 しかし、それが発覚。 徳次郎さんと住職さんは罪を問われて刑務所に。 病弱だった住職さんは釈放されますが、それが原因で亡くなります。 その知らせを聞いた徳次郎さんは、刑務所で絶食を敢行。やがて事切れます。 それが、徳次郎さんの責任のとり方だったのでしょう。 残された小渕さんは、そこでも悲しみに暮れることなく、 徳次郎さんの名前をとって、糸徳(いととく)製糸工場を、わが故郷に建て上げるのです。 当時、一つの繭に二匹の蚕が入ってしまう玉繭が、全体の2割ほどを占めていました。 ところが、この玉繭には商品価値がない。 小渕さんは、この玉繭に目を留めて、品質の良い糸を取り出す方法を考案します。 そして、その方法を周囲の同業者にも伝授して組合を組織化するのです。 その結果、わが故郷の製糸業は、この組合を通じて、蚕都(さんと)豊橋として大いに栄えて行きます。

小渕さんは、多くの苦難をなめていましたので、人の痛みには極めて敏感だったのでしょう。 必然と従業員たちには、わが子のように慈愛深く振る舞いました。 理想的な女性経営者の先駆けは、すでに明治と大正時代、わが故郷に存在していたのです。 朝は一番に工場を見まわり、従業員と食事を共にしたそうです。 製糸業には、映画にもなった「ああ、野麦峠」のような女工哀史を想像しますが、 わが故郷では、和気あいあい史の様相でした。 さらに、小渕さんは、生きることは学ぶことであるとして、 従業員たちを対象とした青年学校を開きます。 また、その思いは後世まで受け継がれて、二川幼稚園が設立されて現在に至ります。 東京に地元出身の若者のための寮「糸徳学生寮」も建てられました。 そして、大正末期には千名が働く製糸工場に結実します。 その当時、生糸(きいと)の国内生産量は世界一となっており、外貨を稼ぐ重要な輸出産品として国を支えていたのです。 その功績が称えられて、日本人女性として初めて天皇陛下に個人拝謁する機会も得ました。 その時の記念写真には、トヨタ自動車グループの創始者である豊田佐吉氏と隣合わせとなっています。 さて、時は流れて今日も、わが故郷の岩屋山(いわやさん)の麓で、小渕さんの銅像が端正に座っています。 これは、従業員の集まりである糸徳会によって建てられたものです。 これらの従業員、そして、二川の住職さん、徳次郎さん、わが故郷の人たち・・・ そんな人たちの愛情が小渕さんを支えていたのでしょう。 人生の嵐が吹きまくるとも、その愛情を胸に、じっと耐えて、いつか来る春を待っていた小渕さん。 その姿が、この季節に開花する山茶花(さざんか)の花と重なりました。

平成24年如月



初春や さかなの文化 花盛り


年末年始に賑わいをみせるのが、実店舗近くの魚町(うおまち)界隈です。 豊橋駅前から東方向に伸びる通りを駅前大通りと呼び、オフィス街の中を市内電車が走ります。 その南にある通りが、実店舗のある広小路(ひろこうじ)通りで、商店街通りです。 さらに南にあるのが花園(はなぞの)通り。 由緒ある寺社や呉服店が立ち並ぶアンティークな通りです。 そして、さらに南に位置するのが、魚町通り。 16世紀の戦国時代にさかのぼりますが、織田信長と桶狭間で戦った今川義元が、 わが故郷を支配していた時代がありました。 この今川義元が、現在の魚町にある安海(やすみ)熊野神社境内に魚市場を開設します。 片浜十三里と呼ばれる伊良湖から浜名湖までの太平洋岸で取れた魚貝は、 ここでのみ売買されることになります。 やがて、徳川の時代にも引き継がれて今日にまで至るのですが、町名も魚町と呼ばれるようになります。 わが故郷の豊饒の海でとれた魚貝は、すべて魚町に集約されることになり、 そこに食文化が花開くのです。 そして、今日もその文化が継承されてきた老舗が、魚町には立ち並んでいるのです。 豊橋の豊かな食文化が薫る町でもあります。 是非、実店舗にお越しの節は、この魚町で美味しい食材とその薫りをご堪能下さい。 そこで、魚町の老舗をご紹介します。

まずは、魚町のシンボル的な存在である老舗、ヤマサのちくわさんです。 帰省をはじめ出入りのある年末年始に、豊橋人は、このちくわを手土産にします。 創業は江戸時代の1827年です。 そして、佃煮(つくだに)の濱金(はまきん)商店さん。 小魚などを甘辛に煮こんだ保存食で、わが故郷の佃煮は、三河佃煮とも呼ばれます。 地域の伝統食でもあり、この時期は、おせちの田作り等を作っています。 創業は1874年です。 また、今ではスーパーマーケットになりましたが、 豊橋人にとって愛着深いお店がサンヨネさん。 もともとは海産物問屋で、煮干しなどの乾物類は種類が豊富です。 最近リニュアルオープンして、店内は明るく広くなりました。 煮干しのみならず、魚貝をはじめ新鮮な食材を買い求めることができます。 創業は1892年です。 最後に、かつぶし屋まるぶん岩瀬商店さん。 只今若き店長が、伝統食の鰹節を意欲的に販売しています。 もっと手軽に鰹節を楽しんでもらいたいとの願いから、 上写真の鰹節せんべいを創作して只今売込中です。 その名も「かつぶし屋の踊り子」。岩瀬さんの創業は1910年です。 このように豊橋の魚町には、100年以上も続く老舗が集積しています。 当社もこれらのお店を下支える存在として今日に至ります。 このような魚を中心とする豊かな食文化は、わが故郷の誇りなのです。 

平成24年睦月



冬来ても あおあお茂る 母校の木


実店舗は、豊橋の松山小学校区にあります。 今年この松山小学校が創立100周年を迎えて、先月記念式典が行われました。 当社社長と私も卒業生です。 また、当店の創業も小学校の創立とほぼ同時期。 この校区でずっと商売をして来ましたので、松山小学校とともに歩んで来たとも言えます。 ちょうど、当社社長は校区自治会長、私の同級生がPTA会長と女性部長を務めていて、 数年前から何度も会合を重ねて当日を迎えました。 まず、記念講演でお呼びしたのが、戦場カメラマンの渡部陽一さん。 独特のゆっくりとした語り口で、戦場で生きる子供たちの現実を知ってもらいました。 この100年の歴史を振り返ると、戦争なしには語れず、校舎も戦災にあいました。 そこには、多くの犠牲と深い悲しみがありました。 この時代は、その歴史を心に刻んで、今日も戦争に苦しんでいる人たちに思いをいたす。 その時、この時代に戦争を知る渡部さんは貴重な存在です。 質疑応答の時間には、子供たちが積極的に質問していたようで、 子供たちにとっても、相応しい人選であったようです。 「国家百年の計は教育にあり」この百年続いてきた学校を通じて、わが街が 長期的な展望に立って教育に取組んで来たことも分かります。

また、子供たちに卒業してからも残るものをとの願いから、 記念モニュメントを制作しました。 これは、子供たちからアイデアを募ってデザインしたものを 親子共同でモザイクタイルで貼り合わせた作品です。 そこに図案化された一つは、ずっと子供たちを見守って来た校庭のくすのきです。 この寒い季節にも、くすのきは、青々と茂っています。 この木は、豊橋の木でもあり、当店実店舗がある建物キャンファータワーの名前の由来でもあります。 キャンファーとは、日本語に訳すと、くすのき。 この木は、しっかりと根を張り、年中葉を青々と茂らせているエバーグリーンです。 数年前に、わが街に潮風を含んだ台風が上陸して、けやきなどの街路樹は枯れてしまいました。 ところが、くすのきは、変わらず葉を茂らせていました。 くすのきは母校とお似合いです。 それを見て育ってきた私たちも、人生の嵐にも負けず、強く生きていけるのだと思います。 PTAの同級生たちが、受け身ではなく、主体的に関わって子供たちのために、母校のために、 地域のために汗を流している姿に、大変誇らしく思えました。 これも松山小学校の教育の賜物です。 これからも子供たちを街の宝として、母校とともに歩んで参ります。

平成23年師走



寒空に 豚まん蒸せば 湯気薫る


当社実店舗のお隣には、お料理教室があります。 豊橋ワンダーテーブルという教室名で、 主に地元の人に向けて、少人数でお料理作りを指導されています。 わが故郷は、豊かな食材に溢れていますが、意外と地元民はその事を知りません。 灯台もと暗しと言えるでしょうか。 素晴らしい食材を生かして、地元の人たちにお料理を楽しんでもらいたい。 ワンダーテーブルの若き経営者、岩本泰輔(たいすけ)さんは、そんな理想を胸に、志高く仕事をされています。 今回、岩本さんは、お料理教室とは別に、「豚まん」店をオープンしました。 店舗は、狭間(はざま)公園という街中の公園そばにあり、当店からも徒歩圏です。 もちろん、中に入っているお肉は、わが故郷の豚肉を使用しています。 ワンダーテーブルとコンセプトは同じ。 あつあつ、ほかほかの豚まんは、身も心も温めてくれます。 11月11日は、豚の鼻の穴にちなんで、豚まんの日とする動きもあるようです。 ちょうど、今月は、豚まんが一番美味しく感じられる季節となります。 先月、私の子供が通う地元中学校でバザーがあり、地元企業に協賛のお願いに廻りました。 その時に、わが故郷は、食材を扱う企業が多いところだと再認識。 肉まんアンまんという中華まんでお馴染の井村屋さんをご存知でしょうか。 本社は三重県津市ですが、グループ会社の日本フードさんが、わが故郷にあります。 地元中学校のためにと、チルド食品の肉まんアンまんを沢山いただきました。

コンビニ店でも、今では通年定番品となり、電気の蒸し器で販売されています。 それでも、美味しさが一番感じられるのは、この季節でしょう。 ただ、残念に思う事が一つあります。 それは、チルド食品のパッケージを見ると、肉まんアンまん=電子レンジでの調理を想定しているかのようです。 蒸し器で蒸すことが推奨はされていません。 やはり、これらの中華まんは、蒸し器で加熱するのが相応しい。 できれば蒸篭(せいろ)などの木製品を使って、適度に吸水させながら調理するのが、 ふっくらと綺麗に仕上がるのです。 電子レンジでは、一時的にふっくらしますが、時間が経つと硬まってしまう。 これは、饅頭の主成分であるデンプンの状態が混在してしまうことが一因のようです。 電子レンジは、加熱むらができる。 デンプンは、加熱されると粘りが出ます。 それが、加熱むらによって、粘りのあるものと、粘りのないものが混ざる状態になる。 すると、砂利とセメントのように作用して、お互いに粘着して硬まってしまうのです。 かたや、蒸し器での出来たての中華まんは、饅頭から薫りのある湯気がたちます。 この薫りこそ、美味しさの源であり、本来の中華まんではないでしょうか。 電子レンジの饅頭は、この薫りにも乏しい。 便利なこの時代、本物の味が失われています。 この季節、わが故郷の豚まんを、昔ながらの蒸篭(せいろ)で蒸せば、ワンダーテーブルとなることでしょう。

平成23年霜月



たなびく穂 いにしえのとき 駆け巡る


その昔、わが故郷の東三河は、穂国(ほのくに)と呼ばれていました。 岡崎市や豊田市のある西三河がもともと三河国(みかわのくに)と呼ばれ、 701年の大宝律令によって、穂国は三河国と統合されました。 ですから、わが故郷は、三河国よりも穂国という呼び名の方によりアイデンティティを感じるのかもしまれません。 ところで、この名前の由来は何か。 三河とは、一説には三川であり、男川(おとがわ)、矢作川(やはぎがわ)、豊川(とよがわ)の大きな川が三つあることが由来のようです。 そして、これも想像でしかありませんが、穂とは稲穂であり、稲作が盛んで実り豊かな土地であることゆえだった。 この季節、わが故郷の田んぼは、黄金色に輝いています。 この光景を見ると、穂国にうなずけます。 わが国では、弥生時代に稲作が定着したと言われます。 その当時の面影を残すのが、わが故郷にある瓜郷(うりごう)遺跡です。 瓜郷のあたりは、豊川河口に位置した湿地帯でした。 この豊川の水の恩恵、広がる平野、おだやかな気候などの地の利である好条件が重なります。 ここに大規模な集落が現れ、今日ではその遺跡に、復元した住居が建っています。 奈良県の唐古(からこ)遺跡、静岡県の登呂(とろ)遺跡と並んで、重要な低湿地遺跡として、国指定史跡ともなっています。 このように、わが故郷は、日本の伝統である稲作、 その象徴である稲穂の恵みをいただいて来たことが分かります。

大宝律令や大化の改新前の日本の姿は、まだ良く分かっていません。 そのため、穂国がどのような国であったのかは、これまた想像の世界です。 卑弥呼の邪馬台国とは、どのような関係にあったのか。あるいは、大和朝廷とは。 興味は尽きません。それでも、まだ産業のない時代であれば、今日以上に食物に大きく影響されていたと思われます。 そして、食物といえば、その時代から今日まで米であったことは確かです。 しかも、米は貯蔵ができて、富となる。すると富の収奪も始まります。 この稲穂の恵みによって、巨大な権力をもつ支配者が現れたようです。 その実像に、ある程度せまれるのが、権力者の墓である古墳。 豊橋北部にある石巻山(いしまきさん)の近くには、全長70メートルの前方後円墳である 馬越長火塚(まごしながひづか)古墳があります。 6世紀後半の古墳としては、東海地方では最大級と言われて、 穂国の首長のものではないかと考えられています。どんな首長であったのか。 そして、米はそのままでは、食べられません。加熱をする必要があります。 そこで、土器が生まれる。 やはり、わが故郷では、穂国のある当時から窯業が盛んで、土器等がいち早く作られて参りました。 それらは、首長の先見の明であったのか。 そんな穂国の末裔であるフライパン倶楽部だからこそ、 今日も美味しいご飯のご提案をしているのだと思います。

平成23年神無月



そよ風や 虫の音ひびき 眠り入る


豊橋の東部には、弓針(ゆみはり)山系と呼ばれる山々が連なっています。 この山系の北は新城市に及び、東は静岡県湖西市に至ります。 そこの湧き水から生まれたのが、葦毛(いもう)湿原です。 葦毛という地名は、源頼朝が愛馬を葬った地としての由来があるそうです。 この山を越えようとした頼朝の葦毛(あしげ)の馬が急死。 この地で手厚く葬ったと言われています。 葦毛を辞書で調べると、「馬の毛色の名。栗毛(くりげ)・青毛・鹿毛(かげ)の毛色に、 年齢につれて白い毛がまじってくるもの。」とあります。 その後、頼朝は鎌倉幕府を開き、上洛途上に再度この地を訪れます。 その愛馬のことが思い出されたのでしょうか。 馬具の鞍掛(くらかけ)を奉納して武運を祈ります。 そのため、この地にあった神社が、鞍掛神社と改名されて今日に至ります。 この季節、頼朝ゆかりの葦毛湿原で開花するのが白玉星草(しらたまほしくさ)です。 かすみ草のようなイメージと言えばよいでしょうか。 1cmに満たない丸い小さいな花を沢山咲かせます。 干草ではなく星草ですので、満天の星空を彷彿させたのでしょう。 とてもロマンティクな名前です。

想像の世界でしかありませんが、愛馬を亡くした頼朝は、 群生する白玉星草に誓いを新たにしたかもしれません。 「自分には、この愛馬だけではなく、あの花のように、沢山の愛すべき仲間たちがいる。 悲しみに暮れていてはならない。さあ、立ち上がろう。」 やがて、宿願を果たします。再度訪れた時には、白玉星草が祝福してくれたのかもしれません。 今では、この地は住宅地ともなり、この山系の端に位置する山の麓に、最近私も移り住んで来ました。 ご近所の方は、「ここは、豊橋の軽井沢」と表現していました。 残暑が厳しい折でも、エアコンは必要としません。 夜には、心地良い風が部屋に入って来ます。 そのたびに、カーテンがふわっふわっと膨らみます。 そんな風を感じながら枕元では、虫の音が美しく響いて来ます。 そして、いつしか眠りに入っているのです。 白玉星草は、心に平安を与えてくれるばかりか、暗い夜も寝ずの番をしてくれているようです。 私たちを静かに見守ってくれている。 この星草に、そよ風に、虫の音に、秋の到来を感じます。 はたと気が付きました。自然こそ、私たちに安眠を与えてくれます。

平成23年長月



夏休み ここにこ涼む こどもたち


「なでしこジャパン」の活躍に、わが故郷も活気づいています。 そして、「なでしこ効果」が、あちらこちらに表れています。 夏の高校野球愛知県予選で、三連覇を目指していた中京大中京高校に挑んだのが、 わが故郷の時習館(じしゅうかん)高校でした。 わが故郷の高校は、中京だけではなく、愛工大名電高校・東邦高校などを含めた 名古屋にある私立高校の壁をなかなか崩せないでいました。 しかも、中京は、一昨年の大会では全国制覇も果たしている強敵です。 優秀な選手が集まっています。施設グランドも完備されています。練習量も違います。 しかし、強敵アメリカを倒した「なでしこジャパン」の記憶が鮮明です。 やれば、できる。巧みなパス回しとチームワーク。 真っ向から勝負しても勝ち目はないでしょう。 そこで、全国レベルの速球打ちに標準を合わせている強敵に目を留めたようです。 緩い球でタイミングをずらして焦りを引き出す。 そして、何があってもあきらめない。 結果は、強敵の三連覇を阻み、時習館高校は大金星を勝ち取ります。 この勝利は、球児だけではなく、わが故郷にも明日への自信を与えてくれました。

子連れでご来店いただく方におすすめしているのが、 こども未来館「ここにこ」です。 豊橋市が運営していますので、無料ないし低料金でこどもたちが楽しめます。 この季節、冷房も完備されていますので、子供たちも涼みにやってきます。 暑い夏は、子供たちにとっての避暑スポットのようです。 当店からも徒歩10分程度で行けるところにあります。 来館者は、今年の4月で100万人を越えて、当初予想を2倍強上回るほどの人気を誇っています。 3周年を迎えた先月は、マラソンランナーの有森裕子(ありもりゆうこ)さんを招いてトークショーが行われました。 彼女もなでしこの一人であり、なでしこの先駆けのような存在です。 こどもたちに向けて、夢をあきらめない尊さを直接語りかけてくれたことでしょう。 こどもたちは、家族だけではなく、地域で育てる、故郷で育てるとも言えるでしょう。 あるいは、地域や故郷こそ、子供たちにとってのビックファミリーです。 わが故郷は、藩校だった時習館に始まり、子供たちの未来に投資するのが伝統かもしれません。 そして、こどもたちのために、しっかりと料理を作るのです。

平成23年葉月



碧き海 フェリーあと追う イルカたち


これは、今は亡き祖父から聞いた話です。 渥美半島先端の伊良湖岬から三重県の鳥羽まで、伊勢湾フェリーが毎日往復しています。 ちょうど、祖父たちが乗っていたフェリーの後から、イルカたちが追いかけてきたそうです。 その光景に、祖父はよほど感動したのでしょう。 何度もその思い出を私に語ってくれました。 フェリーから出てくる白波を受けながらも、イルカたちは元気に飛び跳ねて、 愛嬌のある顔を乗客たちに見せてくれたのでしょう。 イルカは、人間を癒してくれる何かをもった動物のようにも感じます。 今日でも、タイミングが良ければ、このフェリーからイルカたちを見ることができるそうです。 この伊勢湾の奥にあるのが、名古屋港水族館。 やはり、目玉はイルカのショー。 イルカは役者ですね。どのように訓練したら、あのような演技ができるのかと驚かされます。 一見の価値があるショーです。 それでも、野生のイルカに出会えるのは、また感動が違うでしょう。 一時は、存続を危ぶまれたこの伊勢湾フェリーですが、周辺自治体の協力で今なお運航しています。 車も運んでくれますので、関西方面から当社ご来店の方は、伊勢湾フェリー経由でお越しいただくのもおすすめです。 その時、イルカに出会えたらお知らせ下さい。

そして、当店からは、豊橋動植物公園いわゆる「のんほいパーク」に立ち寄れます。 この季節ですと、極地動物館がおすすめです。 北極クマが、ダイビングで餌を捕獲するダイナミックな姿を、間近に見ることができます。 実は、北海道の旭山動物園は、この極地動物館をお手本に、評判となる動物展示をはじめたのだそうです。 私の娘が園児だったころ、それを見て大泣きしたのが懐かしい思い出です。 そばで見ていた私も一瞬恐怖を感じた程です。 餌を与える時間は決まっていますので、事前にチェックしておくと良いでしょう。 そして、この極地動物館の入口でお出迎えしてくれるのが、ペンギンたちです。 この暑さでも、暑さに負けずに、生き生きとしています。 こちらのペンギンたちは、大人なら触れることもできてしまう展示です。 しかも、水中はガラス越しに、ペンギンの泳ぎ方をじっくり観察できます。 やはり、彼らもイルカのように愛らしい表情をしています。 そこで、思い出したのが、実店舗で販売している「ペンギンスクレーパー」です。 こちらは、カレーなどのべたついた汚れをさっと拭き取る道具です。 洗剤で洗う前に、こちらで汚れを事前に取り除いておけば、お手入れが格段に楽になります。 この季節、ご来店にあわせて、愉快な動物たちをお楽しみ下さい。

平成23年文月



南風(はえ)吹かば むらさき舞える 花菖蒲


わが故郷には、北に賀茂の菖蒲(しょうぶ)園があり、南に大清水の菖蒲園があります。 私の母校である愛知県立豊橋南高等学校は、その大清水に立地して、校章は野花菖蒲が意匠化されています。 野花菖蒲は、園芸種である花菖蒲の原種となります。 この時期、紫の花弁を垂らして、気品ある花を咲かせます。 花に加えて、すらっと立つ姿にも美しさを感じます。 それは、人で言えば、顔立ちではなく、姿勢や振る舞いの美しさにあたるでしょうか。 決して華美ではなく、地味ではあるのですが、奥ゆかしい和の美しさ、日本の伝統美を感じさせます。 「和をもって貴しとなす」を明文化した聖徳太子の冠位十二階の最高位も紫色でした。 同様に、わが野花菖蒲の校章も、そこに和の意味も込められています。 校章は、3つの花弁が広がっているのですが、それは鼎(かなえ)を表しています。 鼎とは、古代中国の金属製の器で、脚が3つ付いています。 この3つが、協力や安定を表しているのです。 協力の協という漢字の作りも、力を3つ書くのも興味深い。 ちょうど、母校も創立40周年を迎えて、今月記念事業が行われます。 この野花菖蒲のもとに、同窓生たちが力を合わせて一つになる。 それは、明日への道標でもあります。

鼎(かなえ)とは、3つの脚があることによって、そこに高さが生じるため、火を焚くことができる構造になっています。 その結果、美味しい料理が出来上がります。 この3つの脚が向かいあって立っていることに着目して、鼎談(ていだん)という言葉が生まれます。 それは、三者が向かい合って会談することです。 これからの時代も、メーカーと小売店と消費者の三者が話し合い、 良い関係を作り、互いに協力していく必要があるでしょう。 先見性のある近江商人は、その昔から「三方よし」ということを掲げていました。 こちらは、売り手よし、買い手よし、世間よしです。 一部の人だけが喜ぶのではなく、みんなが喜んでこそ本来の商売があります。 それは、持続可能であり、末永く続くものでしょう。 かたや、価格競争などは、偏った一過性のものであり、本来の商売とは程遠いものです。 われら故郷は、三州三河とも呼ばれ、この三の伝統を継承しています。 それは、古くは徳川家康と三河武士の主従関係、世界のトヨタで花開く労使関係に表れます。 これらは、みなの協力、三の賜物と言えましょう。 実店舗でも販売されている、三角形のシリコーングリップは、わが故郷を代弁してくれているようです。 三のあるところ、花開く。 わが母校の敷地内にも野花菖蒲園がありますが、周年を祝福するかのように今年も見ごろを迎えます。

平成23年水無月



ふるさとの ウズラが浮かぶ カレーうどん


最近、ご来店いただくお客様は、豊橋カレーうどんもお目当ての方が増えています。 ご存知でしょうか。豊橋カレーうどん。 此処豊橋は、うどん店が多い土地柄です。 しかも、自家製麺を使っている割合も高いのだそうです。 そこで、ちょうど1年前に豊橋の観光コンベンション協会が、 地域おこしの一環として、豊橋カレーうどんを企画しました。 5つの条件があります。 1、自家製麺を使用する 2、器の底から、ごはん・とろろ・カレーうどんの順に入れる 3、豊橋産のウズラ卵を使用する 4、福神漬又は壺漬・紅しょうがを添える 5、愛情を持って作る  以上の5つの条件を満たせば、味付けや盛り付けなどはお店独自のアレンジができます。 底には、とろろごはんもありますので、かなりのボリュームとなります。 もちろん、味は一律ではなく、各店で違います。 現在47のうどん店が参加していますので、47の個性豊かなカレーうどんが楽しめるのです。 豊橋カレーうどんとは言え、皆違うのです。そこが、魅力でもあります。 平均単価は、800円前後です。 わが故郷も、周りの山々の若葉が萌えはじめ、街路樹の新緑がキラキラと輝いています。 そこに流れる爽やかな風を浴びて食べるカレーうどんは、また味わい深いものがあるでしょう。

豊橋カレーうどんの特徴の一つは、必ず豊橋産のウズラ卵が入っていることです。 カレーの中に、小さな茹で卵が、ぷかぷかと2つ3つ浮かんでいます。 お店によっては、この卵を串揚げに、煮卵に、目玉焼きにと、さまざまなバリエーションが楽しめます。 何かと便利な小さなウズラの卵。特に、わが故郷では、ザルそばの薬味としても愛されています。 ただ、割る時には、内部の皮が厚めで、意外と割りにくく、手を汚してしまいやすい。 そこで、道具が重宝します。 当社の近くのお店では、ザルそばを注文すると、その道具も一緒に付いて来ます。 それが、ウズラ卵割り器プッチです。 はさみを握る感覚で、手を汚さずに手軽にウズラの卵を割ることができます。 このように、わが国では、その食材のあるところに、いろんな道具を作って参りました。 食材が豊富な国ですから、お料理の道具も必然と多くなります。 このような細々とした道具が、当社の実店舗でも、少なからず棚に並んでいます。 「この道具は何に使うのか?」クイズにすると結構盛り上がります。 答えを知ると、なるほどとうなずけるからです。 当社の実店舗で、そんな話のタネを仕入れていただければとも思います。 そして、豊橋カレーうどんもご一緒に。

平成23年皐月



為せば成る 為さねば成らぬ 何事も


震災前の穏やかな日に、長女の卒業式が地元の中学校でありました。 校長先生は、式辞で校訓の言葉を贈っていました。 「為(な)せば成る」 もともとは、東北は米沢藩主の上杉鷹山(ようざん)が心得としていた言葉です。 すなわち、「為せば成る。為さねば成らぬ何事も。成らぬは人の為さぬなりけり。」 その言葉が、妙に心に留まりました。 そして、時を経ずして、あの震災が日本を襲います。 もはや、悲嘆に暮れてはなりません。 ふと明日の復興を見据えた時に、この言葉は天よりの声だったように思えて参りました。 為すとは、誰が為すのか。そこが根幹要諦です。 日本国政府でしょうか。役人でしょうか。ボランティアの人々でしょうか。 ましてや、米国人でしょうか。 どれもこれも正しい答えではありません。 それは、私自身なのです。日本語の言葉には、往々にして主語が省略されます。 そこに気をつけなければなりません。 この言葉は、人任せにはせず、自分で事を成すという主体性、個人の強い意志を表しているのだと思うのです。 昭和の時代、あの悲惨な戦災復興を成し遂げた立役者も、実はこの言葉であったのかもしれません。

年度が変われば、もはや心を暗くしている場合ではありません。 意識的にも心を明るくする努力をして行くべきでしょう。 ちょうど桜も花開いています。 また、違った意味で、今年は花見を楽しめます。 飲んだり騒いだりではなく、本来の花見が心静かにできるのです。 きっと花は、大切な何かを語りかけてくれるでしょう。 その時、曲げわっぱのお弁当箱が優しく見守ってくれるようです。 被災地でもある秋田の大館工芸社さんの商品。商品というより作品のようです。 先日メールをいただきました。 「お陰様で、秋田は電気・水・電話が復旧し、弊社従業員元気に業務を行っております。」 昭和の戦災とは違い、今回の被災地は限定的になっています。 関東より西は、東の分を補うべく奮起すべし。 与えることができるのは、助けるためなのだと。 さあ、外に出かけよう。働こう。遊ぼう。買物しよう。食べよう。 すると、経済活動は循環して、多くの人たちを助けることができるのです。 そして、桜の木の下で、曲げわっぱを片手に静かに思う。 不思議と桜は、われら日本人の心を優しく慰めてくれます。

平成23年卯月



ゆらゆらと キャベツ積んで 春来たる


ご近所の農家の方が、「これ今収穫して来たキャベツです。食べて下さい。」 威風堂々とした立派なキャベツで、その方の真心のようなものが伝わって来ました。 この季節、わが故郷では、春キャベツの収穫の光景をあちらこちらで見ることができます。 畑の中に、大きなテーブルがあり、それにキャベツが積まれています。 機械の姿はなく、手作業で、ひとつひとつを切っては運んで、切っては運んで、積んで行く。 それをまた、車に積んで行きます。 この地道な作業の中には、農家の方々の手を感じます。 手には魅力がありますね。何度も、この手の中に包まれます。 この手を通じて、ひとつひとつに愛情がこもるようです。 いつしか、キャベツが愛情の塊のように見えて来ます。 すると、このキャベツを積んだ軽トラックが、あちらこちらに出没します。 まだ冷たい風を受けて、ゆっくりと走っています。 こののどかな光景に、春の到来を感じるのです。 このキャベツが、もしかしたら、このページを読んでいる皆さんの家庭に今夕届けられているのかもしれません。 わが故郷にとって、まず春を告げる使者は、このキャベツを運ぶ車なのです。

まだまだ寒さの残るこの季節は、鍋料理を食べおさめる時期なのかもしれません。 お鍋を囲んで、家族と過ごす。 昔は、囲炉裏があり、その真中には、田舎鍋がありました。 このスタイルこそ、わが国の伝統。 出来たてほやほやの料理を、みんなで一緒に食べる。 しかも、それで暖をとれますから、一石二鳥です。 今でこそ、住環境の変化で、囲炉裏は消えてしまいましたが、 それに代わるものが、卓上ガスコンロだと思います。いつしか、電磁調理器(IH)等が登場して、ガスの炎が忘れられてしまいそうです。 やはり、あの青い炎には、魅力があります。 見ているだけで、引きこまれる何かがあります。 そして、お料理とは、つきつめれば加熱です。そして、そこには炎があったのです。 ですから、お鍋も大切ですが、炎を生みだすコンロも見直してみたいです。 今冬、この卓上コンロメーカーのイワタニ産業さんから新商品がでました。 アモルフォ・プレミアムです。 このコンロに載せると、やはりお鍋が引き立ちます。 匠の技を随所に感じられる逸品です。 このアモルフォが、今冬から店頭にも並んで、ご来店をお待ちしています。

平成23年弥生



災害に 農家の労苦 しのばれる


わが故郷は、鳥インフルエンザの渦中。いち早くの終息を祈っています。 改めて分かることは、多くの野鳥たちが、わが故郷には飛来します。 この時期、近くの川や池で、カモたちが羽を休めています。 インフルエンザはいざ知らず、鳥たちにとっても、わが故郷は居心地が良いのでしょう。 なぜか。水が豊かであり、温暖であり、外敵も少ない。 食べ物も豊かであるばかりか、美味しい。 そこにいる人間も、きっと親切で穏やかなのかもしれません。 正直な鳥たちに選んでもらった土地なのだと自負したいと思います。 それにしても、何万羽の鶏が一度に殺処分されることは、 農家にとっては経済的にも精神的にも大きな痛手です。 かたや、鶏卵を今日まで提供し続けてくれているご苦労を思うことができます。 鶏卵は物価の優等生。ずっと価格は安定しています。農家の皆さんの良心が伝わって参ります。 そして、毎日の食卓に美味しさを与え続けてくれている。 フライパン倶楽部のフライパンにとっても、鶏卵はなくてはならぬもの。 農家の皆さんのご苦労があって、フライパンの活躍の場があります。 改めて感謝申し上げます。

寒さが深まるこの時期は、小さな春の訪れを感じる時期でもあります。 しっかりと栄養をとって、春に備えたいと思います。 そんな時には、長谷園さんのロースト名人が活躍します。 やはり、店舗で購入されたお客様が、「お肉を入れておくだけで、とっても美味しくできる。」 加熱講座を通じて、この構造なら、遠赤外線の効果が期待できて、美味しく調理ができると分かります。 ピザなどで使われる石窯に近い状態になるのです。 鍋底に金網を敷けるので、油も落とせるようになっています。 焼き芋も、甘みが出て美味しくできるでしょう。 また、長谷園さんの丁寧な作り、良質な土から醸し出される質感、鍋のデザインなど魅力的です。 このお鍋の風格からして、お料理も美味しくなるでしょう。 鳥インフルエンザの風評に負けじと、ローストチキンもおすすめです。 このロースト名人が、春を予感しながら、ご来店をお待ちしています。

平成23年如月



2011年「真っ当な商売」をめざして


明けましておめでとうございます。 新しい年を迎えて、一小売店として思いを新たにしています。 小売店には、冷たい北風が吹きすさぶ厳しい現実があります。 どこでも、セールセールの連呼で、販売価格はいよいよ落ち込んでいます。 デフレ社会と呼ばれて久しいですが、商品単価があまりにも下落して、利益も薄い。 これでは小売店の明日はありません。 この惨状をもたらしたのが、節度なき価格競争だと自らを戒めています。 切磋琢磨でお互いを磨くのではなく、お互いの身を削っている。 本来の競争とは、健全な競争であり、単に価格だけの競争でありません。 小売店は、もっと商品について勉強するべきであり、 その商品についての誇り高きプロになるべきです。 いま小売店には、プロがいるのでしょうか。 その現実を受け入れて、謙虚に反省して参りたいです。

そして、新年に向けての合言葉は、「真っ当な商売」です。 それは、適正な価格で販売して、きちんと利益をいただくことです。 そのために、当社では、専門知識に裏打ちされた確かな情報を分かりやすく提供して参ります。 その結果、お蔵入りしてしまう無駄な買物ではなく、末永くご愛用いただける確かな買物をしていただきます。 使い方からお手入れまで、きちんとご理解いただき、単に商品が揃うことではなく、商品を使いこなしていただきます。 それは、お料理そのものを楽しんでいただくことでもあります。 その結果は、伝統ある日本の食文化が次代に継承されています。 このような「真っ当な商売」が、長い目で見れば、生活者にとってもメリットになり、 明日の物づくりも確かなものとしてくれると信じます。 生活者のみならず、メーカーにも、小売店にもメリットがある。 この三者が喜ぶこ商売こそ「真っ当な商売」です。 そのためには、関係する皆様との信頼関係は欠かせません。 どうぞ、本年もよろしくお願いいたします。

平成23年睦月





寒風や かいなの中で 死線越ゆ


降誕祭を迎える此の季節、日の入りは早く、夜は長くなります。 しかし、街は暗くなるのではなく、かえって明るくなります。 当社のある駅前商店街周辺では、青い光のイルミネーションが輝きを放っています。 北風が吹きつける中で、学生たちが、大きな鍋を前にして「歳末助け合い運動にご協力下さい。」と街ゆく人に声をかけています。 同じく、近くの「ラグーナ蒲郡」というレジャー施設でも、観覧車を中心に闇夜を明るく照らしています。 ここには、子どもたちが楽しめるテーマパークあり、ショッピングモールあり、全寮制の「海洋学園」なる中高一貫の学校もあるのです。 この学園は、イギリスのパブリックスクールである名門イートン校をモデルとし、 JR東海やトヨタ自動車などの民間資本をバックに運営されています。 まだ、卒業生がいない新設校でもありますが、将来日本のリーダーとなる人材が現在進行形で育成されています。 これらが三河湾の海沿いに広がり、その小高いところをJR東海道本線や新幹線が走ります。 海に夕日が沈んだら、ラグーナのイルミネーションを車窓から楽しむこともできます。

今から約百年ほど前に、豊橋を訪れた十九才の少年が病に倒れます。 危篤状態に陥り、周囲の人たちは、葬儀の準備までしたそうです。 ところが、奇跡的に病状が回復。 そこで、蒲郡の海岸近くにあった漁師の家を借りて、しばらく療養をします。 そこは、畳みもない狭い家だったそうです。 当時、結核という病気には、感染を恐れて人は近づきません。 蓆(むしろ)の上で、ひとり横たわります。 蒲郡は温かな土地柄とは言え、冬にもなれば、寒さが身に沁みるでしょう。 しかも、妾(めかけ)の子という事情もあり、家族の助けもありません。 先行きの見えない彼の心には、寒風が吹きすさび、生きる力を失いかけていたことでしょう。 そんな時に、「コンニチワ!」と優しく微笑む宣教師が訪れます。 なんと、結核をもつ彼に添い寝して、2日間体を温めてあげた。 彼は、その温かさに、心打たれます。 そして、大正年間にベストセラーとなる自伝的小説「死線を越えて」を書き始めるのです。 まさしく死線を越えた彼は、その後わが身を忘れて、神戸の貧民街に入って活動を始めます。 やがて今日の生活協同組合(生協)を創設するなど、戦中・戦後の時代に大いに活躍します。 時を越えて今年、「賀川豊彦(かがわとよひこ) 蒲郡療養地記念碑」が立ちました。 あの寒い夜、彼を抱き締めた宣教師の愛こそ、闇夜を照らす光だったのです。

平成22年師走





枯れ葉舞う 軍靴(ぐんか)響ける 夢の跡


わが故郷は、軍都とも呼ばれ、その名残を街のところどころに見ることができます。 私の中学校時代の校長であった兵東政夫(ひょうどうまさお)先生が、召される直前に「軍都豊橋」を上梓しました。 そのタイミングを考えると、それを書き残すことは、ご自分の使命であったかのようです。 そして、それは、先生からのわれら世代への遺言だったように思えてしまいます。 決して戦争を肯定するものではありませんが、 われら世代は、このことに無知であり過ぎると反省いたします。 そこには、国のために、家族のために、わが身を投げ出した人たちの尊い生き様がありました。 それらの犠牲の上に、今日の私たちがある。 そんな人たちのことを忘れて、その後の豊かさを享受している私たちが、時に申し訳なく、時に情けなく感じます。 今この時代に必要とされているのは、彼らが示してくれた、 「自分たちの国は自分たちで守る」という責任や気概ではないかと思えてくるのです。 陸軍歩兵第十八連隊のあった豊橋公園の入口には、見張りをするために詰めていた哨所(しょうしょ)が当時のままで残っています。 この季節、哨所周辺では、寂しく枯れ葉が舞っています。 偉大な人たちは、決して声高に自分のことを誇示しません。 ひっそりと目立たないところで生きていました。

陸軍歩兵第十八連隊をご存じでしょうか。 戦争末期に、サイパンに派遣されます。 日本軍がこの島を失ってしまえば、敵軍は日本本土に空襲することができる。 その最後の砦を守ろうと、懸命に戦ったのです。 昭和19年7月7日、サイパンは敵軍の手に陥ります。 それでも、生き残った第十八連隊の大場栄(おおばさかえ)大尉指揮下の部隊は、 タッポーチョ山を拠点に、ゲリラ戦で戦いを継続します。 その数は、四十七人と言いますから、忠臣蔵の赤穂四十七士を彷彿させます。 終戦を迎えても、なお抵抗は続きます。そして、ようやく上官の命令書を手にして、投降に至るのです。 それが、昭和20年12月1日ですから、陥落後512日間も戦い抜いた。 しかも、その前日には、髭をそり身なりを整え、亡くなった戦友たちを弔う式を敢行します。 そして、投降する当日。日章旗を高々と掲げ、軍歌を歌いながら整然と山を下ります。 大場大尉の軍刀が、敵軍の前に、厳かに捧げられる。 彼らに散々悩まされた米軍は、「敵ながら天晴れ」と涙を流すのです。 戦後、大場さんは語っています。「玉砕で死ぬべきところを生き残ったことについて、 果たして正しかっただろうかという思いがつねにあった。」 来春には、大場さんを主人公にした「太平洋の奇跡」が映画上映されます。 その生き様が公になるのは、大場さんの本望ではないのかもしれません。 しかし、それ以上に、われら世代が目覚めることを願っておられることでしょう。

平成22年霜月



秋風に みなの作品 笑ってる


今年の猛暑を体験すると、ひときわ秋の訪れに心が躍ります。 これほど秋が待ち遠しく、愛(いと)おしく思われたのは初めてのことかもしれません。 秋という季節そのものに感謝が沸き、しかも収穫の時季とも重なって、感謝が大きく膨らみます。 ココ豊橋でも、この感謝が一杯になった時に、「豊橋まつり」が行われます。 その恒例の行事に、「子ども造形パラダイス」があります。 市内の小中学校のほぼ全生徒が作品を製作して、豊橋公園に展示します。 夏休みが終わると、図工や美術の時間に、その製作に取り組むのが豊橋っ子でもあります。 最近は、この時期に雨が降ることもあり、 担当の先生も子供たちの作品を濡らしてはなるまいとハラハラされていることでしょう。 市内在住の画家の方が言われていました。「子供たちの作品には、作為がなく素晴らしい。」 この行事も、賞やコンテストがある訳ではなく、ひたすらに製作させることを旨としているようです。 そして、心動かす作品が数多く生まれているので、今日まで続いているのだと思います。 さらに、それを裏付けてくれるのが、故郷の洋画家である松井守男(もりお)さんです。

先日、松井さんの回顧展が豊橋公園の中にある豊橋美術館で開催されました。 松井さんの絵を、どのように表現したら良いのか。 それは、絵画というよりも壁紙のようなと言っては失礼かもしれませんが、 大画布に細密な筆致で、均整のとれた美しい模様なるものが整然と描かれています。 それは、途方もない集中力を必要とする手作業なのだろうなあと想像できます。 朝日新聞の記事によると、松井さんがノルウェーの美術館を訪れた時に 幅1.5メートルほどの刺繍に目が留まります。それは、船が立ち並ぶ港の風景。 作者を尋ねると、「ただの漁師の妻ですよ。」 夫が漁に出ている間、不安を打ち消すために編んだ作品。 その時、衝撃を受けたようです。美術を学んでいなくても、人をこれだけ感動させることができる。 「必要なのは技術ではない。愛だ。」これが転機だったそうです。 松井さんは、大学卒業後に国費留学生としてフランスに渡り、現在はコルシカ島在住とのこと。 回顧展の折には、故郷の子供たちと壁画製作に挑んでおれました。 「もっと暴れて。自分の気持ちを爆発させて。」絵の具をバシャッと画紙にかけていました。

平成22年神無月



ゆらゆらと 街を見守る 菊あかり


わが国を代表する春の花がサクラであれば、秋はキクでしょう。 天皇家の紋章であり、わが国のパスポートの表紙にも印刷されています。 しかし、キクは、ほぼ一年を通じてあるので、秋の花にピンと来ないのかもしれません。 それほど、さまざまな場面で生けられ、愛されている花だとも言えるでしょう。 このオールシーズンに貢献したのが、電照菊(でんしょうぎく)。 キクは、日照時間が短くなることによって開花します。 この性質を利用して、日が沈んでも人為的に照明をあてて、まあだだよと、開花を遅らせる。 本来秋に開花するところを、出荷が一番多くなる正月ごろにずらす。 この栽培方法は、わが故郷、豊橋から始まったと言われます。 秋の夜長、わが故郷の郊外では、この幻想的な光が、ビニールハウスから放たれています。 その光は、ネオン街のような華々しいものではなく、落ち着いていて、心安らかにされます。 秋の月光のような幽玄の世界を彷彿させます。 一晩中光っているので、まるで寝ずの番で、警察官が街を守ってくれているようにも思えます。

この電照菊の栽培が盛んなのは、田原市の赤羽根地区です。 125年前のことですが、この電照菊のように光って、街を守り抜いた警察官がいました。 コレラという伝染病が、この赤羽根の街で発生。 江崎邦助(くにすけ)巡査は、いち早く発生地に駆けつけて消毒にあたります。 ところが、帰り道で、自身の容態が激変。 人力車に乗っていることもままならず、近くの森にひとり横たわります。 やがて、車夫からの知らせで、医師と役場職員、家族らが駆けつけます。 古い小屋の中で、コレラの診断がくだると、すでに決意していました。 「私に近寄らないで下さい。自分はとうてい助かる見込みはありません。 今自分が市街地に入ったら、治安の混乱となります。 警察官の自分が民衆を保護し、公務に倒れるのは本望です。」 すると、新婚の妻も心を決めていました。 「私が残って看護をしますから、みなさんはお帰り下さい。」 命がけの看護と闘病が、わびしい小屋の中で始まります。 しかし、決死の看護の甲斐もなく、巡査は命を落とします。 後を追うように十九才の妻も、同じ小屋で、ひとり息を引き取ります。 若き二人の生きざまは、暗い世相を照らす光のようです。 今日も電照菊のように、わが故郷を暖かく優しく照らしています。

平成22年長月



水ふかし 緑ふかまる 奥三河


太平洋の海沿いにある豊橋から、内陸山間部にむかって北上する電車がJR飯田線です。 わが故郷の母なる川である豊川の上流域であり、自然豊かなのどかな風景が広がります。 山並みの間を流れる川の水は透明度を増し、深みを感じれます。 木々の葉は繁り、しだいに濃くなり、涼しげな木陰をつくります。 その清流のところどころには、鮎(あゆ)の釣り人が、長い竿を差し伸ばしています。 また、「やな」といって、川のある場所をせき止めて、竹などで作った仕掛けを設置して、 流れてくる魚を掴み捕りできるところもあります。 このあたりは、奥三河とも呼ばれ、この季節は、避暑を求める家族連れで賑わいます。 そして、奥三河と言えば、五平餅(ごへいもち)。 ご飯を潰して楕円形にしたものを、平たい竹串などに刺して焼き、 甘辛の赤味噌をぬってかじりつきます。 子供のころ、口の周りに味噌をいっぱい付けて食べたのが懐かしい思い出です。

この奥三河では、戦国時代に、長篠の合戦がありました。 織田信長と徳川家康連合軍が、武田勝頼軍に対して、鉄砲を使い勝利したことで有名です。 しかし、この戦いは、鉄砲よりも、名もなき足軽の活躍がありました。 家康から長篠城を託されていた殿様が武田軍に囲まれます。 落城寸前の危機に至り、岡崎の家康に援軍を要請するために足軽を走らせます。 なんと、城の下水口から川を泳いで敵軍を突破する命がけの作戦。 深き水と深き緑が幸いしたのか、見事に敢行します。 家康のもとにたどり着いて、援軍がすぐに来ることを知ると、折り返し長篠城へ。 ところが、敵軍に捕らえられる。 そこで、敵軍は、「援軍は来ない」と伝えれば、助命して褒美を授けると持ちかけます。 足軽は、それに同意して、城のそば近くから大声で伝えます。 「あと二、三日のうちに織田・徳川の援軍が来る。それまでの辛抱である。」 策にはまった武田軍は、その足軽をはりつけに。 かたや、その声に励まされて長篠城は持ちこたえる。 形勢は一転して、織田・徳川連合軍は勝利します。 この決死の覚悟で忠義を尽くした足軽こそ、鳥居強右衛門(すねえもん)です。 この三河侍の辞世の句が墓標に刻まれています。 「わが君の 命に替る 玉の緒を などいとひけん 武士(もののふ)の道」 飯田線の鳥居駅は、強右衛門の磔殺された地にちなんでいます。

平成22年葉月



地平線 船が行き交う 昼の海


わが故郷のある渥美半島は、先端の伊良湖岬から静岡県の浜名湖まで、ほぼ一直線に太平洋の砂浜が広がります。 片浜十三里とも呼ばれますので、その長さは五十キロにも及びます。 太平洋の砂浜が、此処まで長くまっすぐに広がる海は、国内では他にないでしょう。 しかも、視界には陸も島も入らず、青く白く染まる大空を背景に地平線が広がります。 小高い所に登れば、地平線のあたりを、船が行ったり来たり。 小学生のころ、地球が丸いことの証明として、地平線から表れる船はマストから見えると聞きました。 それを確かめようとしましたが、船があまりに小さくなるので確認できませんでした。 望遠鏡でもあれば良かったのかもしれません。 それよりも、その船の進み具合は、ゆったりとしています。 止まっているようで、しかし、確実に動いている。 そんな光景を眺めていると、せわしない日常を生きているのか、しばし心が落ち着きます。

約二百年前に、この同じ海を見ていたのが、渡辺崋山(かざん)です。 田原藩の家老でもあった崋山は、鎖国下の中で、見知らぬ国の船をじっと見ていました。 このままでは、藩や国を守れない。世界の動きをいち早く察知。 攘夷という世論や感情に流されず、現実を見ようとするのです。 その観察眼は、国宝を生みだす絵筆にも表れます。 そのため、率先して蘭学を学び、海外の実情を知ろうと努めます。 そんな折に、モリソン号事件。 日本の漂流民を乗せた外国船に対して、幕府は砲撃して追い出す。 崋山は、「慎機(しんき)論」という私文書をしたためて、幕府の対外政策を暗に批判。 時代を先取りし過ぎてしまったゆえに、幕府に捕らえられ、最後は自刃に至ります。 まさしく、開国の先駆者。やがて、崋山の洞察通りに、対外的な危機は到来。 そして、崋山が思い描いていた通りに、開国は実現するのです。 その過程で、この「慎機論」は見直され、時の為政者や幕末の志士たちに広く読まれたそうです。 今日も田原市には、崋山の記念館はじめ、縁の場所が整備されています。 混沌とする政治状況は、昔も今も変わりません。 そんな時、崋山の声に耳を傾けたいものです。 太平洋を眺める崋山を思い浮かべると、潮風とともに聞こえてくるようです。 「どうだ、海をよおく見ろい!広いぞよ。深いぞよ。何も濁りはないぞお〜」

平成22年文月



なみなみと 菖蒲そばに 水走る


わが故郷でも、田植えが始まります。田んぼには水が満ちています。 六月は、水無月ですが、水が無いのではなく、水の月とも言われるそうです。 ちょこんちょこんと早苗が浮かぶ中、陽光が降り注ぐと、きらきらと水田は輝きます。 その水田が広がる、豊橋北部に位置する賀茂(かも)の町。 この時季、花菖蒲(はなしょうぶ)が咲きみだれています。 花菖蒲も湿原や水辺の植物のようで、たっぷり水を受けて花を咲かせるようです。 この賀茂のしょうぶ園は、入場無料。5月下旬から6月中旬までの夜は、ライトアップされます。 やはり、なみなみと水が流れる用水がすぐ傍に流れており、この用水をまたいで入場します。 そして、わが故郷の用水と言えば、誇りある豊川(とよがわ)用水です。

実は、わが故郷は、一昔前までは、干ばつに悩まされていました。 特に渥美半島の田原市界隈は、川が少なく水不足が深刻でした。 そこで、1921年(大正10年)田原市出身の近藤寿市郎(じゅいちろう)が大きな夢を抱きます。 やがて豊橋市長も務める政治家です。 「鳳来寺山(ほうらいじさん)に巨大なため池を造り、渥美半島の先まで水路を引くことができれば、 農村の水不足を解消することができる。」 渥美半島先端の伊良湖から鳳来寺山までは、自動車で2時間30分はかかる距離です。 あまりにも壮大な計画に、当時の人は、「近寿(こんじゅ)の大ボラ」として変人扱いにしたそうです。 ところが、どっこい。 やがて、幾多の困難を乗り越えて、これが国家プロジェクトとなります。 1968年(昭和43年)ついに、完成の日を迎えます。 すでに近藤さんは亡き人でしたが、その夢は、47年の歳月をへて実現したのです。 そして今日、わが故郷には、農業王国という美しい花が咲きました。 その時、忘れてはなりません。花の下で、ひたむきに走っている水の存在。 じっと耳を済ませば、今日も聞こえてくるようです。なみなみならぬ大先輩たちの熱い息遣いが。

平成22年水無月



艶やかに 若葉まぶしい 次郎柿


ゴールデンウィークを迎えるこの季節、一段と賑やになるのが、 のんほいパークこと、豊橋動植物公園です。 家族連れでも、お金があまりかからず、入園者が最近増えている感じもいたします。 のんほいとは、三河弁と言われる故郷の代表的な二つの言葉「のん」と「ほい」を並べています。 のんとは、語尾につきます。例えば「そうだのん。」 「そうだね。」と同じニュアンスで優しい響きとなります。 そこには、仲間意識のような、絆も感じとれます。 「ほい!」とは、「おい!」と呼びかけるのと同じですが、 「おい!」のような強い命令調ではなく、やんわりとお願いをする響きが潜みます。 年配の女性でも違和感なく使える言葉です。 これらの言葉の背後には、仲間意識を尊ぶ穏やかな三河人気質が感じとれるでしょう。

さて、のんほいパークから眺望できるのが、松明(たいまつ)山です。 見通しの良い園内ならどこででも、北の空にそびえています。 そのふもと一帯は、二川と呼ぶ昔ながらの宿場町が広がります。 ちょうど、この季節、松明山は、若葉が生い茂って美しい。 それは、のんほいパーク園外にある、もうひとつの大きな展示物のようです。 その色とりどりの緑色には、瑞々しさがみなぎっています。 緑という色は、目にも優しく、心を癒してくれる要素もあります。 そして、わが故郷で若葉と言ったら、次郎柿。四角い実の柿です。 その若葉には、特有の艶があります。 それが、陽光を浴びると、まぶしいほど輝くのです。 ゴールデン・グリーン!豊橋北部の石巻山のふもとには、この次郎柿畑が広がります。 やはり、艶のある若葉が集まると、輝きを増します。 グリーン・ジャパン!若葉繁るこの時期こそ、わが国はあちらもこちらも美しく輝きます。 ココ豊橋も然りです。

平成22年皐月



街かどに ひらひら舞える さくらかな


さくらの開花とともに、晴れて入学を迎える季節となりました。 さくらが祝福するように、周りの人たちも激励を送ります。 そんな祝福と激励を胸に、新しいスタートを切れる日本人は幸いです。 当社のある広小路(ひろこうじ)商店街にも、当社筋向いにある三井住友銀行さんの前に 五本のさくらの木があります。広小路のさくら。 商店街にさくらがあるのは、珍しいことだと聞きました。 虫がつきやすく管理に手間がかかるためでしょうか。 しかし、地元商店主たちの強い希望で、この銀行前の植樹が実現したそうです。 その「住友さん」とさくらは良く似合います。 千円札や百円玉をイメージするからでしょうか。 住友さんとは、昔から長いおつきあいをさせていただいています。 個人的にも、私が大学に入学する時でした。 支店長さんが足を運んで下さり、入学祝いに箱入りのボールペンを届けてくれました。 突然のことで驚きましたが、そのような思い出は忘れないものです。

この地域は、銀行とは縁が深いのです。そのゆえか、三河人はよく貯蓄をします。 その由来は、豊橋出身の中村道太さん。 慶応義塾で「帳合(ちょうあい)之法」という複式簿記をいち早く習得します。 その後、日本初の株式会社であった丸屋商社(現在の丸善株式会社)に入り、 そこで簿記を使った会計を実践する。 やがて、中村さんは、日本初の外国為替専用銀行である横浜正金(しょうきん)銀行(後の東京銀行)の初代頭取に抜擢されます。 開港後の横浜で日増しに盛んになる貿易を堅実に円滑にする試みでもありました。 また、外国商社や外国金融機関に対抗して、国内産業や国内商社の権益を守る 重要な役回りを果たしたとも言えるでしょう。まさに、日本金融界の先駆者であり、広くは日本経済の大恩人です。 しかし、時の政変に巻き込まれて、中村さんの商才は花開かず、道半ばにして表舞台から去ります。 かたや、悲運の実業家とも呼べるでしょうか。この季節、桜が舞う豊橋公園には、中村さんの石碑肖像がひっそりとたたずんでいます。 刻まれた文字は、才を惜しむ人たちの「嗚呼(ああ)」。 しかし、ご本人の顔はそんな悲運何処吹く風よ。 「君たちが、私の蒔いた種を咲かせなさい」優しく見守っているようです。

平成22年卯月



春はそこ あちらこちらに ふきのとう


この季節、庭先のあちらこちらに、ふきのとうが顔を出します。 優しく微笑んで「もうすぐ春だよ〜」と知らせてくれているようです。 しかし、声はださない。こちらが気がつかないと聞こえません。 あちらこちらに春の知らせがあるものの、こちらの感性が鈍っている、 あるいは心にゆとりがないと、折角の良き知らせも聞き逃してしまいます。 お恥ずかしい話ですが、少し前までは、ふきのとうが、庭先にあることを知りませんでした。 ところが、祖母から教えてもらいました。「うちの庭に顔をだしているよ。」 こんな身近なところにあったのかと驚きでした。それでも、気がつけたので幸いです。

ふきのとうは、春をじっと待っているようです。 時には、霜をかぶっています。冬の寒さをじっと耐えている。 このように風雪に耐えてきた食材には、見えない力が潜んでいるようです。 天ぷらにすると、やや苦みを感じますが、春の到来を予感します。 また、その芽は一つではなく、一つの房の中に、沢山の芽がつまっています。 それは、みんなで寄り添って、みんなで力を合わせてと語っているかのようです。 ココ豊橋は、三河という呼び名からか、三州とも言われてきました。 すなわち、三の国。三とは、力合わせの象徴のようです。三つよりの糸は切れない。 三本の矢は折れない。三人よれば文殊の知恵などなど。 三州で生まれた家康も、この三の力によって、厳しい冬を乗り切ったのでしょう。 同じく、三州に本社を置くトヨタも、この力によって厳しい冬に耐えています。 三河人の此処一番の底力。それは、旬の食材より。冬来なば 耐え抜くトヨタ 春近し

平成22年弥生



たそがれて キャベツ抱える 農夫婦


豊橋南部の台地には、整然とキャベツ畑が広がります。 両手を広げるかのように、その葉は、いっぱいの陽光を浴びます。 そして、手を戻すかのようにして玉となる。 また、新しい手が広げられての繰り返しで、しだいに大きくなって行きます。 かたや、この寒い時期に、路地でじっと耐え、朝は霜が張っていることも。 いっぱいの光を浴び、寒さに耐えたキャベツには、大きな力が秘められているようです。 ちょうど、空も澄んだ夕暮れ時に、キャベツ畑を通りかかった時でした。 この季節、収穫を迎えています。黄金の光が降り注ぎ、作業をしている二人の男女が輝いてみえました。 一日の働きを終えて、畑で祈る農夫婦を描いたミレーの「晩鐘」(ばんしょう)と重なりました。

そこには、誰も侵すことのできないような神聖さ、勤労の尊さをかいま見るようです。 それは、太陽と大地、そこから生まれる食物への大きな感謝も潜みます。 この方たちの手によって命をいただいている。 当社の近くで、ロシア料理店を長年経営しているバイカルさん。 この地域でも、多くの地元人から支持を得ています。 特に「ロールキャベツ」はおすすめです。 じっくり煮込んだキャベツには、冬に耐え抜く力がみなぎっているかのようで、 ボリュームも満点。アフターティーは、バラをジャムにしたおしゃれな紅茶。 ご主人に「ロールキャベツを豊橋名産にしたいですね。」 すると、嬉しそうに微笑んでいました。 こじんまりとした家庭的なお店ですが、とても心地よい空間です。 バイカルさんはお昼も営業していますので、当店とあわせてお立ち寄り下さいませ。



平成22年如月



はつ春や 彼方に見える 白い山


豊橋の空が澄みわたると、南アルプスの白い山並みが顔を出します。 その白い山を見ると、心も洗われるようです。 街中にある当社ビルの階上からもそれを眺めることができます。 北の空には、本宮山(ほんぐうさん)、東の空には、石巻山(いしまきさん)。 そのちょうど間に、あの白い山々が表れます。 そこにある白い山は、われら三河人の到達点なのかもしれません。 いつか、あそこまで、行きたい。いつも、そこに憧れます。 雪のあまり降らない地域だからこそ、その白い山には魅力を感じてしまうのかもしれません。 また、年に数回しか見えないから、見えた時の感動は大きいのです。

お正月には、この白い山が見える澄みわたった空がお似合いです。 まさに、晴々しい。新しい年に挑む緊張感でしょうか。身も心も引き締まります。 箱根の大学駅伝が、お正月の風物詩になって参りました。 ランナーの目標は明快です。 その道の向こうには、必ずゴールがあります。 ゴールを知っているからこそ、真剣に走ることができる。 最近、わが故郷からも、箱根で雄姿を見せる選手も輩出されて来ました。 師走の都路を走る高校生の全国駅伝。 女子2連覇の豊川高校や豊川工業高校の活躍が目立つようになりました。 赤い味噌のように、じっと耐えて耐え抜いて、花を咲かせる。 しっかりと目標を見据えているのです。 故郷の山のふもとでは、今日もランナーが黙々と練習に励んでいます。 新しい年、あの白い山をめざして、走って参りたいです。



平成22年睦月



クリスマス 青くきらめく 街あかり


日の暮れる時間が早くなります。 ココ豊橋の駅前を訪れてみて下さい。 改札口から東口の広場に出ると、そこに清楚な電飾ツリーが立ちます。 そして、市内電車の通る駅前大通りは、青い光のイルミネーションで装飾されています。 その光の中を、夜の寒風を切りながら電車が快走します。 しかも、おでん車という貸切電車も走り出します。 これは、電車の中でおでんを食べながら、豊橋の街をのらりくらりします。 豊橋は練り物、ちくわが名産品でもあり、おでんの文化もあるのでしょう。 おでん車は、貸切で、個人では利用できませんが、 眺めるだけでも冬の風物詩のような存在です。

そして、おでんの命は、出汁。 きちんと昆布と鰹節でとった出汁は、美味しいばかりか滋養も豊かです。 新型インフルエンザ何処吹く風よ。 駅前にある当店のそばには、二つの老舗があります。 鰹節専門店の岩瀬さん。そして、ヤマサちくわの本店。 当社では鍋、出汁を岩瀬さんで、具をヤマサさんで、 これで美味しいおでんを堪能できます。 今年のクリスマス、家族一緒におでんを食べる。 その日、救い主が、闇夜に光として誕生しました。 そこには、新しい年への希望が輝いています。 同じく下積みが長く、今年輝き始めた豊橋のキラ星をご紹介します。 中日ドラゴンズの藤井淳志(あつし)選手とフィギュアスケートの鈴木明子選手です。 華やか過ぎない。しかし、しっかりと輝き続けている。 きっと、彼らの底力も、この土地の食物から湧き出るものでしょう。

平成21年師走



だんだんと だいだい染まる 蜜柑の木


お車でココ豊橋に来られる時は、東名高速道路でしたら、 音羽蒲郡のインターをご利用いただくと便利です。 そのインターを出て、国道一号線を横切って直進すると、三河湾オレンジロードに至ります。 文字通り、トンネルを通過すると、蜜柑(みかん)畑が広がります。 山道になりますが、その山の向こう側は、三河湾に抱かれた蒲郡市街が控えています。 蒲郡と言えば、竹本さんの胡麻油だけでなく、高級蜜柑の産地なのです。 温室蜜柑で知名度があり、その品質には定評があります。

蜜柑の木は、だんだんと山並みに沿って植わっています。 この寒い時期に、蜜柑の実が青色から、だんだんと、だいだい色に染まります。 蜜柑は、温かい地方で栽培されますが、その果実は太陽の光をいっぱいに浴びて、 さながら小さな太陽のようです。 太陽が健康の象徴としたら、やはり蜜柑には栄養がたっぷりと含まれています。 今年の冬は、新型インフルエンザの広がりが危惧されます。 そんな折りに、この蜜柑が免疫力を作ってくれるのかもしれません。 しかも、剥くだけで、気軽に食べれるのも嬉しいところ。 冬を前にしたこの時季、蜜柑のだいだいが、私たちの身も心も温めてくれます。 それは、この冬に挑んでゆく人たちを激励しているようです。

平成21年霜月



街てらす 海にとけゆく 赤きたま


ココ豊橋は、東に山、西に海が控えています。 それは夕日を見るのには最高のロケーションだと分かります。 「夕日の街、豊橋」と宣伝しても良いのかもしれません。 その東の山に登ると、西に豊橋の街を一望できて、その向こうに三河湾の海が広がります。 それほど距離もないためか、山から海を見ることができるのです。 その山の中腹伝いに高山(たかやま)と呼ばれる墓地が広がっています。 晴れた秋の夕暮れ、この墓地に訪れると、美しい夕日を仰ぐことができます。

墓地というのは、生きること、死ぬことに真摯に向きあえる聖地のようです。 人はなぜ、生きるのだろうか。そして、人はなぜ、死ぬのだろうか。 そんな本質的な問いを思索するのには、相応しい場所だと思います。 さらに、そこで美しい夕日を仰げることは、その手がかりを与えてくれるようです。 一日の中で、一番美しい時間が、日が沈む直前であるとしたら、 それは、人の一生にも当てはまるように思うからです。 ひときわ輝いて最後の瞬間を迎える。 1年の季節でも、春に始り冬に終わるとしたら、終わる直前の秋は、葉も色づき実りも豊かで美しい。 秋と夕日はまさに絶好の組合せです。 この秋、夕日の街にて、皆様のお越しをお待ちいたしています。

平成21年神無月



竿ならべ ハゼが食いつく 海の口


豊橋の街中を流れる豊川は、奥三河の山間から始って、三河湾に注がれます。 その川と海の境界、河口にあるのが、前芝町です。 淡水と海水が混じりあう汽水域と呼ばれるこの場所は、一昔前はあさりなどの海産物の宝庫だったようです。 その名残か、周辺には、佃煮を製造する工場が今も点在します。 主にあさりや小魚などを醤油や砂糖で甘辛く煮染めた食品です。 保存ができて重宝であり、ご飯と一緒に食べると美味。 三河佃煮として組合もあり、この佃煮を全国に、そして海外にまで出荷しています。 この三河佃煮の由来も、この豊饒の河口より獲れる海の幸にあったようです。

いまでこそ、工業団地の建設等で埋立がすすみ、魚の数も減ってしまいましたが、 子供の頃は、前芝の河口にハゼ釣りによく出かけたものです。 最近は、リバイバルか、この時期の週末には、ハゼ釣りの竿が並ぶのです。 ハゼ釣り大会も開催されています。 ゴカイと読んでいる太いミミズを針に指して、竿を近場に垂らします。 すると、ググググイと脈打つような感触がやってきます。 「きたきた〜」と喜び勇んで竿を上げると、尾を振り振り生きの良いハゼがぶら下がっています。 ハゼは、アゴが発達しているのか、大きな口でがぶりつき、非常に食いつきが良い。 そのひきの手ごたえは、釣り人にとっては、やみつきになる独特の感触なのです。

その前芝小学校には、大正13年生まれの日本で一番古いと言われている二宮金次郎の石像があります。 このあたりの小学校では、二宮金次郎が薪を背負って読書している石像があるのです。 お隣の岡崎市が石都と呼ばれ、ほとんどの石像が当時岡崎で作られていたようです。 岡崎から近いことも、この石像の由来のようです。 さらに、前芝の金次郎は、薪ではなく魚篭(びく)を背負っているのです。 それは、その土地ならではの特徴も表現したのでしょう。 前芝は、とにかく、魚がよくとれたのだと想像できます。 かたや、石工のユーモアのようにも感じます。 多分、魚篭を背負った金次郎は、日本全国でこの前芝小学校だけでしょう。

魚が良く獲れたわが故郷は、自然と食文化の花が咲きます。 そのひとつが、魚の練り物であるちくわです。 「豊橋名産ヤマサのちくわ」として定着したヤマサさんは、江戸時代の創業です。 当社実店舗にほど近い、その名も魚(うお)町という町内に、 昔ながらの風格のある店構えで、今もなお営々と暖簾を垂れています。 地元人も、手土産のちくわを片手に、遠出をいたします。 豊橋お越しの節は、是非ヤマサのちくわをご賞味下さい。 そして、当社もその食文化に花咲いた店の一つでしょう。 お料理を下支えする道具たち。地味な存在でありますが、お料理には無くてはならない存在。 お陰様で、当社も創業100周年を迎えようとしています。

平成21年長月



ギラギラと いよいよ激し 蝉時雨


緑の多いココ豊橋では、庭先で、街路樹で、近くの公園で、 きっと選挙の声も打ち消すほどに、蝉時雨が降りしきります。 蝉は早起きのようで、この時期は、私の目覚まし時計ともなります。 夏バテ気味で、ついつい朝が遅くなりがちなのですが、 規則正しく生きる蝉たちに、見習わねばと励まされます。 今年は、いつになく梅雨明けが遅く、戸惑っていたかもしれませんが、 いつも夏本番に鳴き始め、夏の終わりと共に去ってゆく。 日の出とともに鳴いて、日の入りとともに静かになってくれる。 その意味でも、正確な時計だとも言えそうです。 一年中ではなく、この時期限定であるからこそ、その鳴き声もいとおしく、心地よく響きます。

それは、子供の頃の思い出です。 近くの神明(しんめい)公園へ、虫かごをぶら下げ、網を片手に出かけます。 この暑さに、樹液をたっぷり飲んでいるのでしょう。 網から逃がしてしまった時に、「あ、つめた!」と液体の排出物を額に受けます。 それは、蝉のいたずらなのでしょうか。 あるいは、虫取りに来た少年たちへの逆襲なのでしょうか。 飛び去る蝉の後ろ姿は、下で怒っている少年たちを、せせら笑っているようでもあります。 もしかしたら、「それは、僕の尊い汗なんだよ〜。天然のシャワーで、 気持ちいいだろう〜」と蝉からの贈物だったのかもしれません。 排出物を贈物にしてしまう。そこに、蝉のユーモアを感じます。

成虫になった蝉の命は、ほんの束の間です。しかし、与えられた時間を、精一杯生きている。 それは、全身を震わせて、全力で鳴いていることで分ります。 その時、同時期に活躍する高校野球の球児たちと重なります。 ともに、暑い中を全力で生きている。 そこには、濃厚な生命を感じることができます。 暑さという、ある意味では大きな試練に対して、逃げてしまうのではなく、 果敢に立ち向かって行く姿を表しているようです。 その試練が大きければ大きいほど、生きる力がみなぎってくる。 暑ければ暑いほど、蝉の音は大きく響くように感じます。 躍動する蝉の命に「おー蝉もがんばっているわい。」 こちらも力がみなぎってくるのです。

土の中で生涯のほとんどを過ごして、光の世界では、大空を自由に羽ばたく。 夏も深まると、あちらこちらに全力で生き抜いた蝉の屍が転がっています。 時には、蟻がエッサエッサと運んでいる。 それを手にすると、妙に軽いのです。 悔いなく全力を出し切った結果かもしれません。 ちょうど、成虫になる前に脱皮した抜け殻と変りません。 実に、空っぽなのです。 それは、肉体という殻を脱いで、魂がようやく自由になって、 光の国にいたる信仰者の希望を表しているようです。 創造者は、この自然の世界に、真理を散りばめています。 蝉は、創造者からの使者として多くのことを語っているようです。 しかと耳を澄ませたいものです。

平成21年葉月



父待てり 浮かぶ椰子の実 吾が身かな


海の向こうにいる同郷の友から便りが届きました。 作家の島崎藤村(しまざきとうそん)と椰子(やし)の実に感慨を新たにしていました。 それは、我らの故郷と深いつながりがあるからです。 地元のFM局は、椰子の実の愛称で親しまれ、84.3メガヘルツに合わせます。 84.3が語呂でヤシのミです。お分かりでしょうか。 そのいわれをご紹介いたします。 渥美半島の先端にある伊良湖(いらご)岬は、雄大な太平洋を一望することができます。 その昔、伊良湖岬にたどり着いた椰子の実に思いを寄せて、島崎藤村が詩を作りました。 それに賛美歌で有名な大中寅二(おおなかとらじ)の曲がついて、 音楽の教科書にもしばし登場する歌曲「椰子の実」が誕生します。 潮風をうけて、ゆったりと大海原を流れる光景が目に浮かぶ美しい旋律です。 そこには物悲しさが漂っています。 しかし、その向こうには希望が待っている曲調です。 改めて、藤村の歌詞を声にしてみると、その韻律、その内容、げに味わい深しです。

名も知らぬ 遠き島より 流れ寄る 椰子の実一つ
故郷(ふるさと)の岸を 離れて 汝(なれ)はそも 波に幾月
旧(もと)の木は 生(お)いや茂れる 枝はなお 影をや成せる
われもまた 渚を枕 孤身(ひとりみ)の 浮寝(うきね)の旅ぞ
実をとりて 胸にあつれば 新たなり 流離(りゅうり)の憂(うれい)
海の日の 沈むを見れば 激(たぎ)り落つ 異郷の涙
思いやる 八重(やえ)の汐々(しおじお) いずれの日にか 国に帰らん

人は海を見て、感傷的になるのかもしれません。 藤村は、人生の漂流者として、椰子の実を自分に重ねます。 故郷を遠くに、風や雨に翻弄されて、悩み苦しむ姿をそこに見ます。 すると、優しい父母を懐かしみ、望郷の念が高まります。 海外にいる友にとっては、文字通りで身に沁みるのでしょう。 同じ信仰者である友は、さらに高嶺に及びます。 この詩が発表される前に、教え子の女性と過ちを犯した藤村は、 基督者としての生き方を閉じたと言うのです。 その時、藤村のいずれの日にか帰りたい国とは。地上の故郷ではなく、天の故郷を指していたのでしょう。 さながら聖書の世界を彷彿させます。 放蕩息子の帰りを待ちわびる父親。そして、父の懐に擁かれる息子。 さ迷える椰子の実が、私たちひとりひとりを指しているようです。 この浮世で、悩んでいる、苦しんでいる私たちです。 しかし、決して絶望では終らない。その向こうには、帰れるところがあるのです。 希望は、信仰の目で見えてきます。此処に明日を生きる力があります。 伊良湖岬では、今日この椰子の実誕生の記念碑が建ちます。 そこは、日常の喧騒をしばし離れ、我に返る絶好の機会を与えてくれるでしょう。

平成21年文月



やわら草 レンゲで遊ぶ 親子かな


ずっと昔のことですが、今でも鮮明に覚えていることがあります。 たった一日の出来事なのです。しかも、ほんの数時間の出来事。 非常に濃密な時間だったのでしょう。 きっと、子供心にも、嬉しく感動していたのでしょう。 それは、母が運転免許書の更新に行った時だったと記憶しています。 当時は、警察署でしていたようです。 豊橋警察署の裏には、豊橋公園があります。 警察署の建物は新しくなったものの、豊橋公園はその時とほぼ同じです。 よく晴れた日でした。公園にぶらりと寄って、その草むらに腰掛けたのです。 そこには、クローバーでおなじみのシロツメクサが群生していて、 白い花をいっぱいに咲かせていました。 それを、レンゲの花と呼んでいます。 しかし、正確には、レンゲとシロツメクサは違うようです。 いわゆるレンゲは、赤紫の花を咲かせます。 同じマメ科でもあり、花の形が良く似ているからでしょうか。 私にとってのレンゲは、この白いシロツメクサなのです。 これは、地域による呼び名の違いなのか、単なる勘違いなのか。 ここでは、私の世界にこだわって句にしてみました。

その草むらの中に腰をおろすと、柔らかい草に触れて、何だか心地よいのです。 クローバーの草は、そっと人を包み込むような優しさがあります。 そして、風が吹き抜けると、独特のクローバーの香りが漂います。 蟻がそわそわと顔を出したり、蜜蜂がブンブンと飛んできたり。 虫たちにも好まれているようです。 その光、その風、その香り、その感触、その虫たち。 すると、母がその白い花を摘み始めました。負けじと私もたくさん摘みます。 ある程度集まると、母はそれを巧みに編んで、何かを作りはじめました。 そのそばで、「何ができるのかな。」と興味深く見つめます。 それは、見事な花輪でした。子供心に、「お母さんは、こんなことができるのか!」と驚きました。 「お母さん、どこで覚えたの。」そんな質問をしたのかもしれません。 その花輪を、頭に載せたり、首輪にしたりして、愉快に遊んでいたのです。 そして、レンゲの花を見るごとに、思い出すのです。 今も、この白い花は、同じ公園で咲いています。 雨上がりの良く晴れた日に、楽しげな子供の声が響きます。 時を超えて、今日もどこかの親子の絆を深めてくれているのでしょう。 このレンゲの花が咲く頃、もう夏はすぐそこです。

平成21年水無月



笑みあふれ をとめ旅立つ ツツジ花 


ココ豊橋の市の花はツツジです。 この季節、街中いたる所でツツジが美しく咲いています。 豊橋駅を基点とするチンチン電車と呼ばれる路面電車は、 ツツジが両脇に咲く駅前大通りを走り抜けます。 この大通りは、別名アゼリア通りと言われ、アゼリアとはツツジの英名です。 全国的にツツジを市の花とする市町村は多く、日本中でこよなく愛されている花のようです。 そして、このあたりでツツジと言えば、由緒ある旧蒲郡ホテル。 今日の蒲郡プリンスホテルです。 新幹線からも、豊橋から大阪方面に向ってしばらくすると、左手の三河湾沿いに見えてきます。 青緑の屋根をもつ城郭風の建物が、小高い丘にそびえています。 そばには小さな島が見えて、対岸から橋で結ばれている。 このホテルからは、三河湾に浮かぶ、この竹島を眺望できるのです。 その庭園に咲くツツジが名高いのです。この時期には、ツツジまつりも開催されます。

実は、私の両親が42年前の五月に此処で結婚式を挙げたのです。 その日は、爽やかな五月晴れで、見事にツツジが咲き誇っていたそうです。 その1年後に私は誕生しますが、その日のことを想像して句にしてみました。 その挙式には、多くの方が参列して下さったようです。 そこには、新郎新婦を祝福する皆さんの笑顔が溢れていたように思います。 そして、天も加わり、ツツジの花々を通じて祝福していたようです。 その日が素晴らしい快晴日であったのは、 花嫁のいろんな迷いや不安を吹き飛ばしてくれたのかもしれません。 さらに、陽光を浴びるツツジは一段と輝きを増します。 すると、ツツジは、満面の笑みをもって、咲いているように見えてきます。 そのツツジの花は、隙間がないほどに密集して、一斉に開花します。 それは、さながら大勢の人たちが、あの人もこの人も、いっぱいの笑顔で祝福しているようです。 ツツジは人を祝福する花だから、愛されるのかもしれません。 花嫁の新たな門出を祝うには、あまりも相応しく、美しき日だったようです。 そんなツツジたちが、この街で皆様のお越しをお待ちしています。

平成21年皐月



さくら花 ふと下見れば きいろ花


この季節、見事に咲いたサクラに目を奪われます。 ココ豊橋では、中心部にある豊橋公園や向山(むかいやま)公園の中で 花見を楽しむことができます。 それは、サクラの下に、青草が広がっているため、 ゴザを敷いて座り、花びらの舞を頬に受けながら、サクラを愛でることができるからです。 その時は、ついつい上ばかりを見てしまうものですが、ふと下を見れば その青草の中には、点々と黄色の花である、タンポポが顔を出しています。 だれにも愛でられることもなく、ひたむきに咲いています。 「サクラは良いよな、僕だって花なんだけど〜。」 タンポポは、ひがむことなく咲いている。 「僕もサクラのように咲いてみようかな〜。」 背伸びをすることもなく咲いている。 時には、サクラに一生懸命な人に踏まれてしまったり、 花見をしている人たちのゴザの下で潰されたりしまうこともあります。 その姿は、いかにも、けなげに思えます。

それは、じっくりと見れば、サクラにも劣らぬ魅力が タンポポにも秘められているからです。 昭和天皇が「雑草という植物はない」と言われていました。 その雑草の一つ一つにも確かな命が息づいています。 タンポポも雑草にも加えられることがありますが、 それらの草花こそ、生命力に溢れています。 サクラの花よりも長く生きます。踏まれても踏まれて、表情もひとつ変えずに、また立ち上がる。 「僕は僕で精一杯生きている。君は君で精一杯生きよ。」 そんな言葉をサクラに投げかけながら無心に咲いている。 この季節、華やかなサクラが主人公で、タンポポが脇役のように見えますが、 もしかしたら、その逆なのかもしれません。 タンポポをじっと見ていると、違った世界が広がります。 そして、サクラは、自分を見せるためではなく、まわりの草花を引き立てるために咲いている。 サクラに囲まれて、ひっそりと花咲くタンポポ。タンポポがひときわ輝きます。 サクラの中に佇む草花に、そして人にこそ、目を留めてみたい今日この頃です。 だから、サクラは愛でられ、偉大なのかもしれません。 ああ、そんな生き方をしてみたいなあと憧れます。

平成21年卯月



潮風に キラキラ揺れる きいろ花 


この季節、豊橋から渥美半島の先端にある伊良湖岬に車を走らせると、 黄色い菜の花が咲き乱れています。その数は、約1000万本。 この菜の花が一面に広がる菜の花畑は、さながら黄色の絨毯のようです。 この黄色い花は、一足早く春の訪れを知らせてくれます。 そんなわけで、渥美半島は「常夏」ならぬ「常春」の地に相応しいのです。 そして、この花の上を春一番が吹き抜けます。 春一番とは、立春から春分の間に、その年に初めて吹く南寄りの強い風と言われています。 ここ豊橋では、太平洋からの潮風となります。 さすがに、この春の風は、かなり強く、突風とも言えそうです。 先日も、当社のあるビルの階上は18階あるマンションで、なんと布団が気持ちよく大空を泳いでいました。 いやはや、気をつけなければなりません。 この突風は、さながら暴れん坊の登場のようですが、 迎えるこちらも不思議と心閉ざすことなく「今年もようこそ!」と歓迎してしまうのです。

そして、夜もまた風流です。 唱歌の故郷を作った「故郷コンビ」の高野辰之(たつゆき)さんと岡野貞一(ていいち)さん。 名コンビのもうひとつの唱歌に「朧月夜」(おぼろづきよ)があります。実に見事な日本語です。 菜の花畑に入日薄れ、見渡す山の端(は)霞深し、春風そよ吹く空を見れば、夕月かかりて匂い淡し。 わが故郷でも、まさしく、この幻想的な朧月夜の世界に浸ることができます。 冬の澄み切った夜とは違い、春は霞がかかってきます。 その変化に、しだいに夜も温かくなってきたことを感じ、朧月をぼっと眺めていても、 すでに寒さを感じません。そして、心待ちしている、サクラ、サクラの夜はもう間近となります。 それでも、陽光を浴びた、菜の花が一番美しいと感じます。 キラキラと輝きをまします。さながら、煌(きらめ)いています。 そして、この黄色という色合いには、春の温かさを感じます。 眠っていた命が躍動する、エネルギーというか力を感じることもできます。 元気の出る色とも言えるでしょう。 この駆け出した春に、この黄色が広がって行く。 この季節にドンピシャリの色使い。創造者の絶妙な感性に心打たれるものです。

平成21年弥生



うぐいすや 白湯気のぼる 赤き味噌 


春は名のみか風の寒さや。 この月に立春を迎えますが、暦は体感とは違い季節を先取りしているようです。 雑誌も同様で、2月なのに1ヶ月先の3月号と表示されている。 まだ来ないものを待ち望む、何か期待感というか、希望がそこに込められているように感じます。 日本語の明日という響きに近いでしょうか。 まだまだ寒さを感じるこの時期に、この三河と呼ばれる愛知県の東部でも、 味噌作りがはじまります。大きな木樽に、大豆を潰して、二夏二冬寝かせます。 じっくりと2年かけて出来上がるのが、赤みを帯びた三河味噌、八丁味噌とも呼ばれます。 数ヶ月でできる味噌もある中で、わが三河味噌は2年の歳月を待つのです。 三河で生まれた武将の徳川家康の生涯は、「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ほととぎす」と歌われます。 この家康と三河味噌が重なるのです。

そして、激動の戦国の世。どんなことが起ころうと、ひたすら家康に仕えたのが 名もなき三河武士たちでした。田舎侍と蔑視されようが、家康の取り巻きは誇り高き三河武士。 福沢諭吉は「痩(やせ)我慢の説」という著書の中で、薩摩でもなく長州でもなく、 われらが先人の三河武士を激賞しています。これぞ、武士と。 「いかなる非運に際して辛苦をなめるも、かつて落胆することなく、 家のため主公のためとあれば、必敗必死を眼前に見てなほ勇進するの一事は、 三河武士全体の特色、徳川家の家風なるが如し。」 家康の天下は、彼らが痩我慢の賜物なりと分析しています。 その三河武士の痩我慢、あるいは忍耐の源泉が、故郷の赤き味噌のようにも思えます。 三河武士は、この味噌を片手に戦地に赴いていました。 やがて、この三河の地には、トヨタが生まれ、この時期に直系社長を迎えて、 味噌のようにじっと耐えています。実は、ここぞ三河魂の醍醐味です。 この寒い朝にいただく、白湯気を立ち上らせた赤い味噌汁に、三河人は、「あ〜うまい」と風雪に耐える力をいただきます。 そして、里山からは、うぐいすの音が響いてきます。 「お〜春近し」と、健気にまだ見ぬ春に思いをよせるのです。

平成21年如月



冬空に 富士の高嶺が 浮かびけり 


新春をお慶び申し上げます。初日の出を仰ぐ東の空は、ここ豊橋からですと、 ちょうど富士山が見える方角でもあります。 子供たちの通う小学校の音楽室からも、天候によっては、富士山が見えるのです。 校歌にも「富士がみえます青い空」と歌われています。 全国にもあるのでしょうが、豊橋にも富士見町と富士見台という2つの町名があり、 やはり、どちらの町内からも富士を仰ぐことができます。 そして、他にもいくつか富士山スポットがあるのです。 「今日は富士山が見えるかな?」というのが、このあたりの人たちの楽しみでもあります。 そして、富士山が見えると、しばしその場で、見入ってしまうのです。

司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」によりますと、坂本竜馬が 郷里土佐から東京に向う道中で、静岡県との県境にある潮見坂から太平洋と富士山を眺望します。 その時に、「日本一の男になる」と唸りを上げるのです。 まさしく絶景だったのでしょう。 今では、この潮見坂には道の駅もできて、観光のスポットにもなっています。 地場の新鮮な野菜が手に入り、私もしばしば訪れます。 愛知県側から道の駅に入る手前にはトンネルがあるのですが、まさしく 「トンネルをぬけると、そこは海だった」と素晴らしい景観が飛び込んで来ます。 初夢にも、「一富士、二鷹、三茄子」とも言われますが、 この時期の富士山は一段と美しいのでしょう。 富士を愛でつつ新年を迎える、それも佳きこと哉。 太平洋の海と富士山、わが街には日本の原点があるように思います。

平成21年睦月



昼下がり ゆらゆら浮かぶ 二羽の鴨 


豊橋の中心部を、脈々と流れそそいでいるのが豊川。 ふるさとの母なる川です。中学校時代には、この豊川の川べりを友と練り歩きました。 それは、豊橋中部中学校の恒例の行事で、「豊川ビックウォーク30」と呼び、 早朝に中学校を出て、豊川沿いを30km歩いて、中学校に戻ってきます。 この行事は今日も継承されています。そして、当時も今も豊川の風景は変りません。 その昔このあたりは、東海道五十三次の宿場町で、「吉田」と言われていました。 それが明治になると、この豊川に掛かる「豊橋」という橋の名前から 「豊橋」に名前を変えたのだと聞いています。 それほど、この橋とこの川は、わが故郷にとっての象徴のような存在だったのだと思います。 そして、この川の水によって、命をいだいて来たのだと感じます。

すぐそこは三河湾の海でもあり、このあたりはその昔、魚が多くとれたそうです。 そのなごりか、練り製品のちくわや佃煮が産業となり、今日にいたり豊橋名物となっています。 こちらでは、ちくわをいれた、赤みその味噌おでんが美味しくなる時節でもあります。 豊橋のちくわもおすすめです。そして、今なお変らない光景としては、水流に身を任せて、悠々と泳いでいる鴨たち。 この季節、渡り鳥たちが飛来して、冬を越して行くのです。 南に西に海があり風も強い土地柄ですので、陽光を浴びると、水量の多い豊川には白浪がたちます。 その白浪を何度も越えては越えて、鴨たちは雄雌のペアで泳いでいます。 時に、その周りに小鴨がぐるぐるとまわっています。 このカップルが、こちらにも、あちらにも。 仲良く離れずゆったりと浮かんでいる姿は、愛らしくも何かほっとさせてくれます。 いよいよ今年も1ヶ月を残すのみとなり、この街も慌しくなって参ります。 しかし、あの鴨のような心持ちで、この師走を走り抜けて行きたいものです。

平成20年師走



ココはどこ メタセコイアが 色づけり 


豊橋の街路樹も、刻々と表情を変えて行きます。 この色彩の妙を楽しめるのがケヤキ並木です。 しだいに、しだいに色づいていく過程にも趣があります。 そして、ケヤキは木によって色合いが異なるのも魅力です。 特に、豊橋市役所前を基点とした蒲郡街道(国道23号線)は、 ケヤキ並木が800mほど続いています。 こちらの木々は、樹齢もかなりと思われる名木の域です。 中央分離帯に立ち並ぶケヤキ大木の両脇には、豊橋には珍しい三線ある車道と、 車道にも劣らない広々とした歩道がこの通りの特長です。 歩道が広い分、いろんな角度からケヤキを眺めることもできます。 このヤケキの1年間は、実に変化に富む表情豊かなものです。 そこで、思いついたことがあります。同じ場所でケヤキの写真を1年間撮り続け、 できた写真を重ねて、アニメーションの原画のようにぺらぺらめくって行く。 きっと見事な季節絵が完成するのではと想像しました。

それでも、木の葉が一番美しいのは、散る間際の紅葉なのかもしれません。 特にココ豊橋で美しいのが、豊橋動植物公園の中にあるメタセコイア並木。 中央門から展望塔までの500mほどのメインストリートの両脇に立ち並び、 その数は130本と言われています。 針葉樹らしい端正な樹形が特徴ですが、この木を見ると、 タイムマシーンで大昔の世界にやって来たかのような錯覚に陥ります。 悠久の昔から現存していた木で、すでに絶滅種とされたいました。 ところが、1945年に中国四川省で発見。 当時は、「生きた化石」として話題になりました。 豊橋では、動植物園内に併設される恐竜博物館(自然史博物館)を意識して植樹されたものと思われます。 樹形も魅力的ですが、その色づきのレンガ色もお見事です。 気品あるロマンティックな雰囲気が漂います。 もしや、その昔、夕日を浴びた恐竜たちも、この色合いにうっとり見とれていたのかもしれません。 レンガ色は12月初めですが、いつ眺めても色付きが違い、その色彩の妙は今日も楽しめます。

平成20年霜月



冴えわたり 色艶やかな 次郎柿 


ひんやりとした朝を迎えて、深まりゆく秋を感じます。 わが故郷の山といえば、石巻山(いしまきさん)。 とんがり山なので、一目で分かります。 この季節、その石巻山のふもとでは、次郎柿(じろうがき)が赤々と実っています。 その柿畑は、わが故郷の風物詩です。 この次郎柿のネーミングには、やはりジロウさんが関わっています。 素敵なお話ですのでご紹介いたします。 そのジロウさんは、お隣静岡県の森町にいた松本治郎さん。 江戸時代の終りごろに、松本さんは、水害のため防波堤の修繕をしていました。 その時、一本の柿の苗を見つけます。 その苗を植えてみたのです。桃栗三年柿八年というように、 長い年月を経て、ようやく実った柿は四角く、時期が早いのに非常に甘い柿だった。 年を数える毎に実の数も増えました。松本さんは大喜び。

ところが、明治三年の火災によって、その柿の木が焼けてしまう。 松本さんは、わが子を失ったように悲しみに暮れます。 その時、松本さんの一筋の涙の雫が、焼け朽ちた柿の木に落ちました。 すると、なんと根部からまた新しい苗が芽生えたのです。 そして、以前にも増して良い実を結ぶようになりました。 この奇跡の柿を、松本治郎から「次郎柿」と名付けました。 そして、峠を越えて、わが街の石巻にもやって来ました。 今では「甘柿の王様」とも呼ばれるようになりました。その時、この次郎柿のおいしさのポイントは、食感と言われています。 よく見かける富有柿はネットリとした食感であるのに対して 次郎柿の肉質は硬くカリカリとしていて、心地よい歯触りを楽しむ事ができます。 また、少し置いておくと熟して甘くなります。 カリカリからトロッとした食感に変わります。 この甘みがお好みの人もいるようです。 この季節、柿畑の広がる石巻山方面に車を走らせば、 道路沿いの無人販売所でも気軽に次郎柿を買えます。 ジロウさんの涙を思い、いっぱいの愛情が込められた甘柿をご堪能下さい。

平成20年神無月

お料理上手は幸せ上手
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